谷田邦一(たにだ・くにいち) ジャーナリスト、シンクタンク研究員
1959年生まれ。90年、朝日新聞社入社。社会部、那覇支局、論説委員、編集委員、長崎総局長などを経て、2021年5月に退社。現在は未来工学研究所(東京)のシニア研究員(非常勤)。主要国の防衛政策から基地問題、軍用技術まで幅広く外交・防衛問題全般に関心がある。防衛大学校と防衛研究所で習得した専門知識を生かし、安全保障問題の新しいアプローチ方法を模索中。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
基地がないのに脅かされる暮らし―全国の住民リレーで実態明かし、解決の糸口に
爆音をまき散らしながら、頭上すれすれの高度で飛び回る米軍機の低空飛行訓練が、日本列島の各地で増えている。山影から突然現れ人家の軒先をかすめては、すさまじい騒音で住民たちの生活を破壊したり、墜落事故や部品落下などを起こしたりしている。米軍や自衛隊の航空基地を抱える地域も同じような問題にさらされているが、低空飛行訓練は近くに基地がないのにひんぱんに繰り返され、住民たちは国内法令を無視した乱暴な飛行に長く泣き寝入りを強いられてきた。
そうした中で最近、同じ苦しみを共有する住民らが身近なツールを使って連携し、ひどい飛行実態をあばいて問題の解決の糸口にするようになった。規模はまだ小さい。試行錯誤の連続でもあるが、ネットワークが広がればひょっとすると有効な対抗手段になるかもしれない。
このシリーズでは、そうした始まったばかりの住民たちのささやかな取り組みを紹介しながら、米軍機による低空飛行訓練の実態がどこまでひどいのか、またなぜ彼らはそんな訓練をするのか。国内法を無視するかのような訓練を日本政府が野放しにしているのはどうしてなのか、といった疑問にも焦点を当て、3回にわたって報告する。
(連載第2回「パソコンひとつであぶり出す 隠されてきた実態」はこちら、第3回「日米の『密約』が存在、違法飛行野放しの政府」はこちら)
日本国内で米軍機の低空飛行訓練が始まったのはいつごろだろう。
米軍活動を監視する市民団体「リムピース」の編集長を務めた頼(らい)和太郎さん(2021年12月死去)は生前、「米空母が横須賀基地(神奈川県)に常駐するようになった時からではないか」と話していた。
米空母が初めて日本を事実上の母港にしたのは、50年近く前の1973年の「ミッドウェー」。50機余りの艦載機が厚木基地を拠点に活動し始めた。「海軍の艦載機パイロットには、低空飛行訓練が義務づけられていて、当時からやっていたと考えられます。空母が入港し陸上の基地に移ったあとも、練度維持が必要だからです」と頼氏は分析していた。
米国との間で日米安全保障条約を結ぶ日本には、受け入れた米軍部隊に訓練場所を提供する義務がある。政府は、米軍機が自由に使えるようにと全国28カ所(沖縄20カ所、本土8カ所)もの広大な訓練空域を提供している。空の安全を脅かす低空飛行訓練も本来ならそこでやるべきなのだが、やがて米軍機はそれ以外の全国の空でも訓練するようになった。
とりわけひどかったのが東北や近畿、中国、四国だ。米軍の部隊編成の見直しもあって、年代によって変化があり近年は東北地方での実施が減り、主に中国・四国・九州地方に集中するようになっている。
そうした実態のごく一部を、朝日新聞の夕刊連載「(現場へ!)米軍機低空飛行訓練を追う」(2021年3月、全5回)で取り上げた。