メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

ウクライナ侵攻は男の顔をしていた~ジェンダー平等で平和・自由な世界を築けるか…

「女性のための政治スクール」30年の歩みから考えるジェンダーと政治【1】

円より子 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

 元参院議員の円より子さんが1993年に「女性のための政治スクール」を立ち上げてから来春で30年。多くのスクール生が国会議員や地方議員になり、“男の社会”の政治や社会を変えようと、全国各地で奮闘してきました。平成から令和にいたるこの間、女性に代表される多様な視点は、どれだけ政治に反映されるようになったのか。今もこのスクールを主宰する円さんが、「論座」の連載「ジェンダーと政治~円より子と女性のための政治スクールの30年」で、スクール生や自身の経験をもとに、現状や課題、将来の展望などについて考えます。(論座編集部)
※連載記事は「ここ」からお読みいただけます。

「女性のための政治スクール」が来年2月で30年

 政治の世界はいまだに男の社会だ。

 もちろん、女性がトップの国は少なくないし、閣僚の半数近くが女性の国もある。しかし、ロシアがウクライナに侵攻して以来の、いやその前の外交の駆け引きを見ていても、舞台に立っているのは男性ばかり。まさしく男の社会そのものだ。

 私は平成の初めから「女性のための政治スクール」を主宰し、女性の議員を増やす努力をしてきた。

 「政治スクール」は、女性議員を増やすことだけに、重きをおいてきたわけではない。女性議員を増やす事によって、言論の自由、命、暮らしを守れる社会を子々孫々に残していく。世界から暴力、テロ、紛争、飢餓をなくす。それを目標に掲げてきた。

 そのスクールが、来年2023年2月で30年を迎える。この間、女性の政治参加は進んだのだろうか。女性が増えれば、本当に世界から格差や分断がなくなり、平和で自由な世界を築いていけるのだろうか。

 平成の政治改革と軌を一にするスクールの30年を振り返ることで、これからの社会や政治に少しは貢献できるかもしれない。そう思って筆を進めようとしていた矢先、「プーチンの戦争」が始まった。

開校の日、熱心にメモを取りながら受講する「女性のための政治スクール」の1期生。1400人の応募から選ばれた女性120人、男性20人=1993年2月3日

独裁者が始めた戦争で命を落とすのは市民

 2022年の4月現在、ロシアがウクライナに侵攻して2カ月になる。停戦交渉はいまだ進まず、ウクライナでは500万人もの人が国外に逃がれたという。首都キーウ近くのブチャでは多くの人が虐殺され、ロシア軍の本格攻撃がはじまったウクライナ東部や南東部では、マリウポリをはじめ至るところが廃墟になり、人々が命を落としている。

 独裁者が始めた戦争で、命を落すのはいつも市民である。そして私たち女性には、戦争はいつも男の顔をしているように見える。

 確かにさまざまな兆候があった。とはいえ、まさか、核大国のロシアが他国に侵攻するなど想像すらしなかった。

 冷戦が終わり、世界大戦の危機が遠ざかった平和な世界で、女性や子どもたちの声を政治の場に届けていけるものだと期待していた。そうすることが、戦争を起こすような世界にしない近道だと思っていた。

 それは過大な期待だったのだろうか。

国際女性デイとプーチンと女性たち

 3月8日は国際女性デイだった。ロシアでも、国際女性デイのイベントがあり、そのひとつとして、10数人の女性代表とプーチンとのお茶会の様子が、テレビで流れた。画面を見た私は、女性代表たちの表情が能面のようだったことに強い印象を受けた。

 張り付いたような無表情の背後に何があったのか。抗議をこらえていたのか。プーチンのロシア侵攻の正当性を信じていたとも思えないのだが……。

 日本でもこの日、さまざまなイベントがあった。その一つが、国会で開かれ、夏にある参院選で女性候補者を増やす取り組みを各政党に聞く集会だった。女性のための政治スクールの30年に及ぶ活動について話をするように頼まれた私は、ウクライナ侵攻へのせめてもの抗議の意を込め、ブルーのセーターに黄色のミモザの花をつけてリレートークに参加した。

