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安倍政権と小泉政権の「官邸主導」から考える令和の政治改革に絶対に必要なこと

首相の権威にすがり官僚も政党もそこにひざまずく安倍政権の「官邸主導」は政治の退化

福島伸享 衆議院議員

 令和の政治が抱える課題とそれへの対応について福島伸享(のぶゆき)衆院議員が考える連載「福島伸享の『令和の政治改革』」。3回目のテーマは平成の政治改革が目指した「官邸主導」です。取り上げるのは、首相がリーダーシップを発揮したとされる小泉純一郎政権と安倍晋三政権。ともに長期にわたった政権ですが、それぞれ「官邸主導」の実態はまったく異なります。なぜ、そうなったのか。その理由や背景をたどると、令和の政治改革で取り組むべき課題が見えてきます。(聞き手・構成/論座・吉田貴文)

※連載「福島伸享の『令和の政治改革』」の第1回、第2回は「こちら」からお読みいただけます。

福島伸享さん=衆院議員会館

小泉純一郎政権の登場に衝撃

――1990年代には衆議院への小選挙区導入を柱にした政治改革や、「橋本行革」に代表される行政改革などの改革が次々と進められ、新しい政治への道筋が整えられました。そこに登場したのが、自民党の異端児だった小泉純一郎さんの政権です。「自民党をぶっ壊す」と叫び、「官邸主導」の政治を志向した小泉首相の国民人気は高く、政権発足直後の支持率は8割に達しました。

福島伸享 小泉政権が誕生した2001年4月、私は経産省の官僚でしたが、衝撃を受けたのを覚えています。

――なぜ衝撃を受けたのですか。

福島 当時、国民の間には、自民党政権に対する不信感が日ごとに強まっていました。森喜朗政権は超絶に不人気で、末期には支持率がヒト桁まで落ちるという、さんざんな状況でした。それが一転、超人気の自民党政権が登場した。一体、何が起きたのかと思ったのです。

――「橋本行革」を成し遂げた橋本政権は、1998年参院選で自民党過半数割れの大敗を喫して退陣。小渕恵三政権が後を継ぎました。「冷めたピザ」と揶揄され、当初は不人気だった小渕首相は徐々に支持率を上げましたが、2000年4月に病に倒れ、森政権が誕生しました。

「自民党政権はもうダメ」を払拭

福島 森さんはいわゆる「密室談合」で首相になりましたが、「神の国」発言などの失言が絶えず、支持率は低迷し続けました。その頃、私はバイオ産業政策を担当していましたが、森政権の「ミレニアム・プロジェクト」という看板政策だったにも関わらず、なんら政治的関心を持ってくれず、絶望的な気分でした。国民も「自民党政権はもうダメ」という意識だったと思います。

 そんななかで起きたのが、「加藤の乱」です。野党提出の森内閣不信任案に加藤紘一さんが賛成するかもしれない。「すわ、倒閣か」と緊迫した空気になりました。

――2000年11月、官房長官や自民党幹事長など歴任した加藤さんが、加藤派(宏池会)と盟友の山崎拓氏の山崎派と内閣不信任案に賛成する構えを見せ、森氏に辞任を迫りました。しかし、野中広務幹事長ら党執行部の切り崩しにあって「乱」は不発に終わり、内閣不信任は否決され、加藤さんは失脚しました。

福島 加藤さんはバイオ政策に興味があり、私もよく説明に行っていました。当時の政治家に珍しくメールをやっていたので、「最後までついて行きます」といった内容の長文のメールを送った記憶があります。

 「加藤の乱」が成功するかどうかの日、新橋界隈の人通りがバタッと途絶えました。みんな家に帰ってテレビを見ていたのでしょう。加藤さんたちが自民党に反旗を翻すことで不信任案が成立することを、サラリーマンは期待していたんですね。

 それがぽしゃったのは、国民にとって期待外れでした。やはり政治は変わらないんだという閉塞(へいそく)感が漂うなか、それを払拭(ふっしょく)したのが小泉さんでした。

内閣不信任案に賛成票を投じると発言した加藤紘一元幹事長は、合同総会に出席した議員から押しとどめられ、涙を浮かべた=2000年11月20日

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強力な党の力にどう対抗するか

――「自民党をぶっ壊す」と言って登場した小泉首相は、組閣にあたって「派閥順送り人事」を退けるなど、自民党の先例にとらわれない政権運営を目指しました。

福島 確かにそうですが、必ずしも党を無視したわけではありません。当時は、今から見たら考えられないほど党の力が強かった。「族議員」も健在な時代でした。小泉さんの「金看板」は郵政民営化ですが、郵政民営化法が審議されるのは2005年になってからです。小泉さんもすぐに実現できるとは考えていなかったと思います。

 強い党に対抗するためにどうしたのか。ひとつのポイントは財務官僚が首相を支える体制をつくったことです。5年半首相秘書官をつとめた丹呉泰健さん(後に財務次官)や、内閣官房副長官補の伏屋和彦さんら強力な布陣でした。“劇場型”といわれた小泉政治でしたが、実は財務官僚にがっちり支えられた政権でした。

 もう一つのポイントは官房副長官が果たした役割です。副長官は3人います。一人が事務担当の古川貞二郎さん。ベテランで非常に仕事のできる人です。政務担当が衆院議員の安倍晋三さんと参院議員の上野公成さんの二人。上野さんは一番目立たないのですが、実はこの人がポイントでした。

――上野さんがポイントとはどういうことでしょう?

