国民民主党の動きは予定の事態か? 自公は割れないのか? 共産党と野党の関係は?
2022年04月01日
政府の新年度予算案が3月22日、参院本会議で自民、公明両党と野党の国民民主党などの賛成多数で可決、成立しました。政治の焦点は、政府が重要政策に掲げる経済安全保障推進法案や「こども家庭庁」の関連法案、そして7月に予想される参院選に移ります。
注目を集めたのは、予算の策定にかかわっていない野党の国民民主党が、衆参両院で予算案の賛成に回ったことです。国民民主党の異例とも言える動きをどう見るか。これは参院選にどんな影響を与えるのか。連立政権が常態化したなか、与野党は連立にどう向き合うべきなのか――。自民党や自公政権に詳しい中北浩爾さん(一橋大教授)と、自民党にかわる「政権」を期待する中島岳志さん(東工大教授)に、縦横に語っていただきました。(聞き手 論座編集部・吉田貴文)
中北浩爾(なかきた・こうじ) 一橋大学大学院社会学研究科教授
1968年、三重県生まれ。東京大学大学院法学政治学研究科博士課程中途退学。博士(法学)。専門は、日本政治史、現代日本政治論。立教大学法学部教授などを経て現職。著書に『自民党―「一強」の実像』、『自公政権とは何か』など。
中島岳志(なかじま・たけし) 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授
1975年、大阪生まれ。京都大学大学院アジア・アフリカ地域研究研究科博士課程修了。『中村屋のボース』で大仏次郎論壇賞、アジア太平洋賞大賞を受賞。著書に、『「リベラル保守」宣言』、『血盟団事件』、『親鸞と日本主義』など。
――国民民主党が政府の新年度予算案に賛成し、自民党、公明党と3党での政策協議も始めています。国の政策の根幹となる政府予算案に野党が賛成することはあり得ないという批判もありますが、こうした状況について中北さんはどう見ますか。
中北 二つあります。まずは率直に驚いた。もう一つは予想していたことがついに起きたかということです。私のメモによると、ちょうど1年前、自民党関係者は「次の参院選前になんらかの具体的成果を与えて国民民主党を抱き込む」という話をしていました。それがついに来たのかという感じです。国民民主党にすれば、事実上、与党側にぐっと歩を進めたと見るべきですね。
――旧民主党系が分断される形ですね。
中北 民主党系は長らく「非自民・非共産」の枠で塊をつくってきましたが、2015年の安保法制反対運動から「非共産」の枠が崩れ、反動として「非自民」という枠も揺らいでしまった。その結果、自民党に入る人が一気に増えました。いよいよその最終局面として、一定の塊が自民党のほうに振れたということでしょう。
――中島さんはいかがですか。
中島 国民民主党の今回の動きは、ここ数年の一連のプロセスの末の話なので、そこを振り返る必要があります。なかでも非常に大きなポイントだったと僕が思うのは、2019年の参院選です。
その前年から国民民主党と立憲民主党を合併させたいという話があり、僕は水面下で両党の橋渡し的なことを行いました。国民側の条件を立憲の枝野幸男代表に伝えましたが、結論から言うと、立憲は国民の条件のほとんどを蹴った。参院選で国民を崩壊させる方向に舵を切りました。
この合併話は連合の存在が重要でした。神津里季生会長(当時)、枝野さんと3人の会合も繰り返しましたが、私の眼から見れば、立憲側の態度が硬直化していました。最終的には、静岡選挙区に立憲が徳川家広さんを擁立したことに連合が強い不満を持ちました。連合の同盟系の人たちは、共産党よりも枝野さんや、立憲幹事長の福山哲郎さんに対して怒っていました。
参院選で立憲は勝てず、国民民主党は踏ん張った。参院選後、国民には「立憲とは一緒にやれない」という機運が強まり、それが自民党に向かう布石になっていると思います。
中北 その翌年、連合は再び立憲と国民の合流に動きます。9月には立憲に国民の一部が合流し、新しい立憲民主党ができました。この時は立憲がかなり譲歩したと思いますが、玉木代表は国民民主党を分党し、22人が国民に残りました。参院選の遺恨が玉木さんとその周辺にあり、党まるごとの合流をしなかったのだと思います。
