ブチャの悲劇を東部で繰り返してはならない
国連安保理は憲章第6章の活用により、拒否権の束縛から脱却を
登 誠一郎 社団法人 安保政策研究会理事、元内閣外政審議室長
安保理における「拒否権」の起源
第二次世界大戦末期の1944年の夏から秋にかけて、米国、英国及びソ連の3カ月首脳がワシントン郊外のダンバートン・オークスに集結して、戦後の国際社会を律する国際的組織として「国際連合」の設立を議論した。その際には、安全保障理事会の表決方法について合意が得られず、この問題は翌45年2月にソ連のクリミアで開催されたヤルタ会談に持ち越された。
スターリンは、当初は安保理のすべての決議案採択に5常任理事国の拒否権を認めるべき旨を主張したが、チャーチルとルーズベルトは、拒否権を認めるとしても、極めて限定的にすべきと応じて、結論としては、手続き事項については拒否権を認めず、さらに実質事項のうち「紛争の平和的解決」(即ち、憲章第6章)にかかる問題については、紛争の当事国は棄権しなければならない、との妥協が成立した。なお、ソ連はこの妥協の代償として、自国内の共和国であるウクライナと白ロシア(現ベラルーシ)は独立国ではないのに、例外として国連加盟国として認めさせた結果、一国一票が大原則の国連において、ソ連は実質的に3票を有することとなった。この奇異な制度は、ソ連が解体して1991年にこの両国が独立するまで継続した。

ソ連邦が崩壊し、ウクライナとベラルーシが独立した1991年に開かれたミンスク会議。左から、シュシュケビッチ・ベラルーシ共和国最高会議議長、エリツィン・ロシア共和国大統領、クラフチュク・ウクライナ共和国大統領=1991年12月30日
ここで想起すべきことは、
・・・
ログインして読む
(残り:約4879文字/本文:約6659文字)