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ウクライナ問題が抱える困難の本質と日本の役割~ロシアの軍事侵攻で事態が急転

冷戦終了とソ連邦の崩壊で形成された欧州安全保障制度を再構築する重大な転機に

東郷和彦 静岡県立大学グローバル地域センター客員教授 静岡県対外関係補佐官

 ロシアの軍事侵攻でウクライナ問題の緊張度が高まっています。長い歴史を持つこの問題の本質はどこにあるのか。日本政府はどう向き合うべきなのか。外務省でソ連課長やモスクワ大使館次席公使、欧州局長などを歴任、ロシアに詳しい東郷和彦氏が詳細に解説します。(論座編集部)

ロシア国民にウクライナでの軍事作戦の開始を告げるプーチン大統領=ロシア大統領府公式ページより

ロシア・ウクライナへの攻撃を開始

 2022年2月24日、ウクライナ情勢が急転した。ロシア国防省はウクライナの防空システムを破壊した旨発表。ウクライナ国境警備当局は、ロシア軍の隊列が、ウクライナ北部チェルニヒワ、東部ハリコフ、東部ルガンスクの各州に侵入したと伝えた(ロイター)。ゼレンスキー政権は、ウクライナ全土に非常事態宣言を発出するとともに、ロシアとの外交関係の断絶を発表した。

 直前の動きとしては、2月21日プーチン大統領は、安全保障会議を開き、ウクライナ東部の親ロシア派支配地域の二つの「共和国」(「ドネツク人民共和国」「ルガンスク人民共和国」)の独立を承認。両共和国との間に「友好相互援助条約」を締結した。この動きは、以下にのべるように昨年12月ごろから本格化した「ウクライナ危機」においてドネツク・ルガンスクに住む35万のロシア系住民の安全と権利保障の問題が喫緊の問題であるとしてとられた措置であった。

 しかし、24日の攻撃によって、ウクライナの軍事力に壊滅的打撃を与えるという戦争目的が加わった。急変する事態の中で、本稿ではまず、ドネツク・ルガンスクを含めてウクライナ問題が抱えている困難さについて、2月21日以前の情勢に遡って述べることとしたい。

 他方、いうまでもなく、今起きている問題の本質は、ウクライナ一国の問題ではなく、冷戦の終了とソ連邦の崩壊によっていったんは形成されたヨーロッパ安全保障制度の再構築という巨大な重みをもつ問題である。次にそのことについて述べたい。その問題についての理解を持つことが、なぜ24日に「ウクライナ軍事力に壊滅的打撃を与える」という目的が加わったかを理解する鍵になるからでもある。

 最後に、日本外交がこの問題についていかなる役割を果たしているか、みるべき役割を果たすことができず、大きな機会を失いつつあるかもしれない現状について、筆者の考えるところを述べることにしたい。

モスクワで2月21日、「ドネツク人民共和国」と「ルガンスク人民共和国」の独立を承認する大統領令に署名するプーチン大統領。ロシア大統領府が写真を公表した

極めて複雑な歴史をたどったウクライナ

 ウクライナの歴史は極めて複雑である。

 東部ウクライナは、ロシア語を話し、ギリシャ正教を信じ、ロシアと親和的であり、首都キエフもそういう背景をもっていた。一方、西部ウクライナ、すなわちガリツィア地方は、リヴィウを中心とし、ウクライナ語を話し、カソリックを信じ、歴史的にはハプスブルグ帝国の統治下にあった。

 第一次世界大戦からロシア革命に至る激動期において、革命政権存続のために政権を主導したボルシェビキは、ブレスト・リトフスク条約で一時ウクライナの施政権を放棄した。しかし、事態が落ち着くと、施政権を回復。独立を企図したガリツィア地方の意向は実現されなかった。

 第二次世界大戦でヒットラー指導下の第三帝国は、ソ連侵攻作戦で南部からウクライナに侵攻した。ウクライナ西部の独立派はその機に独立しようと企図するが、戦争はソ連の勝利に終わり、ガリツィア地方はソ連邦の構成国たるウクライナの一部となり、西部の独立派は難民としてカナダに逃れた。