福島 「族議員」の総本山は参議院なんです。当時は青木幹雄さんが参議院のボスで、上野さんは青木さんと密に連絡をとっていました。いわば自民党と官邸の調整役ですね。それを痛感したのは、私が鴻池祥肇・構造改革特区担当大臣のスタッフになった時です。

「構造改革特区」を発案、担当大臣のスタッフに

――経産省から出向したのですね。

福島 小泉首相は2002年6月に1回目の内閣改造をします。この時、鴻池さんが参議院から構造改革特区担当大臣になりました。

 実はあれだけの国民的期待がありながら最初の1年、小泉政権は何の成果も上げていませんでした。このままだとまずいということで、自民党政調会長の麻生太郎さんが特区構想をぶち上げ、私などの若手経産官僚が具体化しました。

 膨大な既得権益との調整が必要な政策の実現のため、古川官房副長官が特命担当大臣を付けることを福田康夫官房長官に進言しました。政策を具体化した私が、ミイラ取りになる形で、就任した鴻池大臣を補佐するために内閣官房に行くことになったのです。

――どうして構造改革特区だったんですか。

福島 小泉政権のスタート時、目玉政策を探していた麻生政調会長が、北九州の末吉興一市長が「中国の深圳でやっているような特区をやりたい」と言っているのを聞き、経産省に特区制度の検討してくれないかという「ご下命」がありました。

 当時、私はそうした政治案件を処理する特命チームにいました。トップは今、岸田文雄首相の秘書官をつとめる嶋田隆さん、現立憲民主党衆院議員の後藤祐一さんもいる少数精鋭の部隊でしたが、そこで規制改革をベースとする「構造改革特区制度」を構想しました。

――「構造改革特区」というのは日本初の試みだったわけですよね。

福島 そうです。全国一律で規制改革をしようとすると、既得権益を守る多くの族議員が抵抗して実現しません。そこで地方から声を上げてもらい、まずはその地方に限定して規制を変えて、うまくいけば全国に広げるという方法で、族議員に介入させずに構造改革を進めるという、私と後藤さんの発案です。

 官邸より党のほうが強い状況を、「官邸主導」に変えていく第一歩を「構造改革特区制度」で踏みだそうという狙いでした。国民からの支持が強い小泉政権だからこそできるという思いもありました。

政権発足一年で記者会見する小泉純一郎首相=2002年4月26日、首相官邸

総理の身代わりとしての特命大臣

 前回の「日本の政治と行政のあり方を変える!「橋本行革」の理想と挫折~令和の改革の課題は」でも触れましたが、日本の行政は前例踏襲で法令を運用することばかりが目的になり、経済の活性化とか国民の命を守るといった目的のために、新しい制度をつくるということができない。その点、構造改革特区制度の目的は明確です。要はその地方を元気にするということで、それを阻害する規制は変えようというわけです。

 こういうことがありました。自動車を載せて運ぶトレーラーは高さが3.9mに決められていて、トンネルもそれに合わせてつくられていました。それを北川正恭・三重県知事(当時)が4.2mまで認めてほしいと言う。輸送能力が1.6倍になり、コストが20~30%カットされるからです。ところが、「三重県のホンダの工場から積み出し港まではトンネルがないので4.2mでも大丈夫」と言っても、警察や国土交通省は規制をかたくなに変えない。

 構造改革特区担当大臣は、法的に言うと、内閣府設置法第9条に基づく特命担当大臣なので、首相の権限の一部を行使する存在です。「橋本行革」では内閣官房に一段強い調整能力を持たせるようにしましたが、そこで首相の身代わりになって各省と調整する役割を特命大臣に担わせた。「首相のご意向」というかたちで事を進めようとしたのです。

「どぶろく特区」にみる自民党の知恵

福島伸享さん=衆院議員会館
――身代わりですか。

福島 はい。トレーラーの例でいうと、国家公安委員長だった谷垣禎一さんが官僚が書いた答弁をもとに、「高くすると、安全性に問題がある」などと言うのに対し、鴻池さんは首相の身代わりとしての立場から、「警察庁の官僚答弁を読んでどないするんや」「ここで判断せえ」と迫り、谷垣さんが「検討します」と受けるかたちで、規制が変えられていきました。

 こうして幾つかの「特区」が実現しブームになりました。いわば官邸主導の先駆けをやったのですが、注意しなければならないのは、鴻池さんは首相の意向であれば、何でもできると考えていたのではない点です。国会で議論をする際には、必ず私を連れて上野官房副長官のところに行くのです。

