多文化共生の作法
2022年02月14日
だれもが感じているように、私たちの周囲では、外国籍の人や外国ルーツの人たちがおおぜい暮らし、働き、日々を営み、私たちと同じように、この社会を支えています。
日本の社会は、多様な人びとや文化を内包しています。私たちが直面しているのは「これから国を開くか、開かないか」などという問題ではなく、すでに身近な存在である彼ら彼女らと共に、より暮らしやすい社会をつくっていくという課題のはずです。
にもかかわらず私たちは、ともすれば現実から目を背け、多様なルーツをもつ人を「いない」ことにしたり、単なる「労働力」とみなしたりしてこなかったでしょうか。
「日本はすでに移民社会だ」と指摘している髙谷幸・東京大学准教授に、この国の現状と、多様な背景を持つ人々が共生していくための課題・作法について伺いました。髙谷さんは、NPO法人「移住者と連帯する全国ネットワーク」(移住連)の理事も務め、外国ルーツの人々の権利や尊厳をまもる活動に取り組んできた方です。
問われているのは、私たちがもつ「日本」や「日本人」の自画像なのかもしれません。「論座」はこの問題を考えるため、「多様なルーツの人がつくる日本社会 ~『ウチとソト』、心の壁や差別をどう越えるか~」と題するオンラインイベントを2月18日に開催し、髙谷さんにもご出演いただきます。こちらにもぜひご参加ください。
髙谷 幸〈たかや・さち〉 東京大学大学院人文社会系研究科准教授、NPO法人「移住者と連帯する全国ネットワーク」(移住連)理事。移住連のインターンや専従職員、岡山大学大学院と大阪大学大学院の准教授を経て現職。専門は移民研究・国際社会学。著書に『追放と抵抗のポリティクス――戦後 日本の境界と非正規移民』、編著書に『移民政策とは何か――日本の現実から考える』。
――日本は建前としては、いわゆる移民政策はとらないという方針を維持しています。しかしながら、実態として日本はすでに移民社会である、と指摘していますね。そもそも移民とはどういう人たちなのでしょうか。
難民条約で定義されている「難民」と比べると「移民」という言葉に普遍的な定義はなく、使う人によって意味合いも違ってきますが、国境を越えて別の国に移動し暮らしている人というのが、一番広い定義でしょうか。国連の場合は、12ヶ月以上、定住する国を変更した人を長期あるいは永住移民としています。
ただ、日本政府の場合は、こうした広い定義とは異なる独自の意味で、この言葉を使っています。それは、現に受け入れている人たち、現に日本に住んでいる外国籍の人たちは、移民ではない、だから日本は移民政策をとっていない、と説明するための言葉の使い方です。
その場合の「移民ではない」とはどういう意味かというと、滞在期限がある人たちであり、家族帯同を認めていない人たちである、ということです。これは逆に言えば、滞在期限がなく家族帯同で日本に住んでいる人は「移民」ということになるはずです。
外国人労働者政策について言えば、日本政府は以前から独自の言葉づかいを用いて現実を見ないことにする、ということをやってきましたが、この「移民政策はとらない」という言葉は、そうした姿勢が特に顕著に現れた言い方だと思います。
――「移民政策はとらない」という言葉は、安倍晋三元首相がよく使っていました。
それまで日本では「移民」という言葉はほとんど使われていませんでした。実際、「外国人労働者」という言い方が一般的で、だからこそ「なぜ『移民』という言葉が使われないのか」という問い自体が専門的な議論の対象にもなってきました。そういう意味では、否定的な意味とはいえ、安倍さんが「移民」という言葉を明確に使ったことは、別の意味で画期だったと思います。
――しかし、政府がそういうかたちで事実上定義してしまった意味において、「移民」は実際にいるということになるのでは。
そうですね。滞在期限がなく家族帯同で日本に住んでいるという意味では典型的には日系人やその家族です。でもこれは「親族訪問」という名目で受け入れているので、政府としてはあくまで「移民として受け入れているわけではない」ということになります。
――では、政府の「移民政策はとらない」という説明は、いったいどういう政策を示しているのでしょうか。
一般的に「移民政策」は、大きく二つに分けられます。一つは「出入国管理」。もう一つは「統合政策」あるいは「包摂政策」と呼ばれる、いったん入国した人たちの生活を支え、社会に順調に統合されていくことを支えるための施策です。
日本で「移民政策はとらない」と政府が言う場合、後者の統合政策をやらないんだという宣言として捉えられると思います。
――日本の外国人受け入れの特徴は「単純労働者は受け入れない」と「定住化を阻止する」の二つだと指摘していますね。これもその「移民政策はとらない」政策の現れでしょうか。
「移民政策はとらない」という方針はそれらの帰結と言った方がよいかもしれません。単純労働者を受け入れない方針は1960年代から一貫していましたが、1989年の入管法改正の議論のなかであらためて確認されました。
日本はヨーロッパなどと比べると戦後の高度成長期に外国人の大量の受け入れをしませんでした。しかし1980年代の経済成長で外国人労働者が急速に増えたことで、その対応が求められることになりました。そこでは、この問題で先行するヨーロッパ諸国、特にドイツの事例などが参照されました。
当時は、「外国人労働者は短期で受け入れたとしても自然と定住し、家族を呼び寄せ、二世も含めて大人数が長期間滞在することになる。そうなると例えば不況時の失業問題など、色々な社会問題を引き起こす存在になる」というかたちの議論が中心になりました。
これは、社会学者の梶田孝道さん(故人)が議論されていることですが、ひとたび受け入れたら必然的に定住につながるので、単純労働者を受け入れないという方向に議論が進んだわけです。これは、後発受け入れ国として、先行するヨーロッパの「失敗」をある意味で過剰学習したのだと指摘されています。実際には、ヨーロッパの受け入れは「失敗」と一言で片付けられるものではありません。