 国際女性デイは、1908年3月8日に由来する。ニューヨークで、まだ参政権のなかった女性たちが、労働条件の改善を要求してストライキを起こした。これを女性の政治的自由と平等のために闘う記念日としたのだ。

「政治スクール」に託した理想

 世界で初めて女性が参政権を得たのはニュージーランドで、1893年のこと。その後、多くの国で女性は参政権を得た。イギリスでは多くの女性が逮捕され、拷問を受け、命を投げ出してまでして、ようやく得た参政権だった。

 日本では、戦争に負け、マッカーサーのもと新憲法が発布されて、女性も参政権を得るに至った。その初めて行われた第1回衆議院議員選挙で誕生した39人の女性議員の一人、加藤シヅエさんを名誉校長に迎えて、女性のための政治スクールを開校したのは1993年2月。私には、女性が政治の世界に増えれば、平和な世界が持続するという理想があった。

 時は平成の初め。世界は大きく動いていた。1989年には冷戦の象徴だったベルリンの壁が崩壊した。あのデビッドボウイのコンサートに壁の東側で熱狂した人々が多くいたことを思い出す。

 1991年にはソビエト連邦が崩壊した。米ソが争い続けた半世紀近くに及ぶ時代は終わり、21世紀の世界は平和になる。私たち人類は未来に明るい光を見たはずだった。

 平和な世界を土台に女性や弱者を取り巻く不公平な法制度を変えるには、政治の世界に女性を増やすしかないと、私は思っていた。そしてなにより、戦争を二度と起こさない政府にするためにも、女性の政治参画が必要だと考えた。

1年間22回の受講を終えたスクール1期生の修了式。右側手前の車椅子に座っているのは加藤シヅエ名誉校長。立って挨拶しているのは私円より子事務局長。その左は加藤タキ校長。そのまた左は細川佳代子副校長=1994年1月26日

独裁者による戦争をなくすために……

 あれから30年。平成は幕を下ろし、令和の時代に入っている。それがどうだ。私たちが目にする世界、時代は、80年も逆戻りしたかのようだ。プーチンはまるでヒトラーかスターリンに見える。

 そんななか、スクールの出身者たちは町に出て、プーチンのウクライナへの侵攻に抗議している。札幌で市議を務める篠田江里子さんもその一人だ。

 彼女の祖父、樋口季一郎は、「日本のシンドラー」と言われている杉原千畝に匹敵する人道支援をして、何万人ものユダヤ人を救った人だ。その生き様を受け継いで、彼女もまた、平和な世界の構築に貢献したいと思っている。

 島根県議の角智子さん、埼玉県日高市議の田中まどかさん、スクール生たちは全国のあちこちで、プーチンのロシア侵攻が1日でも早く終わるようにと祈り、ウクライナの人々のために募金活動も実施している。

ロシアのウクライナ侵攻が始まってからずっと、スクール生の田中まどか・日高市議は抗議活動を続けている
ウクライナ侵攻が始まって以来、スクール生の田中まどか・日高市議は市民の有志と街で抗議を続ける

 一人の独裁者によって、人々の命と日常が失われるようなことを防ぐ一つの手段として、政治の世界に女性を増やし、声を上げ続けなければならない。そんな思いをスクール生はあらためて、そして強く感じている。私、円より子もまた、そう思ってスクールを30年続けてきた。

 平和と自由を希求し、男の世界と言われる政治の世界に飛び込み、差別や暴力に敢然と挑んできたスクール生たち。30年の節目に、これまでを振り返り、少しでもこれからの政治と社会に役立てればと思う。

