運動すれば職場がよくなる、いのちを守れる
2022年03月09日
コロナ禍のもと、病院や診療所、福祉施設などで働く人たちが窮地に立たされています。一方、これらの人たちは、自身の労働条件の改善とともに、人びとのいのちと健康を守るために声を上げてきた歴史があります。その運動を担ってきた日本医療労働組合連合会(日本医労連)の佐々木悦子委員長と森田進書記長に、これまでの歴史や現状とともに、これからどうしようと考えているのかをうかがいました。企画・司会・執筆は政治学者の木下ちがやさん。上下に分けてご紹介します。(論座編集部)
佐々木悦子
(ささき・えつこ)
日本医労連中央執行委員長
1989年看護師免許取得。以降大学病院や自治体病院、国立病院で看護師として勤務。国立病院で勤務しながら労働組合活動を行う。2012年から全日本国立医療労働組合の専従役員となり2020年から日本医療労働組合連合会の専従役員に着任。
森田進
(もりた・すすむ)
日本医労連書記長
1964年生まれ。東京の民間病院で医療事務として働きながら、労働組合役員となり、単組専従者、東京医労連専従を経て、日本医労連専従者として2014年から着任。
司会・木下ちがや
(きのした・ちがや)
政治学者
1971年生まれ。一橋大学社会学研究科博士課程単位取得退学。博士(社会学)。工学院大学非常勤講師、明治学院大学国際平和研究所研究員。著書に『「社会を変えよう」といわれたら』『ポピュリズムと「民意」の政治学』『国家と治安』など。
松下秀雄
(まつした・ひでお)
朝日新聞「論座」編集長
1964年生まれ。朝日新聞政治部記者、論説委員、編集委員を経て現職。
――医労連は168,000人の組合員を組織する日本最大の医療労働者の産業別組合です。戦後の医療者の労働運動はどのように歩んできたのでしょうか。
佐々木)戦後のGHQの民主化政策の一つに労働組合の育成があり、さまざまな労働組合が結成されていきます。1946年に日本赤十字の組合が結成され、1948年には「全医労」という国立病院の労働組合が結成されています。そして1957年1月に医労連の前身である「日本医労協」が結成されます。
当時の看護師の働き方は本当に酷く、たとえば全寮制でした。通勤も許されず、「結婚や通勤せざるを得なくなった場合は退職します」という誓約書を書かされる状態でした。それに対して各地の労働組合が「こんな働き方ではやっていけない」と交渉し、1959年には不十分ながらも厚生省が看護師通勤枠25%の通達をだすような状況でした。
日赤病院では、「結婚している人は不潔だ」という理由で通勤看護師が病院にお風呂があるにもかかわらず使えませんでした。日赤の組合が「日赤の名誉総裁は誰だ」と追及すると、総師長が「皇后陛下です」と。「それでも結婚している人は不潔と言うのか」と追及して使えるようにさせたりもしていました。
1959年には新潟の「国立高田病院妊娠輪番制事件」がありました。当時は看護師の妊娠も年齢で「今年はあなたから」と順番制でした。ですから順番から外れて妊娠をしたら自分で何とか処理しろということにされていました。この高田病院には順番外で妊娠した看護師がいて、出産を認めるかどうかを看護師の互助会の投票で決めるという事件がありました。あまりにも酷いと、ここで働いていた看護師が「朝日新聞」に告発して世論を動かしたのです。
また当時は「1人夜勤」があたりまえで、休憩もとれないし患者の安全を守ることもできない状況でした。ですから「人間らしい働き方をさせろ」という夜勤制限闘争も当時起きています。これは「ニッパチ闘争」といわれ、全医労は人事院に要請を提出するなど全国に運動を展開しました。それを受けて1965年に人事院は、夜勤は原則月平均8日以内、1人夜勤廃止という「夜勤判定」をだしました。
すべてではありませんが病院に院内保育所があります。これは子育てをしながら働き続けたいという看護師の要求をうけて設置を実現したものです。また病院給食を守ること、付き添い料の患者負担廃止、差額ベッド代の廃止、高額医療費の受領委託、患者さんからの贈り物、貰い物廃止という5点セットの「さわやか運動」もすすめてきました。
