花田吉隆(はなだ・よしたか) 元防衛大学校教授
在東ティモール特命全権大使、防衛大学校教授等を経て、早稲田大学非常勤講師。著書に「東ティモールの成功と国造りの課題」等。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
かつてない不安定な国際社会。アジアの秩序が張り子の虎と見透かされてはならぬ
世界は、突如として力むき出しの古い時代に逆戻りした。冷戦が終結し、もうそういう世界とは無縁と思っていた。ユーフォリアに満ちたポスト冷戦の時代がガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。いつ、第二、第三のロシアが出現し国際秩序に挑戦状をたたきつけるか分からない。世界は、これまでになく不安定な状態にあり、改めて秩序維持の究極の支柱が力であることを見せつけられた。
2月21日、ロシアがルガンスク州とドネツク州の東部二州独立を承認する旨表明した時、ロシアがこの二州に「平和維持軍」を派遣し、事実上、併合のプロセスを進めていくものと思われた。しかし、プーチン大統領の真意はそうでなくウクライナ全土の掌握だった。
24日、侵攻が始まり、誰もが目を疑うような光景が繰り広げられた。大国が小国の領土に三方面から侵攻、首都キエフに激しい爆撃が加えられ、第二の都市ハリコフでも市街戦が繰り広げられる。プーチン大統領の狙いは、ウクライナにおける傀儡政権の樹立と、それによるウクライナの非軍事化、中立化だった。
27日、ロシアとウクライナは直接交渉を合意。その行方は3月3日段階でなお予断を許さないが、武力を背景にした交渉は仮に妥結することがあるとしてもその中身は知れている。結局、非軍事化と中立化をウクライナが飲むかどうかの交渉だ。
ウクライナ危機は、冷戦後の戦後処理を西側が見誤ったことが大きい。戦争終結に際し、戦後処理をどうするか、それが、その後の国際秩序の安定を決定づける。
戦後処理を誤った典型が第一次世界大戦後のドイツであり、戦勝国が、ドイツ憎しで莫大な賠償を課したことがその後の欧州の不安定化を生み、第二次世界大戦につながっていった。逆に、戦後処理に成功した例が普墺戦争(1866年)であり、ビスマルクは戦後の対オーストリア関係を見据え、敢えてオーストリアへの領土要求を見送った。
冷戦が終結した時、戦後の欧州の安全保障体制をどうするか議論された。ソ連の脅威にさらされ続けた東欧諸国は、NATOへの加盟を強く希望した。西側にも、この際一気にNATOの版図を広げるべしとの議論があった。しかし、同時に、慎重論も有力で、NATO拡大は徒にロシアを刺激するだけと拡大論を戒めた。
間をとって考え出されたのが「平和のためのパートナーシップ(PfP)」であり、これは簡単に言えば、NATOが加盟国とは別にパートナー国を創りそれとの間を緩い協力関係に止めるというものだった。PfPには、ジョージア、ウクライナ、ロシアを含め、多くの国が参加した。その中から後、NATOの正式メンバーになった国も多い。
PfPは、NATOと旧ワルシャワ条約機構国との関係を考えるに際し、時間的猶予を与えるもので、アイデアとして絶妙と思われたが、当時のクリントン米大統領は、自らの再選を目指す政治的思惑もあり、軸足をPfPからNATO拡大に移していく。
それを受け、チェコ、ハンガリー、ポーランド、バルト三国、ルーマニア等が、次々とNATOに加盟していった。残るジョージア、ウクライナに関し、NATOは2008年、ブカレスト首脳会議で「将来的に加盟する」ことを合意する。
しかし、これはロシアを刺激しないではいられなかった。様々な要因も絡み2008年の南オセチア紛争(ロシア・ジョージア戦争)、2014年のクリミア併合、今回のウクライナ侵攻と、その後、この一帯が不安定化していくこととなった。
西側は、ロシアを安全保障の枠組み(NATO)の中に取り込むことなく、常に外に置き続けた。その結果、欧州大陸に新たな分断線が引かれることとなり、安全保障に過敏ともいえるほどの反応を示すロシアは、結局、自らの勢力圏確保に走っていくことになる。
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