世間を湧かせた細川護熙さんの新党宣言

 ちょうど30年前の1992年5月、月刊「文藝春秋」に載った、元熊本県知事細川護煕さんの新党結党宣言に世間は沸いた。地方主権、生活者主権を謳った保守中道の新党を立ち上げたのは、細川家18代目、藤原家26代目。

 政治に無関心な人々も、ニュースステーションで久米宏さんが、連日取り上げる細川護煕さんに、ミーハー的な関心を募らせた。文藝春秋に載った細川さんの文章は格調高く、政治は人々に暮らしの安定をもたらし、社会の方向性を示すだけでなく、品位と教養と凛々(りり)しさが必要だということを示していた。

 自民党の実力者、金丸信が「政治と金」の問題で逮捕されるなど、政治に対する不信感が社会に高まっていただけに、「日本を変える」という、侍のように後のない決意を秘めた細川さんの宣言は、清々しいイメージを人々にもたらした。

 ーー荒海に漕ぎ出していく小舟の舳先にたちあがり、難破することも恐れずに、今や失われかけている理想主義の旗を掲げて、私は敢えて確たる見通しを持ちえないままに船出したいと思う。歴史を振り返ってみれば、理想のための船出というものはいつもそういうものだった――。

後に続く女性たちのために船出をした津田梅子

津田梅子/写真提供・津田塾大学
 細川さんの新党結党宣言を読んだ私は、政治家ではない、一人の女性を思い出していた。2024年に発行される新札5千円札の顔になる、後に女子英学塾を作った津田梅子だ。

 1871年11月、津田梅子は開拓使派遣の5人の女子留学生の一人として、欧米視察の岩倉具視大使一行と共に横浜港を発つ。あと1ヶ月で満7歳になるという時だった。1871年といえば、明治4年、それまでは江戸時代だ。女子の留学は初めてである。「国家100年の計は女子教育にあり」という大きな理想のもと、実現した船出であった。

 5人の女の子たちが、着物を着て、船の舳先から海を見ている絵がある。5人は親とも故郷とも離れて見知らぬアメリカに旅立つ心細さがあっただろう。しかし、勇気ある女の子たちは、後に続く女性たちのため、そしてこの国の未来のために船出をするのだと、自分たちの役割と遠い将来を見据えてもいた。

 いつの時代も、目の前のことだけでなく、遠い将来を見据えて、難破することも恐れずに旅立つ人間がいるのだ。

この人となら、社会を変えられるかもしれない

第6期のスクールで日本の政治について語った細川護煕元総理。細川さんはスクールの顧問で、何度も、講義をしてくれている=1996年9月4日
 「文藝春秋」の発刊から間もなく、その細川護煕さんが私を訪ねてきた。新党は日本新党という名前を冠し、その結党に参加し、夏の参院選に出て欲しいとの要請だった。なぜ私に、と尋ねる私に、細川さんは「実は、毎日毎日、断られ続けているんです」と、疲れ切った表情を見せた。

 志高く、この国の人々のために政治を変えようと立ち上がった人のもとには、続々と人が駆けつけると思っていたのに、違った。何故か。

 地位も財産も名誉もある人たちには、何の実績もない新党に身を預ければすべてを失う、という冷静な計算が働いたのだろう。

 「そんなこと考えたら、何も変わらないじゃないですか」

 私は怒りに震えた。地位も財産も名声もある人は、社会を変えようなんて思いはしない。世の中を変えるのは、何も持たない、いや持っていても、失うことをいとわない人間だ。

 私の目の前にいるこの人は、すべてを持っているのに、それを投げ出して世の中を変えようとしている。私が変えようとしている社会は、この人となら変えられるかもしれない――。

 そう強く感じたのを、いまもはっきりと思い出す。

ニコニコ離婚講座をスタート

 私は津田梅子がつくった女子英学塾の後身、津田塾大学を卒業した。津田梅子がかつて卒業式で話したという言葉を胸に秘めて、人々の役にたつ仕事をしたいと燃えていた。

 津田梅子は言った。「あなたたちは幸運にも高等教育を受けることができたのだから、社会の役に立つよう働くのですよ」。私が卒業した当時、4年制大学を出る女性は5%に過ぎなかった。私はたまたま幸運にも教育を受けられた。それを社会のために活かさなければ……。