 カナダでウクライナ語は英語・フランス語に継ぐ第三言語となり、ウクライナ・アイデンティティを保つ社会として存続した。1991年のソ連邦崩壊とウクライナの独立は、これらの在外ウクライナ人の帰国と祖国における「正当な」権利回復運動の開始を告げるものとなった。

 爾後ウクライナの政治は、ロシアに対し親和的な政権と欧米に対し親和的な政権が交代する微妙な政治バランスの下に推移した。ウクライナ独立を主導したが、その分ロシアとの関係を大事にしたクラフチュク。続くクチュマ大統領についで、05年には「オレンジ革命」で親西欧の旗印を高く掲げたユシュチェンコ大統領、10年にはこれを巻き返した親ロ派のヤヌーコビッチ大統領へと、シーソーのように揺れる政局が続いたのである。

Tomasz Makowski/shutterstock.com

「ミンクス合意」とロシアのレッドライン

 2014年2月のユーロ・マイダン(ウクライナの抗議運動)によって、ヤヌーコビッチ大統領がキエフから放逐されると、プーチンはこれをクリミア回復へのきっかけとした。クリミアはロシア人にとって民族の記憶とアイデンティティが残る場所である。国民投票と軍事力によりクリミアは併合された。

 しかし、キエフで暫定政権を担ったヤツニューク首相は、東部においてウクライナ語の使用を進める政策を採用した。この政策は、ロシア語を公用語とするドネツクとルハンスク州で猛烈な反発を惹起し、ロシア軍の動員が伝えられた。新たに大統領に選出されたポロシェンコは、2014年9月及び2015年2月に独仏の賛同をえて「ミンスク合意」を結び、ドネツク・ルハンスク問題の解決を企図するが、事態の鎮静化にはいたらなかった=拙著『危機の外交』(角川新書、2015年)202~210ページ。

 2018年11月8日にはドネツク・ルハンスクで総選挙が実施された。指導者も議会も概ねロシアとの融合派が選出されたが、ウクライナや欧米はこの結果を認めず、2019年5月に選出されたゼレンスキー大統領に至っては、「ロシアとの融合派はテロリストなので自分は会わない」と公言した。

 こうしたウクライナの事情を勘案すると、プーチン大統領にとって、ドネツクとルハンスクに住む35万(佐藤優『中央公論』2022月3月号、198ページ)のロシア系ウクライナ人、ロシアとウクライナの二重のパスポートを持つ人たちの安全と権利が守られることが、絶対に守られなければならない、今回のオペレーションの課題であると理解される。

 プーチンは、彼らが意思に反してウクライナ化されることを許せないし、許さない。ロシア・ウクライナ・独・仏がドネツク・ルハンスクのウクライナ内における自治を認めたミンスク合意の要諦(ようてい)もそこにある。

 とすれば、事態の安定化の鍵を握るのは、ゼレンスキー・ウクライナ大統領が35万のロシア系ウクライナ人の「現状維持」を保証するかである。さる2月7日、プーチン・マクロン両大統領は、6時間の対話を行い、和平実現のために本格的な議論が始まった。現時点におけるロシアの本当のレッドラインがどこにあるかをマクロンが理解し、ショルツ、バイデンと連携してウクライナの同意をとりつけるなら、当面の戦争はさけられるはずであった。

ゼレンスキー・ウクライナ大統領 Photographer RM/shutterstock.com

ロシア軍配備急増の意味は何だったのか

 今回、ウクライナ危機をめぐり「戦争一歩手前」というような報道が世界を駆け巡り始めたのは、2021年12月初めに米国紙がロシア軍の国境付近における大量動員を伝える大きな報道を掲載したことが端緒のようである(12月3日ワシントンポスト:Potential for 175000 Russian Forces Near Ukraine)。

 昨年12月ごろから、ウクライナ国境近くに配備されるロシア軍が急増したのは事実と判断される。アメリカ政府、及びその系統のメディアは、急増の理由は欧州において戦略的優位を得ようとするプーチンの作戦準備だとした。

 具体的には、「プーチンは敵」としたうえで、①ドネツク・ルガンスクへのロシア軍の配備、②南はクリミアのロシア軍との連携、③北はバルト三国へのNATO軍の増強を遮断させるスヴァルキ・ギャップの制圧、という戦略を立てているという趣旨である。