思い起こすのは、2017年秋の衆院選前に希望の党が旗揚げした時のことです。希望の党から排除されたり、排除するような希望の党に行かなかったりする民進党の人たちの受け皿として、枝野さん、福山さんが立憲民主党を立ち上げ、衆院選で野党第一党になりました。衆院選後、玉木さんは希望の党の代表になっています。
こう見てくると、衆院選の時に排除された枝野さんや福山さんが、参院選では玉木さんたちに意趣返しをし、新しい立憲民主党をつくる段階で今度は玉木さんたちが合流を否定して今に至った、という遺恨の連鎖ですね。
――遺恨は理解できないではないですが、元々は同根の両党はどうして連携できないのでしょうか。
――1994年夏にできた自民党、社会党、新党さきがけの連立による村山政権ですね。
中島 河野さんは、僕が野党議員と話していることをご存じで、「首相の座を得た社会党は、帳尻を合わせないといけなくなり、大変なことになった。逆に自民党は安泰の基盤をそこから作った。譲った方が勝つということを、立憲民主党のリーダーは理解しているのかな」とつぶやくように言われた。含蓄のある言葉で、枝野さんへの「伝言」だと理解した僕はそのまま伝えたのですが、理解されなかったようです。あの時、もっとどうにかできなかったのかと、今でも悔やんでいます。
中北 民主党政権も連立運営に失敗して潰れたわけです。沖縄・辺野古の基地建設の問題で社民党に十分に配慮せずに連立離脱に追いやり、それがきっかけで参院選で負けて衆参がねじれ、政権は失速していきました。大きい方が小さい方に譲る形を取らないと、まとまるものもまとまらないということです。
――長らく自公連立を続けている自民党は、連立政権の流儀を分かっているのでしょうか。
中島 自民党の凄みは、1994年で衆議院に比例代表並立制を導入する法案が通った時点で、連立の時代の到来を察知し、「自社さ」の村山連立政権から実践したことです。
この政権で興味深いのは、会議の構成を、自民党3、社会党2、さきがけ1にした点。社会党とさきがけが反対したら、自民党案は通らない。一番多く議席を持つ自民党が一歩引く形です。連立の流儀を自民党は理解できていたと、当時、社会党議員だった保坂展人さん(現世田谷区長)は評価していました。
中北 自社さ政権ができるとき、自民党内の反対派を押し切る決定打となる演説をしたのは衛藤晟一さん。知る人ぞ知る右派の大物です。昨年、衛藤さんにインタビューした際、「日本の保守とか右は、そこまでガチガチじゃない。原理論は言うけれど、妥協すべき時は妥協もする」と言い切りました(アジア・パシフィック・イニシアティブ『検証 安倍政権』文春新書、258ページ)。
当時は政権に返り咲くことが重要で、そのためには55年体制のもと対立を続けてきた左の社会党とも組む。そうした柔軟性、リアリズムを持つ自民党の懐の深さを感じたのを覚えています。
――小選挙区比例代表並立制のもとでは二つの政党ブロックができたうえで、小政党も残る。政治的リアリズムで言えば、連立を視野に置くのが当然だと思います。実際、平成時代の政権はほとんどが連立です。中北先生は自公連立政権について『自公政権とは何か』(ちくま新書)も書かれていますが、今や日本政治の“標準”になった連立について、どう見ておられますか。
中北 自公連立には二つの柱があります。一番重要な柱は選挙協力です。小選挙区制をメインとする選挙制度なので、選挙協力しないと公明党は生き残れません。小党の存続を可能にする比例代表制をうまくつかった選挙協力を、自民党と公明党は巧みにやっている。それができるのは、両党とも固定票がしっかりしているからです。小選挙区は自民党、比例区は公明党をメインに、それぞれが持つ票を上手く案配しています。
もうひとつの柱は政策調整です。自民党と公明党が話し合い、譲るべきところは自民党も公明党に譲り、最後は決めきるプロセスを確立しました。自民党と公明党の政策は必ずしも一致しません。悪口を言いあいながら、両党の顔が立つようにまとめる。
集団的自衛権行使についての憲法解釈変更が典型的です。厳しい交渉の末、公明党から見れば個別的自衛権の拡張、自民党からは集団的自衛権の行使容認というところで決着させました。
実は自民党と公明党は常にもめているんです。でも、連立解消がささやかれても、そうはならない。ぶつかり合いながら、譲歩のラインをうまく見出して、双方が納得する形をつくる。揉めることでガスを抜き、お互いの必要性を再確認して、連立を続けるという関係になっています。