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佐々木)1980年には「看護婦のオヤジ頑張る」(神山征二郎監督)という映画もつくられています。青森県八戸の日赤に勤務する看護師の夫の「朝日新聞」への「つわりに苦しみながら月12回、時には15回の夜勤、あなたは辛くないですか」という投書が反響をよび、映画化されたものです。
1987年の定期大会で医労協は現在の医労連に改称されます。大会では看護師の現職死や健康実態調査についての訴えがあり、1989年から桜前線にあわせて全国各地で「ナースウェーブ」が行われるようになりました。同年10月に白衣の看護師1300人が銀座でデモを行ない、それを「週刊プレイボーイ」誌が報道して話題になりました。このデモが「ナースウェーブ」の始まりです。
私たちの労働運動は労働基本権のモデルということで中学生の公民の教科書にも載っています。こうした運動の成果として1992年には「看護師確保法」(看護師等の人材確保の促進に関する法律)が制定されました。基本指針に看護師は人員複数で8日以内夜勤と明記されました。
2005年からは大幅増員闘争が始まり、2006年からは国民集会を開催しています。この大幅増員を求める国会請願署名は、2007年に参議院で採択されています。医師、看護師などの医療従事者を大幅に増員すること、看護職員の配置基準を夜間は患者10人に対して看護師1人とすること、日勤は患者4人に対して看護師1人以上と抜本改善すること、夜勤日数を月8日以内に規制することが採択されています。
この国会請願署名が採択されたことでいろいろな前進が生まれています。2007年の介護人材確保法の14年ぶりの改定であるとか、2008年には医師養成定数削減の閣議決定を撤回させたりであるとか、2011年には看護師等の雇用の質の向上のための厚労省5局長通知をださせたりしています。
佐々木)現在は、新型コロナの下で医療現場が過酷な状況になっているということをうけ、これまで5回にわたって新型コロナ禍の実態調査をしました。その結果をもとに記者会見等で世論に訴え、これまで8回にわたり政府に要請も行っています。2020年2月の厚労省の通知では、「業務上の感染が明らかでないと労災には認めない」とされていましたが、私たちの訴えによって「業務外で感染したことが明らかである場合を除き」労災を認めると変えさせました。
こうしたわたしたちの運動に世論の注目も集まり、例えば集団感染クラスターになった京都医労連加盟のある病院では、ガウンの不足を訴えたら1万枚の手作りのガウンが全国から届きました。ガウンには「頑張ってください」「応援してます」という手紙も添えられていました。医療従事者の賃金を上げるべきだという声も寄せられています。一昨年から昨年春にかけて、コロナ禍から国民のいのちと生活を守るため、医療・介護・福祉の拡充を求める「いのちまもる請願署名」にとりくみ、65万筆の署名があつまり、紹介賛同議員は134人にものぼりました。さらに267の地方自治体がこの署名の意見書の採択をしてくれています。
ところがこんなに世論が広がったにもかかわらず、国会はこの署名を審査未了扱いにしたんですね。この時政府は東京五輪の開催に躍起になっていて、このままでは国民のいのちが守れないと全労連や保険医団体連合会、民医連等とともに「医療・介護・保健所の削減やめて!いのちまもる緊急行動」をおこないました。当時の菅総理に対して、医療従事者だけでなくコロナに感染した人やその家族などの声を日本全国から「菅首相への手紙―コロナ禍 私が体験したこと」というかたちで集め、内閣府と厚労省を通じて政府に届けました。
佐々木)コロナ禍で医師、看護師、病床数が足りないといわれましたが、もともと足りていませんでした。病床数もずっと減らされてきましたし、保健所も1990年頃の半分ぐらいにまで減らされています。感染症病床も1984年から比べると8分の1まで減らされています。医師、看護師も諸外国と比較すればすごく少ない。