 一方、ロシア軍配備急増の原因が、ウクライナ、ないしはNATO側にあるという報道はほとんど皆無であった。一定の政治的基礎をもつドネツク・ルハンスクの指導者を「テロリスト」と断ずるゼレンスキー大統領のポピュリスト的行動と、これを「民主主義政府」として断固守り抜くという米政府の意向に危機意識をもったプーチンが、今後起きうるあらゆる事態に対応するために国境沿いの配備を進めているという、「ロシアの内的ロジック」に立った見方を提供しているのは、筆者の知る限り佐藤優氏の分析が随一である。

 ロシア側がゼレンスキー政権の動向に懸念をもったのは、同政権が親ロシア派が住む東部地域に「自爆型ドローン」で攻撃したことが理由だと佐藤氏は指摘している([東京大地塾」1月27日 参照動画)。攻撃は2021年10月に行われたという報道もある(ヤフー個人2021年11月5日 佐藤仁「ウクライナが初めてトルコ製の攻撃ドローン使用・動画も公開:ロシアは警告」)。

 以上の事態を背景とすれば、2月21日の新たな展開によって「ウクライナの統治が親ロシア派武装勢力が実効支配する領域に及ばない構造ができた以上、ウクライナが、2つの『人民共和国』を叩き潰すという選択をしない限り、これで紛争は沈静化する」(佐藤優、2月22日、「朝日新聞デジタル」)と考えられたし、筆者も同じ考えであった。

ゴルバチョフ時代まで遡るNATO東方拡大問題

 本稿の冒頭で、筆者は今起きていることは、冷戦の終了とソ連邦の崩壊によっていったんは形成されたヨーロッパ安全保障制度の再構築という巨大な重みをもつ問題であると述べた。これは一般に「NATOの東方拡大の問題」として知られる問題である。

 ここで、NATOの東方拡大について考えることは、ロシアが2021年12月17日の文書による提案で、「条約によってウクライナとグルジアをNATOに加盟させないよう約束せよ」と提案していることからも、意義があると思う。また、筆者は外務省で勤務した一時期、NATO東方拡大問題を日本外交の観点から追いかけており、当時の視点を踏まえて現状を分析することには、一定の意味があるとも考える。

 NATOの東方拡大問題の淵源はゴルバチョフ時代のソ連にまで遡る。ペレストロイカ政策によって西ヨーロッパと共通の価値を創り出したゴルバチョフ・ソ連共産党書記長は、1987年から89年にかけて「欧州共通の家」というビジョンを打ち出し、ソ連邦を調和的にヨーロッパに融合することを望んだ。

 1990年2月のドイツ統一交渉において、ベーカー米国務長官、コール独首相、ゲンシャー独外相などがゴルバチョフに対し、ドイツの統一を是認するなら、NATOを東方に拡大させない旨の口頭の“約束”をしたことは、現在おおよその定説となっている(小田健「独統一の際、NATO東方不拡大の約束はあったのか」2022年1月25日)。

 口頭ではあるにせよ、「NATOを東方に拡大させない」と約束したことを反故にされたロシア人の屈辱と怒りは甘く見ない方がいいと、筆者は思う。

ソ連のミハイル・ゴルバチョフ大統領=1991年8月22日、モスクワ

認識が甘かったロシア

 ゴルバチョフ大統領は1991年7月、ワルシャワ条約機構を自ら解体。ソ連邦は同年12月に崩壊したが、継承国となったロシア連邦は、ワルシャワ条約に対抗するために作られたNATOは、その敵対組織であるワルシャワ条約機構がなくなった以上、おのずから解体されるというという期待をもった。

 しかし、このロシアの認識は甘かった。冷戦期、強制的にソ連邦の衛星国とされた旧東欧諸国は、NATOの存続に固執したばかりか、自らそれに参加することを強く望んだ。

 当時、外務省のソ連課長だった筆者は、講演などでこの問題について、「ロシアと東欧諸国は不幸にして離婚することになった。ロシアとしてはつらいところであるが、東欧のNATO加盟は、離婚した妻が自分の一番嫌いなボーイフレンドと結婚するようなもので、ロシアとしてはそれだけは勘弁してくれよと言うような気持ちなのではないか」と述べていたのを思い出す。

