だれもが感じているように、私たちの周囲では、外国籍の人や外国ルーツの人たちがおおぜい暮らし、働き、日々を営み、私たちと同じように、この社会を支えています。
日本の社会は、多様な人びとや文化を内包しています。私たちが直面しているのは「これから国を開くか、開かないか」などという問題ではなく、すでに身近な存在である彼ら彼女らと共に、より暮らしやすい社会をつくっていくという課題のはずです。
にもかかわらず私たちは、ともすれば現実から目を背け、多様なルーツをもつ人を「いない」ことにしたり、単なる「労働力」とみなしたりしてこなかったでしょうか。
「日本はすでに移民社会だ」と指摘している髙谷幸・東京大学准教授に、この国の現状と、多様な背景を持つ人々が共生していくための課題・作法について伺いました。髙谷さんは、NPO法人「移住者と連帯する全国ネットワーク」(移住連)の理事も務め、外国ルーツの人々の権利や尊厳をまもる活動に取り組んできた方です。
問われているのは、私たちがもつ「日本」や「日本人」の自画像なのかもしれません。「論座」はこの問題を考えるため、「多様なルーツの人がつくる日本社会 ~『ウチとソト』、心の壁や差別をどう越えるか~」と題するオンラインイベントを2月18日に開催し、髙谷さんにもご出演いただきます。こちらにもぜひご参加ください。
髙谷 幸〈たかや・さち〉 東京大学大学院人文社会系研究科准教授、NPO法人「移住者と連帯する全国ネットワーク」(移住連)理事。移住連のインターンや専従職員、岡山大学大学院と大阪大学大学院の准教授を経て現職。専門は移民研究・国際社会学。著書に『追放と抵抗のポリティクス――戦後 日本の境界と非正規移民』、編著書に『移民政策とは何か――日本の現実から考える』。
「移民ではない」という仮想現実
――日本は建前としては、いわゆる移民政策はとらないという方針を維持しています。しかしながら、実態として日本はすでに移民社会である、と指摘していますね。そもそも移民とはどういう人たちなのでしょうか。
難民条約で定義されている「難民」と比べると「移民」という言葉に普遍的な定義はなく、使う人によって意味合いも違ってきますが、国境を越えて別の国に移動し暮らしている人というのが、一番広い定義でしょうか。国連の場合は、12ヶ月以上、定住する国を変更した人を長期あるいは永住移民としています。
ただ、日本政府の場合は、こうした広い定義とは異なる独自の意味で、この言葉を使っています。それは、現に受け入れている人たち、現に日本に住んでいる外国籍の人たちは、移民ではない、だから日本は移民政策をとっていない、と説明するための言葉の使い方です。
その場合の「移民ではない」とはどういう意味かというと、滞在期限がある人たちであり、家族帯同を認めていない人たちである、ということです。これは逆に言えば、滞在期限がなく家族帯同で日本に住んでいる人は「移民」ということになるはずです。
外国人労働者政策について言えば、日本政府は以前から独自の言葉づかいを用いて現実を見ないことにする、ということをやってきましたが、この「移民政策はとらない」という言葉は、そうした姿勢が特に顕著に現れた言い方だと思います。
――「移民政策はとらない」という言葉は、安倍晋三元首相がよく使っていました。
それまで日本では「移民」という言葉はほとんど使われていませんでした。実際、「外国人労働者」という言い方が一般的で、だからこそ「なぜ『移民』という言葉が使われないのか」という問い自体が専門的な議論の対象にもなってきました。そういう意味では、否定的な意味とはいえ、安倍さんが「移民」という言葉を明確に使ったことは、別の意味で画期だったと思います。
――しかし、政府がそういうかたちで事実上定義してしまった意味において、「移民」は実際にいるということになるのでは。
そうですね。滞在期限がなく家族帯同で日本に住んでいるという意味では典型的には日系人やその家族です。でもこれは「親族訪問」という名目で受け入れているので、政府としてはあくまで「移民として受け入れているわけではない」ということになります。
――では、政府の「移民政策はとらない」という説明は、いったいどういう政策を示しているのでしょうか。
一般的に「移民政策」は、大きく二つに分けられます。一つは「出入国管理」。もう一つは「統合政策」あるいは「包摂政策」と呼ばれる、いったん入国した人たちの生活を支え、社会に順調に統合されていくことを支えるための施策です。
日本で「移民政策はとらない」と政府が言う場合、後者の統合政策をやらないんだという宣言として捉えられると思います。

髙谷幸・東京大学准教授