藤原秀人(ふじわら・ひでひと) フリージャーナリスト
元朝日新聞記者。外報部員、香港特派員、北京特派員、論説委員などを経て、2004年から2008年まで中国総局長。その後、中国・アジア担当の編集委員、新潟総局長などを経て、2019年8月退社。2000年から1年間、ハーバード大学国際問題研究所客員研究員。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
外部の視線は歯牙にもかけず厳格なコロナ対策をとり「素晴らしい」五輪をめざすが……
2回目の北京五輪の開幕(2月4日)が目前に迫った。人権問題を理由にした「外交的ボイコット」は、習近平総書記率いる中国共産党にしてみれば、14年前にあった夏の大会でも経験した想定内の外交戦だろう。一方で、オミクロン型コロナウイルスをどう抑え込むかという未知の難題は残る。
とはいえ、振り返ってみれば、前回の五輪も決して平穏だったわけではない。日本を騒がした「毒ギョーザ事件」やチベット騒乱、さらに四川大地震などの困難をくぐり抜けての開催だった。
今回も、外からの視線など歯牙にもかけず、厳格な「ゼロコロナ」対策といった太い“如意棒”を振り回す「中国共産党式五輪」が、繰り広げられるに違いない。そこには、国際社会と向き合う五輪開催を機に、中国での民主主義や人権問題の発展に期待する「私たちの五輪」はおそらくない。
だが長く中国を見つめてきた私にとって、北京五輪はやはり特別なものだ。
私は2008年夏の北京五輪開催が決まった2001年7月13日、朝日新聞論説委員として社説つくりに加わった。翌日掲載された「肩いからせない祭典に」という見出しの社説は、共産党による1党独裁や人権問題などの問題を指摘しつつ、「世界は中国に大きなチャンスを与えた」と述べて、民主主義や人権の発展を促した。
その3年後、私は現地に特派員として赴任、初の北京五輪を迎えることになる。スローガンは「同一個世界、同一個夢想(一つの世界、一つの夢)」だった。
五輪開催時に現地にいるというチャンスを得た私は、政治や経済の動き、そして人々の営みから、ささやかでも変化を感じようとしていた。
五輪が近づくにつれて、北京の街並みは一変していった。再開発のため立ち退きを迫られ、荒っぽく壊されていく我が家の前で、涙を枯らす人々が後をたたない。防犯カメラや監視カメラが日ごとに増えていく気がした。
一方で、「手機」(携帯電話)やインターネットの普及により、人々の情報量が圧倒的に増えていった。
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