前回の「いのち署名」は審査未了にされましたが、やはり国民のいのちを守るためには医療体制の充実強化を図らなければならないということで、昨年秋から新「いのち署名」を何とかこの通常国会で採択させようと取り組んでいます。
医療産別の運動の基本は、「医療労働者の要求・実態に根差す」こと、「産別に結集して統一してたたかう」こと、そして「患者・住民・国民と一緒にたたかう」こと、「要求・課題・運動を社会問題・世論にする」こと、「運動を政治の問題にして制度を改善する」ことにあります。これを基本に私たちは運動を進めています。
――お二人はなぜ労働運動にかかわるようになったのでしょうか。
看護師をやりながら組合活動をやるのは大変でしょうといわれますが、組合活動をやるといろいろなことが改善されていく、その面白さがありました。自分たちが働きやすい職場にしていくことが楽しくなりましたので、あんまり大変ということはなかったですね。私はもともと国立病院の組合である全医労にいまして、東北の国立病院の労働組合で構成される東北地方協議会の非専従役員をやっていました。そこで書記長をやらないかといわれ、書記長をやるうちに全医労の本部にこないかといわれ、そうこうしているうちに医労連にきました。
ただ医療事務ですから窓口で患者さんたちと接しますよね。われわれは医師や看護師ではないですから患者さんに直接医療を提供するわけではない。でもすごく丁寧に感謝をしてもらえるわけです。自分が直接医療行為をしているわけではないのにこれだけ感謝される仕事はまずないなあという驚きがありました。
当時はお年寄りの医療費自己負担がゼロだったのが数百円になり、今やもう高齢者は2割、現役世代は3割負担にまで引き上げられました。どんどん患者負担を増やして医療を縮小していく国の政策はおかしいと強烈に疑問を感じて、若かったのもありますが、「あなた役員やりなさい」といわれたのもあり、活動に加わりました。
病院の中で患者さんのサービスをいくらよくしようと思っても、結局国の制度が変わるとサービスの質は落ちるし、患者さんの負担も上がり、病院にかからなくなる。こうした国の制度を変えなくてはならないと強く思い始めて、単組の専従から東京医労連の専従になり、いまは全国の書記長をやっています。
佐々木)当時、青森の八戸はそんなに被害はありませんでした。ただ停電があり翌日には復旧しましたが、ガソリンがなくて通勤できない状態になりました。救急指定された車だけは優先的にガソリンを買えましたが、病院職員も通勤できないと病院が機能しないから救急指定にしろと院長に要求をし、対象にさせたということがあります。
森田)僕は当時東京医労連の書記長でした。大震災が発生して、とにかく東北に支援をしなきゃいけない、しかし東京も被害を受けた病院が結構あり、計画停電で手術を自家発電でやることへの不安の声があがり、そういうことを東京都とやり取りしていました。
ただ一番印象に残っているのは、3月11日の翌週末に春の「ナースウェーブ」を企画していまして、有楽町のイトシア前で医師や看護師の大幅増員を求める宣伝をやることになっていました。これの実行を決断するのには悩みました。交通網も混乱し、計画停電もあり世の中自粛ムードですから、バッシングされる可能性もあるだろうと思ったからです。
悩みながらも義援金を集めつつやってみると、ものすごく励ましの声が集まりました。つらい思いをしながらやりましたけども、やはり医療や介護の必要性をみんな分かっていたんだなと感じました。
――オミクロン株が危機的な状況をもたらしています。
佐々木)オミクロン株の拡大に対して岸田首相は、通常国会の施政方針演説で、水際対策をしっかりやり、医療体制と3回目のワクチン接種の体制を確保したと言明しています。しかし3回目のワクチン接種はすすんでおらず、コロナ病床が増えたといいますが、それは一般病床をまわしただけのことです。結局は一般病床が減っただけ
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