「NATO加盟」に収斂した欧州安全保障の捩じれを考える
2022年04月04日
2月24日にロシアのウクライナ侵攻が始まってひと月あまりがたった。
ウクライナ軍の存外の抵抗を前にしてロシア軍が攻めあぐねて、極超音速ミサイルを用いたという情報も伝えられる。その一方でウクライナの犠牲者は1000人を超えたばかりか、国内外で1000万人が難民となっていると予測される。和平交渉もまだ目途が立たず、戦況は予断を許さない。戦争の長期化も懸念される。
ウラディミール・プーチン大統領の暴挙は法的にも人道的にも言語道断だ。そして侵略に抵抗するウクライナ国民の祖国防衛に向けた高い士気と勇気は称賛に値し、神々しくもある。
しかしそのヒロイズムの陰で、戦争が長引くことはそれだけ犠牲が増えることを意味する。それは耐え難い真実だ。どれだけ勇気を称えても失われた命は戻らない。人命を賭して戦うことなく平和を導く方法はないのか。
停戦合意が喫緊の課題だが、見通しは依然として不透明だ。正否はともかく、戦争には目的がある。戦争はすべからく起こした当人にとっては「正戦(正義のための戦争)」であるからだ。当事者にはそれぞれの「正当な理由」がある。よく言われるように、戦争開始よりも終息の方が難しいのはそのためである。
プーチン大統領の考えは測り知れないが、プーチン自身にとってこの戦争は「正戦」なのだ。それはその言動に明瞭だ。他方でゼレンスキ―大統領にとってもこの戦争はウクライナを守るための正義の戦いだ。
ロシアにとって第一の目的はウクライナに大きな打撃を与えて、NATOの東方拡大がこれ以上進まないような国際秩序を構築し、勢力圏を防衛することにある。それはプーチンにとってはロシアの存亡がかかる喫緊の課題だ。他方でウクライナの強い抗戦姿勢には、そのようなロシアの意思を断固打ち砕き、独立を死守し、西側デモクラシー陣営の橋頭堡としての地位を保持しようとする意志がうかがわれる。
しかし両者が正義を貫こうとすればするほど、戦禍の拡大は避けられない。力の衝突は激化する。悲劇はそこにある。
結局プーチンが戦意を失わない限り、戦争そのものはエスカレートし、長期化する可能性はもっと高くなる。少しでも早く彼の意思を打ち砕き、屈服させることだ。さもなければ核戦争の脅威も視野に入ってくる。すでにバイデン大統領は「第三次世界大戦」という言葉まで使ったが、それが米国民を煽る軽率な発言とならなければよいと思う。
戦争という手段に訴えたプーチンに対する批判に話題が集中しがちだが、戦争の背景には必ずそれを招いた国際環境がある。ウクライナ戦争の発端はNATO加盟であったが、それは欧州安全保障を不安定化させる最大の要因となった。
冷戦終結直後からポーランドをはじめとして中・東欧諸国はNATOへの加盟を主張、1993年8月エリツェン露大統領がポーランドのNATO加盟を容認すると、にわかに東欧諸国のNATO加盟が加速された。そして東西間の兵力をめぐる境界、つまり勢力圏の線引きが変容していった。
NATOの東方拡大(ポーランド・ハンガリー・チェコ)は、1997年5月NATOとロシア間で合意した「NATO・ロシア憲章(基本文書)」で決定的なものとなった。これは旧東西両陣営間の「相互関係・協力・安全保障創設のための条約」で、NATOとロシアは互いを敵とみなさないこと、安定した平和な分断されない欧州建設を謳った。そしてNATOが新加盟国に核兵器を配備しないこと、新たな常駐兵力を派遣しないこと、駐留軍の制限などで合意した。
同時にこの「憲章」は、冷戦時代の枠組みを前提に合意された通常兵器削減(CFE)条約を新しく見直すことを定めた。このCFE条約をめぐる展開は、リベラル・デモクラシーを普遍的な価値とみなし、それを世界に広げようとする米国流の安全保障観と、ロシアの主張する地政学的勢力圏を前提とする安全保障観の摩擦をよく示していた。
今ではあまり論じられないCFE条約だが、これは冷戦時代の1970年代に開始された「中部欧州兵力削減(MBFR)交渉」を出発点とする。冷戦時代その交渉は困難を極めたが、冷戦終結直後の1990年11月 (92年11月発効)に合意した。戦車・装甲戦闘車両・火砲・戦闘機・攻撃ヘリの部門での東西間の保有数の上限を定めたこの条約は、締結されて間もなく、実質的な意味を持たなくなった。それは1990年当時の東西境界の範囲内の兵力分布、つまり冷戦時代の東西間の勢力圏を前提にしていたためである。したがってその後97年のNATO東方拡大による変化を受けて条約の再検討が不可欠となり、1999年にはCFE適合 (ACFE) 条約が結ばれた。それは97年当時の境界を尊重したものだった。
