2022年03月25日
2022年の世界の潮流を予測するために、2021年11月にThe Economistが刊行した「The World Ahead 2022」のなかに、「2020年代を象徴するキャッチーな言葉を探している人には、「キャンセル・カルチャー」(以下、キャンセル文化)が最適だろう」という指摘がある。この2年間、旅行、結婚式、会議、スポーツ大会、選挙、著名人、知識人、マイナーな公人、さらには誰も知らなかった人まで、キャンセルできるものはほとんどキャンセルされてきたからだ。
パンデミック下で、こうした世界の潮流が日本にも打ち寄せている。今回は、このキャンセル文化について論じるなかで、ニッポン不全を考えたい。
拙著『サイバー空間における覇権争奪』のなかで、筆者はアントニオ・グラムシの思想について少しだけ論じたことがある。つぎのように記した。
「注目すべきはこのグラムシを源流とする「左翼思想」が米保守主義の代替として登場した「オルタナ右翼」(Alt Right)に取り入れられ、トランプ政権誕生の原動力となったことである。グラムシは常識と翻訳されることの多い “common sense”(イタリア語で senso comune)に注目する。このとき彼が力点を置いたのは common の側であり、そこで重要なのは 集団的で社会の有力な要素となった意見の総体であり、ラディカルな変革をもたらしうる政治運動を動員する「知恵」なのだ。とくに、社会・ 政治・経済・地理的に阻害された従属者である「サバルタン」のような人々に働きかけ、彼らにとっての「真実」をグラムシのいう common sense として提示し際限なく繰り返すことで、彼らに common sense とし て受け入れてもらえれば、彼らの支持は絶大となる。このとき、真実に基づく論拠はいらない。
……(中略)……
グラムシはもう一つ、重大な論点に気づいていた。それは、伝統が培った生活慣習を「歴史的堆積物」と呼び滓(おり)とみなしたうえで、それが簡単に溶け出すことを予測していたことである。サバルタンがサバルタンでなくなると、これまでの文化の古い鎖を溶解してしまうのである。この変化は一人ひとりの人間への尊重、人権に普遍性を見出そうとする 視線から生み出されている。性差別や LGBT 差別へのまなざしはその反作用として個々人の大切さを訴える。いわば、一人ひとりの人間を聖なる地位に置く。しかし、それは同時に個々人の個別化や断片化を促し文化による束縛を溶かす一方で、カネという尺度を普遍化しカネという単位・数値ですべてを評価する動きを広げる。「ストップ・詐欺被害 私は騙されない」といったキャンペーンも結局、「自分以外信じるな」と叫んでいるように聞こえる。」
この文化の「溶解」によって、新しく形成されつつあるのが冒頭に紹介したキャンセル文化だ。何を意味しているかというと、「個人や組織、思想などのある一側面や一要素だけを取り上げて問題視し、その存在すべてを否定するかのように非難すること」といった説明が近いかもしれない。同じ解説には、「ソーシャルメディアの普及に伴い、2010年代半ばから多く見られるようになった。大勢の前で相手のどんな誤りやミスも徹底的に糾弾する行為「コールアウトカルチャー(call-out culture)」のひとつ」という指摘もある。
典型的な例としては、①2021年3月、Teen Vogue誌の編集者として採用されたアレクシー・マカモンドが、10年前の17歳のときに送った攻撃的なツイートに対する反発を受けて辞職した、②同年1月には、ウィル・ウィルキンソンが、マイク・ペンスを絞首刑にしようとする共和党員を風刺するツイートをしたことで、中道右派団体「ニスカネン・センター」の研究担当副センター長の職を失った――といったものだ(「ニューヨーク・タイムズ電子版」を参照)。
まさに、SNSを通じた攻撃により、仕事や生活を失うなどの「キャンセル」(取り消し)が生じるのである。
米国で2021年春に話題になった出来事に、有名な絵本作家、ドクター・スース(本名:セオドア・スース・ガイゼル)の著書のうち、黒人やアジア人を不快な方法で風刺した画像や文章を含む6冊の本の印刷を中止するという決定がDr. Seuss Enterprisesによってなされた件がある。これを機に、保守派好みのフォックスニュースは、ドクター・スースの本が禁止されていないにもかかわらず、ドクター・スースがキャンセル文化の犠牲者になっていると3週間にわたって報じた(「なぜ「キャンセル文化」という言葉を取り消すべきなのか」を参照)。
フォックスや共和党の議員の間では、これは「目覚めた」左派が自分たちの政策課題(アジェンダ)に合わない作家を検閲した例だという話になっていく。共和党の議員たちは、新たに脅かされた言論の自由への強固な支持を示す方法として、議論の余地のない他のスースの本を読むパフォーマンスを披露したという。
この問題はくすぶりつづけている。「ワシントン・ポスト電子版」によると、10月27日の朝、全国的な話題に新たな展開として、テキサス州議会議員のマット・クラウス(共和党)が、同州の学校カリキュラムの調査を開始し、さらなる調査が必要と思われる数多くの書籍を特定したという出来事があった。要するに、共和党の議員や活動家たちはキャンセル文化を非難するかたちをとって、学校で人種問題について教えることを制限しようとしているようにみえる。11月には、米カンザス州のある学区で、29の著作の図書館での貸し出しが停止された。同月、米バージニア州の教育委員会は州内の学校図書館に対し「露骨な性的表現を含む」本を撤去、つまりキャンセルするよう命じた。
「「キャンセル・カルチャー」が燃えさかるアメリカ いま何が起きているのか」という記事では、「キャンセル文化は政争の道具になってしまった」と指摘している。共和党は最近、キャンセル文化をキーワードとして利用し、左派への批判を行っているというのである。たとえば、2020年の共和党全国大会で可決された決議文では、キャンセル文化が「歴史を削除し、法律違反を奨励し、市民の発言や思想の自由を抑圧する」恐れがあると主張したという。
米国では、右派も左派も「woke」(社会問題などへの意識が高いこと)という言葉をかざしていがみ合うなかで、結局、社会全体が萎縮する方向に向かっているようにみえる。
ロシアでもキャンセル文化批判を政治利用する動きがある。ウラジーミル・プーチン大統領は2021年10月21日、親プーチンの学者やジャーナリストづくりのためのバルダイクラブという組織の会合でつぎのように発言したのである。
「人種差別に対抗することは、必要かつ崇高な目的だが、新しい「キャンセル文化」は、それを「逆差別」、つまり逆レイシズムに変えてしまった。人種を執拗(しつよう)に強調することで、人々をさらに分断している」というのである。
これは、ここで紹介したように、米国で共和党によって反キャンセル文化が政治利用され、結局、人種差別を容認する方向に向かいかねなくなっている現状をよく理解した発言と言えるだろう。
プーチン自身は、「ところで、ロシア人の絶対多数は人の肌の色や性別が重要な問題だとは思っていない。私たち一人一人は人間だ。これが重要なのだ」と、ロシアの優位性に結びつけている。米国でのキャンセル文化の政治利用を批判しながら、ロシアの優位を喧伝(けんでん)して政治利用していることになる。
わかりやすく解説すれば、プーチンは、「自国の歴史の全ページを積極的に削除したり、マイノリティの利益のためにマジョリティを逆差別したりすることが、公共の再生に向けた動きである」と考える西洋に広がる「社会文化の乱れ」を批判する一方、返す刀で、自国の「精神的価値観と歴史的伝統」を守るべきだと強調しているのだ(「ワシントン・ポスト電子版」を参照)。
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