福島伸享(ふくしま・のぶゆき) 衆議院議員
1970年生まれ。1995年東京大学農学部を卒業後、通商産業省(現経済産業省)に入省。橋本龍太郎政権での行政改革や小泉政権での構造改革特区制度の創設の携わる。2009年衆議院議員初当選(民主党)の後、2021年の衆議院議員選挙で3選。現在無所属で5人会派「有志の会」に所属。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
首相の権威にすがり官僚も政党もそこにひざまずく安倍政権の「官邸主導」は政治の退化
令和の政治が抱える課題とそれへの対応について福島伸享(のぶゆき)衆院議員が考える連載「福島伸享の『令和の政治改革』」。3回目のテーマは平成の政治改革が目指した「官邸主導」です。取り上げるのは、首相がリーダーシップを発揮したとされる小泉純一郎政権と安倍晋三政権。ともに長期にわたった政権ですが、それぞれ「官邸主導」の実態はまったく異なります。なぜ、そうなったのか。その理由や背景をたどると、令和の政治改革で取り組むべき課題が見えてきます。(聞き手・構成/論座・吉田貴文)
※連載「福島伸享の『令和の政治改革』」の第1回、第2回は「こちら」からお読みいただけます。
――1990年代には衆議院への小選挙区導入を柱にした政治改革や、「橋本行革」に代表される行政改革などの改革が次々と進められ、新しい政治への道筋が整えられました。そこに登場したのが、自民党の異端児だった小泉純一郎さんの政権です。「自民党をぶっ壊す」と叫び、「官邸主導」の政治を志向した小泉首相の国民人気は高く、政権発足直後の支持率は8割に達しました。
福島伸享 小泉政権が誕生した2001年4月、私は経産省の官僚でしたが、衝撃を受けたのを覚えています。
――なぜ衝撃を受けたのですか。
福島 当時、国民の間には、自民党政権に対する不信感が日ごとに強まっていました。森喜朗政権は超絶に不人気で、末期には支持率がヒト桁まで落ちるという、さんざんな状況でした。それが一転、超人気の自民党政権が登場した。一体、何が起きたのかと思ったのです。
――「橋本行革」を成し遂げた橋本政権は、1998年参院選で自民党過半数割れの大敗を喫して退陣。小渕恵三政権が後を継ぎました。「冷めたピザ」と揶揄され、当初は不人気だった小渕首相は徐々に支持率を上げましたが、2000年4月に病に倒れ、森政権が誕生しました。
福島 森さんはいわゆる「密室談合」で首相になりましたが、「神の国」発言などの失言が絶えず、支持率は低迷し続けました。その頃、私はバイオ産業政策を担当していましたが、森政権の「ミレニアム・プロジェクト」という看板政策だったにも関わらず、なんら政治的関心を持ってくれず、絶望的な気分でした。国民も「自民党政権はもうダメ」という意識だったと思います。
そんななかで起きたのが、「加藤の乱」です。野党提出の森内閣不信任案に加藤紘一さんが賛成するかもしれない。「すわ、倒閣か」と緊迫した空気になりました。
――2000年11月、官房長官や自民党幹事長など歴任した加藤さんが、加藤派(宏池会)と盟友の山崎拓氏の山崎派と内閣不信任案に賛成する構えを見せ、森氏に辞任を迫りました。しかし、野中広務幹事長ら党執行部の切り崩しにあって「乱」は不発に終わり、内閣不信任は否決され、加藤さんは失脚しました。
福島 加藤さんはバイオ政策に興味があり、私もよく説明に行っていました。当時の政治家に珍しくメールをやっていたので、「最後までついて行きます」といった内容の長文のメールを送った記憶があります。
「加藤の乱」が成功するかどうかの日、新橋界隈の人通りがバタッと途絶えました。みんな家に帰ってテレビを見ていたのでしょう。加藤さんたちが自民党に反旗を翻すことで不信任案が成立することを、サラリーマンは期待していたんですね。
それがぽしゃったのは、国民にとって期待外れでした。やはり政治は変わらないんだという閉塞(へいそく)感が漂うなか、それを払拭(ふっしょく)したのが小泉さんでした。
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