NATO・ロシアの「平和のためのパートナーシップ」とは

クリントン米大統領(左)とエリツィン・ロシア大統領=1995年5月10日、モスクワのクレムリン

 ロシアと旧東欧諸国の間で両者を調整する難しい役目を担ったのがアメリカのクリントン政権だった。ロシアとの最初の衝突は、1994年のブダペスト首脳会議に招待されていたエリツィン大統領との間で発生した。最近公表された国務省の内部文書は、その経緯を詳細に公表している。(参照

 その後、クリントン政権で対ロシア政策を担当したストローブ・タルボットとロシアの外務大臣に任命されたエフゲニ・プリマコフとの間で真剣な交渉が続けられ、1997年5月に「NATOロシアの創設協定」(Founding Act)が締結され、そこでNATOとロシアとの間で「平和のためのパートナーシップ」(PfP)という方向性が約束された。

 これは、旧東欧諸国がNATOに加盟する権利を否定はしないが、その運用においては、ロシアとNATOとの関係が悪化しないように、十分の配慮をしていくとい考え方である。ヨーロッパの安全保障からロシアを排除しようという考えとは正反対のものと言ってよいと思う。

 筆者は当時、初めは在ワシントン大使館で、次に在モスクワ大使館で、以上の事態をフォローしていた。タルボットは前職がタイム誌の特派員で、ゴルバチョフ訪日の準備に課長として関わっていた筆者(1988~91年)と親交があった。

 対ロ交渉にあたり、タルボットはジョージ・ケナンに話を聞きに行ったと打ち明け、どうすればエリツィン政権を傷付けずに、東欧が望むNATOの東方拡大を保障できるか呻吟(しんぎん)していると、筆者にぼつぼつと語った。

 その後、筆者は本省の欧亜局審議官の発令を受け(1996年7月)、NATOとロシアが共存する道筋を東京からフォローした。PfPの確定で97年7月に開かれた歴史的なマドリッド首脳会議に、ポーランド・ハンガリー・チェコの3カ国が招待されたことには鮮烈な印象を受けた(3カ国は1999年正式加盟)。

 マドリッド首脳会議は、日本外交に直接的な刺激を与えた。7月24日橋本龍太郎総理は経済同友会演説の冒頭で「ヨーロッパで『大西洋から見たユーラシア外交』が見事に成功したいま、今度は日本の力で『太平洋から見たユーラシア外交』をつくっていこう」という雄渾な枠組みを提言したのである。

崩壊した「大西洋から見たユーラシア外交」

 ところが、このPfPを基礎とする「大西洋から見たユーラシア外交」はある時点で崩壊する。これについては二説ある。筆者がこれまで学んできたのは、2008年の「ブカレストNATOサミット崩壊説」である。

 同説を説明するためには、前段階として2004年のイスタンブール首脳会議に触れざるを得ない。同会議でNATOは旧ソ連の構成共和国であるバルト3国と東ヨーロッパ南部の4カ国同時加盟を認めている。プーチンはなぜ、異議をとなえなかったのか。それは、この時期は2001年9月の同時多発テロへの対抗措置としてアメリカが行ったアフガニスタン攻撃にロシアが積極的に協力し、ジョージ・W・ブッシュ米大統領との間に蜜月状況が続いていたためであった。

 08年4月のブカレスト首脳会議では、共同声明で「NATOは、グルジアとウクライナの加盟に同意する」と明示された。旧東欧諸国どころではなく、ソ連邦共和国内のスラブ共和国として最もロシアに近かったウクライナと、コーカサス3カ国の中で最もロシアに近いグルジアに、東方拡大の照準をあわせてきたのである。

 同会議ではドイツとフランスの慎重論によって、加盟の証となる「加盟国行動計画(MAP)」は「直接加盟を実現する次の段階」として先送りされたものの、ロシア政府は「ウクライナとグルジアの加盟は受け入れられない」と強烈に反発、プーチンも「両国の加盟はロシアに対する直接の脅威」と述べ、モスクワにとっての「レッドライン」がそこにあることを示した。

 以上の説を主唱してきたのはシカゴ大学のジョン・ミアシャイマー教授。同教授はこの説をリアリズムに基づく対ロシア理解としての論文に書くとともに、2015年の公開講座でも明確にのべている(John Mearsheimer “Why the Ukraine Crisis is the West’s Fault” Foreign Affairs September/October 2014

