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スクール1期の開講中に迎えた政治の大転換/地方にも広がる女性議員を増やす運動

「女性のための政治スクール」30年の歩みから考えるジェンダーと政治【2】

円より子 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

 元参院議員の円より子さんが1993年に「女性のための政治スクール」を立ち上げてから来春で30年。多くのスクール生が国会議員や地方議員になり、“男の社会”の政治や社会を変えようと、全国各地で奮闘してきました。平成から令和にいたるこの間、女性に代表される多様な視点は、どれだけ政治に反映されるようになったのか。今もこのスクールを主宰する円さんが、「論座」の連載「ジェンダーと政治~円より子と女性のための政治スクールの30年」で、スクール生や自身の経験をもとに、現状や課題、将来の展望などについて考えます。(論座編集部)
※連載記事は「ここ」からお読みいただけます。

拡大「女性のための政治スクール」の開校式で話す円より子さん=1993年2月3日、東京都港区

 細川護煕・元首相が1992年に結党した日本新党が、日本の政党で初めて、党則にクオータ制度を盛り込み、党の意思決定機関の2割に女性が起用されることになった経緯は前稿「ウクライナ侵攻は男の顔をしていた~ジェンダー平等で平和・自由な世界を築けるか…」で書いた通りだ。候補者へのクオータ制の適用はかなわなかったが、代表の細川さんも党も、女性の候補者を出すことには熱心で、この人と思う人の説得を続けていた。

 といっても、女性であれば、誰でもいいというわけではない。今でいうジェンダー平等を理解し、平和や平等、自由、公正な社会の実現に寄与したいという思いを持つ、世襲ではない人に議員になってほしい。そんな人たちを育てるための“スクール”をつくろう――。そう私は思いたった。

 この提案はすんなり受け入れられ、私が事務局長として仕切ることになった。

「女性のための政治スクール」の狙い

 私が目指すスクールは日本新党のためのものではなく、この国の人々の命と暮らしを守る議員を超党派で育てるというものだった。そこで、「スクール生を選挙などの党勢拡大のために使わない」「どの党から出馬しても自由」「講師は各界から呼ぶ」という条件を認めてもらった。また、世襲議員でない議員を増やすという主旨から、男性でも、地盤、看板、鞄(資金)はないが、志はあるという人は対象とした。

 要は、志と思いがあれば、年齢にも性別にも党派にもこだわらないスクール。とはいえ、女性のほうが政界進出へのハンディが大きいこと、ただでさえ少ない女性議員をなんとか増やしたい思いから、100以上のネーミングを考えた末、「女性のための政治スクール」を選んだ。

 150人が入る党本部のホール、スタッフ、電話を貸してもらえることになり、1992年秋に“開校”の準備に入ると。メディア各紙が取り上げたこともあり、党本部には申し込みの電話が殺到。その数1400。定員は100を想定していたため、急きょレポートを課すことにした。

 クリスマスまでに、女性495人(80%)、男性123人(20%)の合わせて618人からレポートが届いた。年末から正月にかけて、スクールの校長をお願いした加藤タキさん、日本新党政策副委員長の安藤博さんらの審査員で必死に読み、本科生70人、公開講座生70人までしぼった。女性は120人、男性は20人だった。

名誉校長・加藤シヅエさんの心に響く挨拶

拡大「女性のための政治スクール」の開校式に出席した加藤シヅエ名誉校長(右)と加藤タキ校長=1993年2月3日、東京都港区

 1993年2月3日、いよいよ開校である。党のホールはスクール生とメディア関係者であふれかえった。名誉校長の加藤シヅエさんが元気に挨拶(あいさつ)をしたが、実はシヅエさん、年末に大腿骨を骨折していた。「年寄りとは思っていない」とおっしゃるものの、なにせ95歳だ。周りは心配したが、ご自身は意気軒昂。

 「日本の長い歴史の中に、特筆すべき女性の進出の突破口が開かれたという意味で、大変今日はおめでたい日です」から始まり、
「女性の進出とは、ただ、目立つところにぞろぞろと繰り出してパフォーマンスをして、目立てばいいというものではありません。内容が評価されるものでなければなりません」
「一人の人間が、どんなに小さな人間であっても、世のため、人のために、お役に立ちたいという気持ちが燃え続けている限り、その人の力に応じた経歴がついて歩いてくるのです」
など、心にズシリと響く、重い言葉が続いた。

 シヅエさんは第二次世界大戦中、この国で「産めよ、殖(ふ)やせよ」の国策がとられていた時代に、避妊具を手作りし、避妊を望む全国の女性たちに送っていた。家の窓ガラスはしょっちゅう割れていたという。「非国民と怒鳴って、石礫(つぶて)を投げる人たちがいましたから」。

 戦後、17歳で結婚した男爵だった夫との離婚がようやく成立し、後に労働大臣になる加藤勘十と再婚、タキさんを産んだばかりだったシヅエさんは、日本を占領した連合軍総司令官だったマッカーサーから、「女性の生き方を変えよう、良くしようと活動しているあなたが、なぜ立候補しないのか」と言われて1946年4月、女性が参政権を得た戦後初の衆院選に出馬。39人の女性当選者の一人となり、その後28年間、国会議員を務めた。

 彼女もまた、難破することを恐れず、荒海にこぎだした一人だったのだ。

拡大第90特別議会召集日の1946(昭和21)年5月16日、議員バッジを付け合う女性代議士たち。左が山口シヅエ議員=東京都麹町区永田町

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筆者

円より子

円より子(まどか・よりこ) 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

ジャパンタイムズ編集局勤務後、フリージャ―ナリスト、評論家として著書40冊、テレビ・講演で活躍後、1992年日本新党結党に参加。党則にクオータ制採用。「女性のための政治スクール」設立。現在までに100人近い議員を誕生させている。1993年から2010年まで参議院議員。民主党副代表、財政金融委員長等を歴任。盗聴法強行採決時には史上初3時間のフィリバスターを本会議場で行なった。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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