――ただ、現実には現在、コンビニでも建設現場でも農業の現場でも、たくさんの外国人が働いています。建前と実態がその後、大きく乖離していったのでしょうか。
実は初めから乖離していたんですね。というのも、1989年の入管法改正の際も、外国人労働者がすでに目に見えて増えていたからこそ、そうした議論が起きたわけです。
当時はいわゆるオーバーステイ(在留許可の期限を超過した滞在)で働いている外国人が増えていることが問題視され、何らかの対策が必要だということになりました。しかし、単純労働者を受け入れないという国の方針は変えないまま、まず日系人を受け入れ、新たに「研修」という在留資格を独立に設けてそれを1993年の技能実習制度につなげました。
あくまでも単純労働者ではないという体裁ですから、日系人は親族訪問、技能実習生は技術移転を通じた国際貢献という名目で受け入れることにしました。よく指摘されるように「サイドドア」から受け入れたということです。建前と実態をさらに乖離させていく方向の制度が作られ、そこから30年間、乖離がより拡大していったと言えると思います。
――しかし、人間なら当たり前の営みとして、暮らし始めた場所で恋愛もするし結婚もするし子どもも生まれる。定住化を阻止するために家族帯同を認めないといっても、実際には家族や子どもができる場合もあるわけですから、現実と乖離した政策をとることによる問題は大きくなってくるのではないでしょうか。
その通りで、例えば日系人は、建前と現実が大きく乖離した存在です。単純労働者は受け入れないとしながら、現実には日系人は非熟練労働現場で働いていることが多い。また、「定住化の阻止」の対象には日系人は当てはまりませんけれども、「移民政策はとらない」という方針があるために、日本には統合政策がない。ですから、日系人の子どもたちは、学校などで放置された存在になりがちで、結果として高校進学が困難になるなどの問題が起きています。
これはまさに建前と現実の乖離がもたらした一つの帰結で、置き去りにされた存在が生じてきたということになると思います。
それからもう一つ、定住を制度的に制限することがいかに問題をもたらしているかは、最近よくニュースにも取り上げられていますが、技能実習生の妊娠や出産が事実上禁止されている問題が物語っています。
――技能実習生の女性が赤ちゃんを遺棄したとして逮捕された事件も起きました。「会社に知られたら日本にいられなくなってしまう」と語ったそうです。
厚生労働省は「技能実習生にも男女雇用機会均等法は適用されるので、妊娠などで不利益を与えてはならない」とは説明していますが、現実問題として、技能実習生が日本で子どもを産み育てることは非常に難しいです。
法によって規制されているわけではないのに、妊娠や出産を禁じる日本の監理団体や、送り出し国のエージェンシーが少なくないのが実態です。これは元をたどれば、やはり日本の制度自体が、労働を離れた部分で営まれる技能実習生の「生活」というものを想定しておらず、とにかく「働く時だけいてね」という前提に基づいていることがあると思います。労働市場のなかでしか認められていない存在になってしまっているということです。
――技能実習生は最低賃金以下で働いている人が多い。技能実習生以外でも仕事を失うと在留資格を失うことがあるので、ハラスメントに遭っても雇用主に従わざるを得ないという問題も生じています。定住化あるいは統合のための政策をとらないという方針が、外国人の人権を軽視し、限定的にしか保障しない現状につながっている面もあるのではないでしょうか。
1978年に最高裁が出したマクリーン事件判決は、外国人の基本的人権は在留制度の枠内で保障されるに過ぎないとしています。その後、日本は、この判決と齟齬をきたすはずの国際人権条約を批准しましたが、現実問題としては、在留資格がまず重視される運用が続いています。
在留資格には幾つかのパターンがありますが、働いている人の場合は、基本的には雇用契約と在留資格が結びついているわけですから、仕事を失った時期と在留資格の更新時期が重なった場合など、失職が在留資格の喪失につながる場合があります。このように、制度が、外国人の権利が現実的に保障されない状況を生んでいる面があります。これはやはり、人権よりも在留資格が上にあるという発想が根底にあると考えざるを得ません。
――「移民政策をとらない」という建前を掲げ続ける理由として、日本の場合は、いわゆる単一民族国家の神話、一つの大きな家族のようにつながっている者がこの社会のメンバーである、という意識が影響している面もありますか。
各国の世論の比較調査を見ると、外国人労働者の受け入れに日本の人々が特に排他的ということはなく、むしろ相対的に寛容で、現実的な判断をしていることを示しています。つまり、世論と政策が乖離している面が強いのではと考えています。
与党自民党のなかには、移民受け入れに強く反対している保守層を代弁するグループが常にあります。一方で、経済の活性化・維持のためには安い労働力が必要だという、いわば経営者層の利益に近い発想の人たちもかなりいます。
この二つの要求を両立させるためには、表向きは単純労働者ではなく、移民にはならない存在として限定的に外国人材を受け入れるというかたちの技能実習生や特定技能1号が都合がよいということだったのでしょう。
では現在の野党はどうなのかというと、やはり基本的には外国人労働者の受け入れに対しては消極的です。野党の支持基盤である労働組合は元々、国内の労働条件の低下を招きたくないので、新たな労働力受け入れには否定的です。技能実習制度の適正化や人権の重視を訴えることはしても、移民の問題に正面から向き合い積極的に新しい制度に転換させようという動きは、あったとしてもごく一部だったと思います。
結局、外国人受け入れの問題は、選挙で票を取れる政策ではないので、無理に議論を巻き起こすよりは、現在の制度を使っていこうという現状維持に傾きがちです。
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