時代に適合する行政のあり方を追求したはずなのに霞が関はなぜ機能不全に陥ったのか?
2022年03月11日
政治改革、行政改革、経済構造改革、司法改革などが進められた平成の30年は、「改革の時代」の側面を持ちます。それぞれの改革は一定の果実を得ましたが、目指そうとした理想が実現されたかといえば、必ずしもそうではありません。官僚の頃、橋本龍太郎政権による行政改革にかかわった福島伸享(のぶゆき)衆院議員は、「橋本行革」も例外ではなかったと言います。令和の課題を考える連載「福島伸享の『令和の政治改革』」。2回目の今回は、「橋本行革」の理想と挫折を振り返りつつ、国内外の情勢の変化にさらされる令和の今、必要とされる政治・行政のあり方について考えます。(聞き手・構成 論座・吉田貴文)
※第1回「無所属5人を『触媒』に自民党に代わる政治勢力をつくる~令和の政治改革という挑戦」もお読みください。
――「福島伸享の『令和の政治改革』」の今回のテーマは何ですか?
福島 橋本龍太郎政権が進めた行政改革、通称「橋本行革」です。
――1996年1月にスタートとした橋本龍太郎政権は、この年の11月の衆院選後に発足させた第2次政権で、行政改革、財政構造改革、社会保障構造改革、経済構造改革、金融システム改革のいわゆる「五大改革」を掲げました。行政改革の柱は中央省庁の1府12省への再編と内閣機能強化の二つでした。なぜ、橋本行革をテーマにするのでしょうか。
福島 安倍晋三、菅義偉政権では「官邸主導政権の弊害」が問題視されましたが、その淵源を辿ると橋本行革に突き当たります。時代に適合する行政のあり方を目指したはずが、実際にはそうはならず、逆に行政の機能不全を招くことになった。裏を返せば、橋本行革から現在に至る道筋を検証すれば、令和の行政改革の課題が浮かび上がると考えるからです。
――なるほど。橋本行革には福島さん自身も関わられたのでしょうか。当時は通商産業省(現経済産業省)の官僚でしたね。
福島 私が通産省に入って2年目の1996年の1月、村山富市首相の後を継いで通産大臣だった橋本龍太郎さんが首相になりました。自民、社会、新党さきがけの三党が与党として連立を組む、いわゆる「自社さ」政権です。
それにあわせて、通産省から橋本大臣のブレーンだった江田憲司さんや松井孝治さんらが官邸に入り、大臣官房には官邸を支える裏チームとして「政策実施体制審議室」という“タコ部屋”がつくられました。ここで橋本行革の様々な具体策が検討されたのですが、私はそのチームに一番の若手として加わりました。
――どういうメンバーが集められたのですか。
福島 梶山静六通産大臣の秘書官だった今井康夫さんが審議官でおられ、企画官が5人いました。その後、安倍晋三首相の政務秘書官になった今井尚哉さん。大阪府の副理事などをつとめた山田宗範さん、衆院議員や岡山市長、美作市長をつとめた萩原誠司さん、初代の原子力規制庁長官になった安井正也さん、東京大学先端研教授などをつとめた澤昭裕さんです。その下に中小企業庁の長官になる前田泰宏さんら数人の補佐がいて、私が係長。今は立憲民主党の後藤祐一さんも席を並べていました。その後、様々な分野や場面で活躍したプレイヤーがこの部屋にいました。まさに“梁山泊”でしたね。
1989年に冷戦が終わり、90年代初めにバブルが崩壊。平成5年、1993年には、非自民連立の細川護熙内閣が誕生して「55年体制」が幕を下ろし、平成6年、1994年には戦後ずっと対立してきた自民党が社会党を手を組む自社さ政権ができました。部屋の中には新しい世界が始まった、パラダイムが変わったという認識がありました。