 ジャパンタイムズで働いた後、フリーのジャーナリストとして、高齢社会や家族のあり方について、北欧を中心に取材していた私は、『離婚します』という単行本を企画出版したのを契機に、毎月一度、金住典子弁護士の協力を得て、「ニコニコ離婚講座」を東京表参道のファッションビルで開き始めた。

 『離婚します』はタイトルが過激すぎて売れないと言われ、実際売れなかったが、表紙は『100万回生きたねこ』の絵本作家佐野洋子さんの絵であり、帯は野坂昭如さんが書いてくれるという贅沢なものだった。

1979年3月に出した『離婚します』。表紙の絵を佐野洋子さんの描いてもらった
『離婚します』の裏の帯には野坂昭如さんのコメントを載せた。離婚が悪のように言われ、隠す人が多かった時代、「離婚します!」と女性が元気に言える世にしたかった

 その野坂さんの事務所が乃木坂にあり、事務所名がニコニコ堂だった。それを見た私は、ニコニコ離婚講座がいいと閃いたのである。野坂さんには「今の時代は離婚を隠したり、離婚した人を蔑んだりする風潮があるから、ニコニコとつけるのは大賛成」と言ってもらえた。

家父長的家族制度、固定的性別役割分担を変える

ニコニコ離婚講座は全国から受講者が殺到した。100回目の離婚講座後に原宿で開いた記念会で、多くの支援者のおかげで続いたことに感謝する私円より子=1988年10月29日
 いざ開いたら、全国からの電話が鳴り響き、取材も殺到した。細川さんが我が家を訪れた頃の私は、新聞、月刊誌、週刊誌の連載を抱え、連日、テレビの主婦向け番組に出演、全国を講演で駆け回るなど、シングルマザーとして娘を育てながら、多忙な日々を送っていた。

 そうしたなか、離婚をめぐる法律だけでなく、税制、年金、雇用、福祉、からだや性のことまで、女性問題全般に渡り、その奥に家父長制度の残滓が残る家族制度、固定的性別役割分担の考え方が色濃く横たわっている社会を変えなければ、女性も男性も、なにより少数者の生きにくさは変わらない、自分らしく生きられない。そう感じることが多くなっていた。

 「政治なら、変えていけるでしょうか」と聞いた私に、細川さんは力強く答えた。

 「円さん、一緒に変えましょう」

女、子どもは後まわしの政治の世界

 「女、子ども」という言葉がある。女、子どもは黙っていろ、女に何ができる、といった文脈で、女を黙らせようとする。政治の世界も、政策も、予算も、女、子どもは後まわしだった。

 男が働き、女が家を守るという規範のもとに、雇用政策も税制もつくられていた。女子差別撤廃条約は1981年に発効したが、我が国が批准するのは1985年の男女雇用機会均等法の施行まで待たなければならなかった。

 当時の女性の就業状況を見ると、25歳から35歳がガクンと低い。いわゆる「M字カーブ」である。結婚、出産で仕事を辞めざるを得ない女性が多かった。仕事を続けても、昇給や昇進で、同期の男性との差はどんどん開き、私の友人の多くは一流企業に就職していたが、外資系会社のほうがまだましと転職した。

 離婚すると、資格も活かせず、低収入に甘んじるケースが多く、仕事をやめたことを後悔する人が大半だった。しかし、当時は出産や夫の転勤で、辞めざるを得ないのが実情だった。

まずはクオータ制度導入から

 そうした状況を変えるため、私はまず、女性の政治参画を促進しようと考え、日本新党の党則にクオータ制を導入するよう働きかけた。参院選で比例7位の私は落選したが、政策委員会の委員となり、連日、高輪にある党本部に入り浸るようになっていた。