昨年来のウクライナとの交渉の中でプーチンの主張の基本となったのは、この勢力圏の維持という発想だった。
昨年12月にロシアが提出した合意文書案(米国との条約案・NATOとの協定案)には、米国に対しては、NATO東方拡大停止、バルト三国を除く旧ソ連諸国に軍事基地を設けないこと、軍事協力も発展させないこと、中距離ミサイル・核兵器の自国以外への配備はしないことなどが提案されていたが、NATOに対しては、「欧州での軍事配備はNATOの東方拡大前の1997年までの状態に戻す」ということが主張されていた。ACFE条約を引き継いだ勢力圏の発想がロシア側には脈々と息づいていた。
しかし米欧、とくに米国はACFEを尊重せず、プーチンを失望させてきた。
ロシアは2002年にはトラスニストリアからCFE条約に従って条約の対象兵器を撤収し、2004年にACFE条約を批准、07年にはジョージアから全駐留軍を撤兵させたが、その後も米国は態度を変えず、NATO諸国はACFE条約を批准しなかった。それを理由として07年ロシアは条約の一時不履行を決定し、15年には条約を離脱した。
ACFEをNATO諸国が批准しなかった背景にはG・W・ブッシュ米大統領の意向が強く働いたといわれる。昨年12月のロシアからの提案に対しても、翌月の米国の回答は軍事演習の制限を認めた以外はほぼゼロ回答だった。
この一連の米欧の対応はロシア側の不信感を募らせた。
ロシアはもともと威信を大切にする。プーチンがドゥーギンというロシアの著名な地政学者の影響を受けているのはよく指摘されることだ。ドゥーギンの議論は19世紀的な大国の地理的勢力圏の議論だ。
プーチンは、冷戦終結後の欧州ではNATOの軍事的圧力がじわじわと強まり、ロシア勢力圏が縮小されていると考えた。米国がバルト諸国に常駐軍の追加配備をしないという取り決めを守らなかったこと、07年に米国はNATOやロシアとの協議機関である「NATO・ロシア評議会」に諮らないまま、黒海への常駐軍の派遣を決めたこと、ルーマニアとブルガリアはCFEの東部側面地域であるためこの地域での軍の駐留は事前協議義務の対象だったが、それをせずに米国はこの地域に軍を駐留させたことなどが理由だった。これはドイツ政府系国際戦略安全保障研究所SWPが3月に発表した報告の分析でもある。
ロシアの米国に対する不信感は、2002年米国のABM(迎撃ミサイル)条約からの離脱、1999年のNATOの対セルビア攻撃と2003年米国のイラク攻撃によっていっそう大きくなった。プーチンは、それらは米国の国際法違反だと批判した。
そうした中で、今回のウクライナ攻撃の発端となったNATO加盟問題はロシアの西側国境に隣接する国をめぐる問題であっただけに、ロシアの態度が一層硬化したのはロシア側の論理からみれば自然であった。
この問題が顕在化したのは、2008年4月NATOブカレスト首脳会議だった。この会議でG・W・ブッシュ米大統領はウクライナとジョージアのNATO加盟に対する期待を述べ、「加盟アクションプラン(MAP)」を掲げた。2014年3月のロシアのクリミア併合はそうした米欧の圧力に対するプーチンの「危機感」の表れであった。これもプーチンの国際法を無視した暴挙だったが、この時も厳しい経済制裁をすぐに発動させたのはアメリカであった。
戦争に訴えたプーチンの行為は暴挙であるが、この戦争は冷戦後の欧州安全保障体制の歪みの産物である。この戦争に対する国際社会の責任が問われるとすればその点にある。欧州安全保障秩序の在り方について真剣に考えない限り、この戦争が提起した問題の真の解決はない。
その最大の問題点は、ウクライナ戦争の原因がまさにそうだったように、欧州安全保障体制の建設をめぐる議論がNATO加盟拡大に集約されていったことだ。冷戦が終結してソ連が崩壊し、旧東側の集団防衛機構ワルシャワ条約機構が解体したのだから、NATOも不要だという議論は冷戦終結後にあったが、NATOは生き残った。
筆者は冷戦終結後のNATOの将来に大きな関心を持っていたので、90年代を通して毎年何度もブリュッセルのNATO本部を訪ねていた。当初NATO職員にとって最大の関心事は「失業」
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