――中島さんは自公連立をどう見ています。
中島 自公連立が継続するもう一つの要素に、創価学会の特徴があると思います。端的に言うと、強いものには巻かれにいく。自分たちの宗教をどうやって権力から守るかという強い意識が、背後にあると思います。
創価学会(創立当初は創価教育学会)は、初代会長の牧口常三郎が戦時中に検挙され、獄中死しました。公明党の設立には、政治力を持つことで自分たちの信仰を権力から守るという側面がありました。新進党に参加していた頃、公明党は池田大作名誉会長の証人喚問や宗教団体への課税問題などで自民党から攻められました。攻められると、そちらに身を寄るという行動パターンが、学会には見えます。新進党が解党した後、自民党の方に寄っていきましたよね。
民主党の鳩山由紀夫政権ができた時も、公明党・創価学会は「新しい公共」は一緒にできそうなどと、いろんなシグナルを民主党に送っていました。ただ、あまりに稚拙な内閣だったので、自公の絆を切れなかった。
――従来、連合政治や連立は、野党の側が追求してきました。
中北 55年体制のもとでは、野党側が自民党政権に対抗するために、連合や連立を唱えていました。連立政権を作れなかったのには幾つかの要因がありましたが、ひとつは外交・安全保障政策をめぐる問題です。
とりわけ米中が接近し、ベトナム戦争が終わった後には、各種の世論調査でも日米安保への支持が顕著に増えます。しかし、共産党が安保廃棄を唱え続けましたし、社会党も「非武装中立」に固執して、なかなか現実化できませんでした。
それとも関係して、野党側の連合を阻んだもう一つの要因は、社会党の体質です。民主党同様、ジュニアパートナーに譲歩できませんでした。
――55年体制下で野党第一党だった社会党に要因があったと。
中北 そうです。公明党書記長をつとめた市川雄一さんに、亡くなる直前にインタビューした際、社会党をリーダーとして連立政権をつくろうとした70年代から80年代、どれだけ煮え湯を飲まされ続けたかという話を、とうとうと聞かされました。小泉政権などで厚労大臣をやられた坂口力さんも同じようなことを言っていっていました。長兄である社会党が大所高所に立とうとしなかった、と。
野党が連立できない理由は、政策もありますが、自党の利益を優先して、小さい政党を束ねられない野党第一党のビヘイビアにあったと思います。そうした社会党のDNAが、不幸なことに民主党、立憲民主党へと受け継がれている印象を持ちます。
――1993年夏の衆院選で55年体制が幕を閉じ、皆が驚いた8党会派による細川護熙連立政権が誕生します。その後、先述の「自社さ」という、これまたあっと驚く連立政権ができる。細川さんから「連立の作法をつくればよかった」という話を聞いたこともありますが、新しい“政治文化”をつくろうという空気が、当時の日本政治にはあったと思います。中島さんは現在の政治状況は90年代に似ているとよく言われますね。
中島 いま、細川さんが立ち上げた日本新党について勉強し直しています。日本新党は1992年参院選の前に旗揚げし、4議席を獲得。それが93年衆院選の躍進につながりました。突然解散される衆院選に合わせて新党をつくるのは非常に難しい。とすれば、選挙時期があらかじめ分かる参院選に合わせて仕掛けるのは一つのやり方です。
僕が身近で経験した例でいうと、れいわ新選組もそうでした。山本太郎氏は2019年の参院選前にれいわをつくり2議席を得ました。
現状で、野党が政権をとる可能性があるとすれば、新党を軸に野党が連立を組むしかないと思っています。なので、われわれが考えていないような人たち。たとえば地方の首長が決起して参院選を機に新党を立ち上げるということが、あり得るのか否かということを考えているのですが……。
中北 現在は90年代の初めに似ている部分はあるけれど、違う部分もあります。一つは自民党の吸引力の強さです。当時は自民党からかなりの離党者が出たのですが、今は逆に自民党に吸い寄せられている。かつて民主党だった山口壮さん、松本剛明さん、細野豪志さん、長島昭久さん、鷲尾英一郎さんらが次々と自民党に入っています。