 クオータ制とは、雇用や政治の分野で、人員構成に性別や人種などによる偏りが生じないように、一定の比率を定めておく制度を言う。

 政策決定の場で、男女の比率の偏りが大きいと、どうしても少数の声が届かない。ところが、政治家にも霞ヶ関の官僚にも、女性が圧倒的に少ない。政治、行政、企業、さまざまな分野にクオータ制は必要だと考えた私は、日本新党をそのモデルとして、先鞭をつけたかった。

 世界ではノルウェーが1978年、初めて男女平等法を制定し、どちらかの性が40%以上でなければならないとした。1986年には、ブルントラント首相以下、女性閣僚が4割以上の、女性内閣が誕生。以降、デンマークやスウェーデンなどの北欧諸国だけでなく、各国でクオータ制は採用されるようになった。

「平等原理の侵害」への反論

 ただ、日本新党で、クオータを党則に採用することには慎重意見もあった。「平等原理の侵害にあたらないか」「逆差別にならないか」というのが理由だ。私は耳を疑った。

 そもそも、現実は平等ではないし、差別だらけだ。

 男女の賃金に差があり、経済力はなべて男性のほうがある。選挙には、「三バン」(地盤、看板、カバン)が必要だと言われるが、その一つのカバン(資金)をもつのが女性は難しい。結婚で、氏を変えるのは圧倒的に女性。看板を維持するのも男性より困難だ。スクール生で地方議員になった人のうち、かなりの人が結婚と夫の転勤で、住まいを変えた。地盤を築くのも厳しい。

 男性はもともと高い下駄を履かせてもらい、女性より優遇されているといってもいいのだから、逆差別にはあたらない。私はそう言って説得に努めた。

政治の世界に出たがらない女性たち

 クオータという枠があっても、女性自身に出馬の意欲があるかという問題もあった。
「女、子どもが政治なんて」という価値観は社会に根強く、おとなしく、可愛くあれ、大きな声で主張するなど女らしくないと、がんじがらめにされてきて、立候補する女性は少なかった。本人がやる気になっても、家族が反対するケースもあった。

 さらに大きく影響したのは、政治に対する不信だ。汚い世界には入りたくないと、本音を言う人もいた。連日、嬉々として、日本新党に通う私を不思議な動物でも見る目で見ている人もいた。

 日々、問題が起きるとそれに対処し、新たに物事を作り上げ、志を同じくする人たちと国を変えるために活動することがどれだけ楽しいか。この人と思う女性たちをくどいてまわったが、思うように事は運ばない。

怪我の功名?で執行部に3人の女性

第40回総選挙(1993年)で当選した鴨下一郎氏と握手する細川護煕代表。右手前は円より子日本新党選対本部長。この総選挙で日本新党では35人が当選した=1993年7月18日、日本新党本部

 クオータを採用してもらうためにも、必死で候補者を探した私だが、もちろん主目的は、いつあるかわからない衆院選に女性に立ってもらうことだ。前回の第39回衆議院選は1990年2月18日だったから、党則を詰めていた1992年の冬は衆議院議員の任期が2年半を過ぎ、いつ解散総選挙になっても不思議ではない時期。細川代表らも候補者発掘に奔走していた。

 ついに細川さんから妥協案が出た。いつ衆院選がわからないこの時期に、候補者の20%とか30%を女性にと決めてしまうと、党則違反になる。しばらくは、党執行部にクオータを採用することにし、候補者のほうはいずれ変えることにしてはどうかというものだった。最終的に党則は、「執行部のメンバーはいずれかの性が20%を下回らないものとする」形で決着した。

 候補者にこそクオータを採用できなかったが、意思決定機関に2割の女性が入る意義は大きかった。加藤タキ、小池百合子、私円より子の3人が執行部メンバーとなり、党の意思決定に参加することになった。怪我(けが)の功名とも言えようか。(続く)

この記事の関連記事もお読み下さい>>>