そんななか、それまでのイデオロギーの対立にかわって、資本主義がもたらす内在的な問題、その一つが環境問題ですが、が顕在化し、それら世界が直面する課題の解決に、日本が先頭を切って対処することが、日本の繁栄と世界での地位を高めることにつながるという意識が私たちにはありました。そのためにも、従来の行政の体制は変えなければならなかったのです。
――歴史的な視座に立った問題意識ですね。
福島 私たちの考えがよく分かる文書があります。松井孝治さんたちが平成9年に書いた行政改革会議の最終報告書です。こうあります。(参照)
「わが国は、近代史上、大きな転換期を三度経験している。一度目は幕末維新期。次は大正年間の1920年代。そして敗戦。瓦礫の山を前にして、挫折感に打ちのめされながらも、復興と国際社会への復帰をはかり、「天皇主権」から「国民主権」へ、「臣民の権利」から「個人の基本的人権」へと大きく転換。念願どおり“経済大国”を実現し、国民自身も物質的な豊かさとある種の達成感を得た。
しかしながら、われわれはかつての社会・経済的拘束から脱皮し得たのだろうかと。近代史上、明治維新に次いで、日本民族のエネルギーが白熱し、眩いばかりの虹彩をはなったこの半世紀は、経済的繁栄というかけがえのない“資産”をもたらしたが、われわれにとって過ぎ去りし時代になろうとしていると。
今や様々な国家規制や因習・慣行でおおわれ、社会が著しく均一化、画一化、固定化されてしまっているように思える。かつては活力をもたらした同じシステムが、社会の閉塞感を強め、国民の創造意欲やチャレンジ精神を阻害する要因になりつつあるのではないか。
日本の官僚制度や官民関係も含めた国家・社会のシステムは、一定の目標を与えられて、それを効率的に実現するには極めて優れた側面を持っているものの、独創的な着想、あるいは未曾有の事態への対応力という点では一級のものとは言い難い」
◇連載「福島伸享の『令和の政治改革』」の記事は「ここ」からお読みいただけます。
――なるほど。
福島 1980年代末から90年代にかけて、冷戦後に取り組むべき新たな課題が、次々と表面化しました。先ほど挙げた環境問題について言うと、1992年にはブラジル・リオデジャネイロで国連の地球環境サミットが開かれ、気候変動や生物多様性を理由にした国際的な経済ルールが形成される端緒となりました。
そうした状況においては、新しい価値の体系や経済社会システムをつくる競争に、日本がどう参画していくかが死活的に重要になります。その際に障害になったのが、最終報告書でも触れられている日本の従来の制度、具体的には、霞が関の行政のシステムでした。橋本行革の眼目は、まさしくこのシステムの変革にありました。
――先述したように、橋本行革の二本柱は、中央省庁再編と内閣機能強化です。なかでもメディアは当時、省庁再編に注目し、「抜いた、抜かれた」でしのぎを削っていた記憶があります。
福島 霞が関を、1府22省庁から1府12省に再編したわけですが、私たちにとっては、省の数を減らしたり、公務員の数を減らしたりすることが目的ではなく、従来の「縦割り」行政のあり方を変えるというのが最大の狙いでした。
――1990年代半ば、私も政治記者として幾つかの役所を担当しましたが、霞が関の「縦割り」は本当に強固でした。
福島 それまでの官庁は、森羅万象あらゆるものを切り分け、担当を決めて仕事をしてきました。この省の仕事はここまで、局はこれぐらい、課はどれぐらいと決め、与えられた業務を前例踏襲で執行するわけです。逆に言うと、それ以外のものには手を出さない。
私たちはこれを根底から覆そうとしました。当時、「目的別省庁再編」と言ったのですが、例えば国富の拡大、格差の是正、文化の創造、国土の保全といった目的別に省を再編、目的を実行するための組織への脱皮を狙った。ある意味、哲学の転換ですね。
――哲学の転換?