他方、自民党から離党する気配はありません。最大の理由は小選挙区中心の選挙制度です。90年代前半は中選挙区制なので、自民党を出ても当選できた。でも、小選挙区のもとでは、自民党から「刺客」を立てられると、当選するのは極めて困難です。権力を持つ与党の自民党、公明党の結束はますます強固になっています。
中島 だからこそ、野党が政権をとるには、共産党を含む枠組みをつくって連立するしかないのです。具体的には、共産党プラス旧民主党系の人たち、そしてれいわ新選組、そこにリベラルな保守を背負えるリーダーが新党を作って参加するという形です。相当に狭い道だとは思いますが……。
――中北さんは先ほど、共産党との連立は難しいという指摘をされていますが。
中北 かつてもそうだったし、今も共産党と連立政権をつくる道は容易ではありません。ネックはやはり日米安保。廃棄を掲げる共産党が言えるのは現状維持まで。民族民主革命論という革命戦略とからむので、強化までは絶対に踏み込めません。
しかし、現在の国際情勢を見ると、日米安保の現状維持で抑止力を保てるか疑わしい。中国が毎年、国防費を大幅に増やす現状で、ウクライナ問題もあり、今後、日米安保の強化を考えざるを得ない局面になるかもしれない。抑止力の維持を唱える立憲民主党が、共産党と包括的な外交・安保政策をまとめるのは難しいでしょう。
中島 僕はこの数年、共産党が政権に加わるための現実化路線を応援しています。日米安保や天皇問題について、共産党の論理構造をもとに、現実的な連立につながるロジックをつくれないかと。
その際によく使うのは、哲学者カントの「統整的理念」と「構成的理念」です。統整的理念とは、超越的な地点から現実を批判する視点を持っているもので達成するのが難しい理念です。一方、構成的理念とは、現実の中で実現可能な理念。カントは、構成的理念だけでは理念は成立せず、統整的理念があるがゆえに構成的理念が成立するという言い方をする。つまり、「絶対平和」や「核なき世界」という観念は“お花畑”ではなく、不可能に見えるがゆえに必要な命題なのです。
共産党には、統整的理念としての「絶対平和」を掲げつつ、その実現に向けて構成的理念に立脚する現実的な対応が可能ではないかと思います。
中北 共産党が政権をとりたいのならば、これまでの基本路線、共産主義イデオロギーや民族民主革命論が現実的か、本気で考えるべきです。ただ、今は衆院選で共闘が前進したとか、実は勝ったとか言うだけで、この“現実”から目をそむけています。田村智子さんのツイッターでの問題提起も封殺されました。共産党が社会民主主義政党になって政権を担う腹をくくったら、“左”の政権の可能性はぐっと増すと思います。
中島 共産党が世代交代すると、また展開は変わって来るだろうと思います。共産党が現実的な政党に変われば、野党側にも希望が見えてくると思います。そもそも共産党は「中小企業を守れ」「農家を守れ」と言っていて、保守の私にとっても十分合意できる内容です。自己責任論でネオコン化した自民党よりも、よほど保守的な政策を掲げていると思います。
――野党が政権をとれるかどうかは、共産党の動向が大きいということですが、その一方で、野党の国民民主党が、中北さんの表現だと、事実上、与党側にぐっと歩を進めています。展望はあるのでしょうか。
中北 国民民主党が自民党に接近を図ったのには、二つの重要な要素があると思います。まずは、「玉木代表」という要素です。
玉木さんの行動原理は「政界で埋没したくない」ということです。それが参院選で国民民主党が議席を伸ばすために必要だという判断もあり、目立ち続けようと必死に行動している。小党の国民民主党にすれば、野党側にいる限り立憲民主党の影に隠れて埋没してしまう。与党の一角を占める位置を狙うことは、玉木さん的な発想からすると、合理的なのだろうと思います。
では、玉木さんが細野さんらのように自民党に入るかと言うと、多分それはない。自民党で一から「雑巾がけ」をするつもりはないでしょう。一党を率いたままで連立政権の一角を担えば、大臣も狙えるし、メディアにも露出できる。もちろん、参院選でそれなりの議席を勝ち取ることが前提ですが。
もうひとつは、民間労組、とりわけ自動車をはじめとする産別の動きが底流にあります。
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