 もう一つの説は、ジョンズ・ホプキンス大学で教鞭をとっていたマイケル・マンデルバウム教授が主唱する「クリントン第2期政権の豹変説」である。

 クリントンは1993年1月20日に大統領に就任、第2期政権は97年1月20日から始まっている。マンデルバウムはPfP自体は絶賛したうえで、それを外交的に実施しようとしていた時点で、同政権が上院にNATOの東方拡大がもつ極度のデリケートさを説明せず、「今後の東方拡大は全く問題ない」と説明したことの無責任さを痛烈に批判している(Michael Mandelbaum, “Anatomy of Blunder” “American Purpose” 2022/01/24)。

 いずれの説が正しいにせよ、ブカレスト首脳会議の影響をもろに受けたのがグルジアなのは間違いない。2008年8月、欧米と親和性の強いサーカシュビリ・グルジア大統領は、ロシアと係争関係のあったオセチアへの影響力拡大のために軍を動かしたが、これを許容できないとするロシア側(メドベージェフ大統領とプーチン首相)もただちに軍を動かし、「1カ月間戦争」が勃発。ロシアの勝利によって終わった。

 これによって、グルジアのNATO加盟の可能性は薄れ、以降、グルジアとNATOとは実務的な協力関係が続いている。

NATO加盟問題は直近の課題としては浮上していなかった

 冷戦終了後の欧州で、多士済々の人々が、冷戦の相互憎悪から抜けきれない欧州を「共存の世界」に作りかえるため、いかに多大な努力をしてきたかを思い起こせば、ロシアが現在、ロシアへの敵対を隠さないNATOがロシアの国境線に迫ることを拒否する心理は理解できるし、その案を今後ともロシアが受け入れることはありえないと思う。

 他方、この問題をNATOの協定上の問題としてみるならば、1949年のNATO創設協定第10条にいう「オープンドア政策」、すなわちNATOの目的に合致する欧州の民主国家のすべてにNATOは解放されているという原則を今後、逸脱させることもありえないであろう。

 そう考えると、ロシアとNATOは激突するしか道はないように見える。ただ、それが現下の喫緊の問題なのか、そこは冷静に見る必要がある。

 NATOの公式文書である「NATO拡大に関する研究」(1995年9月3日作成、2008年11月5日改訂)の第6項は、「民族紛争または領土紛争を有する国はこれをOSCE(欧州安全保障協力機構)の原則に従って平和的に解決しなくてはならない。これらの紛争を平和的に解決しているかどうかが、加盟を許すか否かの判断要因になる」と規定している。

 この規定、あるいは類似のNATOの規定に照らせば、当面はグルジアもウクライナも、実際にはNATOに加盟することにはならないと、NATO研究の専門家の間では指摘されているようである。

 正直いって筆者はこれら専門家の最新の研究を熟知していない。しかし、以上の文書の解釈としては、十分に合理性があるように思う。であれば、ウクライナとグルジアのNATO加盟問題は、喫緊の脅威としてロシアの目には映じていない可能性がある。

 さればこそ、マクロンとプーチンの議論のなかでこれからの問題として。NATO創設協定10条の「オープンドア政策」とその現実的適用について、激しい議論が交わされたと十分に推測できるのではないかと思う。

3回目の大きな転機にさらされるNATO

NATO本部 Alexandros Michailidis/shutterstock.com

 NATOは現在、これからの欧州における安全保障の行く末を決する三回目の大きな転機に立たされている。一回目は1949年のNATO創設。二回目は1989~91年の冷戦の終了とソ連邦の崩壊。三回目が今、プーチンによって提起されている、欧州の安全保障の再構築である。

 この問題の核心は、「ロシアを安定したヨーロッパの安全保障機構の中に組み込むのか否か、組み込むとしたらそれにはどうするか」という問題に他ならない。昨年12月ごろからウクライナの周辺に兵力を集めたプーチンの大戦略には、当然ながら、このことが組み込まれていたと思う。

 だとすれば、今回のプーチンの大戦略は、まずは、ドネツク・ルガンスクの保全がロシアにとってゆずれない喫緊の「レッドライン」ではあるが、その目的が達成されたならば、時をおかず、今後の欧州の安全保障の中に、ロシアを包摂する新しい仕組みをいかにして創るかという問題意識があったのではないか。

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