 上野さんを介して、参議院の自民党に話を通していた。党が強い時代だったので、ちゃんと根回しをしたんですね。それがなければ、党は抑えられません。その好例が「どぶろく特区」です。

――「どぶろく特区」とはおもしろいですね。

福島 お酒づくりは、一定量以上を生産する能力がないと許可されません。農家がどぶろくをつくって自分で飲む分には構いませんが、お客に振る舞えば逮捕されました。その縛りを外すことには日本酒業界の頑強な抵抗がありました。

 小泉内閣の動きに合わせて、自民党にも「特区特命委員会」というのができて、その委員長に野呂田芳正さんが就任しました。でも、彼の実家は酒蔵。日本酒族議員のボスです。委員長として、「どぶろく特区」は認めるわけにはいかない。そこで一計を案じ、野呂田さんが海外出張に行くのを見計らって、党として「どぶろく特区」を認めることを決定しました。

 これが自民党の知恵なんです。野呂田さんは「私が海外に行っている間に勝手に決められた」と言える。党の顔を立てつつ、首相の看板政策を実現する。小泉政権は「強権」と言われることもあるけれど、そうではない。丁寧に調整をして事を進めていました。同じ「官邸主導」と言っても、安倍晋三政権と決定的に違うのはその点です。

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第1次安倍政権が短期で終わったワケ

――いま言われた安倍政権は、第2次以降の政権ですね。

福島 ええ。2006年9月に発足した第1次安倍政権は、2次以降とは別物でした。第1次政権は「美しい国日本」を唱え、日本の内閣では初めてと言っていいぐらい理念を前面に押し出して、憲法改正や教育基本法改正を進めようとしました。「戦後レジームの転換」を掲げ、ある意味、革命をやろうとしたわけです。

 それは首相の強いリーダーシップの下でやらなくてはいけないということで、塩崎恭久さんを官房長官にしたり、渡辺喜美を規制改革担当大臣をしたり、同世代の二世議員を中心にした“お友達内閣”をつくり、2006年12月に教育基本法改正させるぐらいまではうまくやりました。

 しかし、そこで党が逆襲し、郵政造反議員を復党させました。政権は失速し、閣僚たちの不祥事も重なって支持率は低下、1年で第1次安倍政権は幕を閉じます。党の力が依然、強かったのに、それを理解しなかったのが原因です。

――その後、自民党の福田康夫政権、麻生太郎政権がいずれも1年で退陣。2009年に歴史的な政権交代があり、民主党政権が誕生しましたが、鳩山由紀夫、菅直人、野田佳彦の三つの政権はいずれも短命に終わり、3年強で安倍さんに政権を奪われます。

福田 民主党政権が長続きしなかったのも、第1次安倍政権と同じ理由だったと私は思っています。「政治主導」を掲げ、大臣など政務三役を中心に政府主導の政権運営を追求しましたが、党との関係がうまくいかずに失敗しました。党、その背後にいる国民、業界などとの調整が、未熟でした。その後に続いた第2次安倍政権は、民主党政権とも、自らの1次政権とも大きく違っていました。このことについては、次回に説明いたします。

福島伸享さん=衆院議員会館

首相に忠誠をつくす官僚集団が政権を運営

――2012年12月にスタートした第2次以降の安倍政権は7年9カ月の長期政権になりました。その理由は何だったのでしょうか。

福島 ひとつは、経産省からきた今井尚哉秘書官や警察省の杉田和博内閣官房副長官といった「官邸官僚」が、首相を支える強力な体制をつくったことです。各省の次官や局長の人事にも露骨に手をいれ、官邸官僚に仕切らせました。

 これは首相に忠誠をつくす官僚集団が政権を運営するという、これまでになかったスタイルです。その萌芽は私も関係した「橋本行革」にありましたが、その時に目指していたものとは、似て非なるものです。

 「橋本行革」が目指したのは、いわゆる「政治任用」で、「リボルビング・ドア」(回転ドア)のようなシステムを入れて、日本中から官民を問わずベスト・アンド・ブライテストの人を選ぶというものでした。安全保障であれば、その専門家を官僚だけでなく、シンクタンクや大学からも選び、政権中枢で働いてもらうというやり方です。それが安倍官邸では、首相が気に入る官僚を使う「かたち」になった。

 これは「政治主導」ではなく「官僚主導」です。なぜなら、選ばれるのは出世競争に目ざとい霞が関の官僚だけで、結局安倍首相はそうした官僚たちに囲まれ、そのお膳立てで政権運営をすることになったからです。

 ただ、思いのほか機能しました。第1次安倍政権の“お友達”の二世議員、あるいは民主党政権の政務三役が指示をしても、霞が関は動きませんでしたが、政権の舞台回しのプロである官邸官僚による支配は効果がありました。

以前とは様変わりした自民党の文化

首相に返り咲き初めての会見をする安倍晋三首相=2012年12月26日、首相官邸
福島 長期政権になった理由のふたつめは、自民党の物事の決め方、自民党の文化が以前と変わったことです。
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