福島 明治以来、連綿と続いてきた分担管理原則によって事務を分担する行政組織から、目的を実現するための政策を創造する行政組織へという、組織哲学の転換です。
――もう一つの柱である内閣機能の強化とはどういうことですか。
福島 行政には大きく分けて二つの機能があります。ひとつは目的を実現するための制度をつくること、もうひとつはその制度を運用することです。後者は、法令に基づく厳格な公平中立性が求められます。一方、前者は価値判断が伴うので、ある意味政治的にならざるを得ない。
日本の行政組織はこの二つが混在していたため、ともすると前例踏襲的なものしかできず、新しい価値の体系や経済社会システムをつくることができなかった。これだと冷戦後の世界の大きな変化に日本の行政組織は対応できないとして、新たな制度をつくる部門と、制度を法令に基づいて運用する部門を分けようと考えたわけです。では、新たな制度をつくる主体は誰かといったら、時の政権。具体的には、議院内閣制の下では首相官邸ということになる。
――首相官邸というのは、首相や官房長官といった政治家ですか?
福島 価値選択が伴う決定をする正当性は、選挙を通じて選ばれたわけではない官僚にはありません。その資格があるのは民意の支持を受けた政治家です。とはいえ、政治家は価値を実現するための具体的な政策をつくれるわけでない。それを支える官僚が必要になります。価値選択をする政治家と、価値を政策に仕立てる官僚で構成する内閣の機能を強めようというのが、私たちが内閣機能強化として想定したものでした。
つまり、内閣機能強化の前提は、価値の選択を政治がきちんとおこなうということに他なりません。その意味で、行政改革は実は政治改革とセットでした。
◇連載「福島伸享の『令和の政治改革』」の記事は「ここ」からお読みいただけます。
――政治改革と行政改革がワンセットというのは面白いですね、
福島 それは、先述した行革会議の報告書にも書いてあります。「今回の行政改革は、『行政』の改革であると同時に、国民が、明治憲法体制下にあって統治の客体という立場に慣れ、戦後も行政に依存しがちであったこの『国の在り方』自体の改革であり、それは取りも直さず、この国を形作っている『われわれ国民』自身の在り方に関わるものである」と。
要は、政策はお役所という“お上”から降ってくるものではない。政策実現の主体は選挙で投票して政治家を主体的に選ぶ国民なんだということですね。国民が自分事として政治家を選び、選ばれた政治家が制度を大きく転換していく。新しい社会づくりは、民主政治に基づかなくてはなりません。まさに政治改革です。そして、そのためには、国民が統治の客体ではなく主体であるという意識で政治家を選ぶことが必要になります。
折しも当時の政権は自社さの連立でした。イデオロギー対立の時代が終わり、自社さの次は、いよいよ新たな価値選択による政治が始まるというのが、当時の空気でした。実際、1996年に初めての小選挙区制度の選挙がおこなわれ、新進党や民主党という二大政党につながる萌芽が生まれつつあった。
――イデオロギー対立ではない選択とは。
いずれにせよ、国民が何らかの理念を主張する政党や政治家に共感して選択し、選ばれた政治家が政府に入り、官邸や目的別に再編された省庁に政治家を補佐する官僚たちがいて、選挙で掲げた理念や政策を実現するための法律や予算がつくられる。一方で、予算の配分や法令の執行は政治的なものから一線を引き、中立公平におこなわれるという絵図を、当時の私たちは描いていたわけです。
――なるほど。ただ現実の政治をみえると、必ずしもそうはなっていません。明確な対立軸を示す政策を政党が掲げているとは見えず、政権交代のある政治も、第2次安倍政権以降、現実味を失っています。小選挙区制による選挙制度への疑問も目立ちます。
福島 おっしゃる通りだと思います。最大の誤算は、自民党が存在し続けていることです。自社さ政権の後、自民党はいずれ崩壊するだろうと、私たちは考えていました。
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