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子育てを終えた女性たちはなぜ政治に挑んだのか~少子化、自然保護……課題は様々

「女性のための政治スクール」30年の歩みから考えるジェンダーと政治【3】

円より子 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

 元参院議員の円より子さんが1993年に「女性のための政治スクール」を立ち上げてから来春で30年。多くのスクール生が国会議員や地方議員になり、“男の社会”の政治や社会を変えようと、全国各地で奮闘してきました。平成から令和にいたるこの間、女性に代表される多様な視点は、どれだけ政治に反映されるようになったのか。今もこのスクールを主宰する円さんが、「論座」の連載「ジェンダーと政治~円より子と女性のための政治スクールの30年」で、スクール生や自身の経験をもとに、現状や課題、将来の展望などについて考えます。(論座編集部)
※連載記事は「ここ」からお読みいただけます。

 女性を取り巻く法律や制度を変えるには女性議員を増やす必要があると、私は1993年、「女性のための政治スクール」を開校した。きっかけは細川護煕元総理が日本新党を立ち上げ、私を誘ってくれたことだった。(その経緯についてはこれまでの2回を参照)

 その日本新党の結党からこの5月でちょうど30年になる。細川さんがたった一人で記者会見を開いたのは1992年5月7日。当時、それから2カ月後の参院選で4人の参議院議員を誕生させ、その1年後に都議選と衆院選で大勝利を収めて、38年続いた自民党を野に下し、第79代内閣総理大臣になると想像した人は誰もいなかっただろう。

細川さんと小沢さんの密会で時代が動く

 前回「スクール1期の開講中に迎えた政治の大転換/地方にも広がる女性議員を増やす運動」で、不信任案の可決に伴い宮沢喜一首相が衆議院を解散。1993年7月18日の衆院選では55年体制を形成してきた自民、社会両党の不振で、日本の政治が大きな転換点を迎えたと書いた。その時、動いたのが、小沢一郎新生党代表幹事であった。

 投開票日から4日後の7月22日の夜。細川護煕日本新党代表と小沢氏の密会があった。この夜、私はこの二人の会談があることなど知らなかったが、彼らが会っていたホテルで、娘の誕生日を祝っていて、ばったり細川代表つきの秘書にでくわしたのだ。細川さんがいる、と直感した。

 この会談で、小沢さんが細川さんに8党連立内閣の首班になるよう提案。38年つづいた盤石の自民党政権の終焉に向け、カウントダウンが始まったのだ。

 ちなみに私は衆院選真っ最中に参議院議員になっていた。細川代表と小池百合子さんが参院議員を辞して衆院選にでて、小島慶三さんと私が繰り上げ当選になったのだ。

その後活躍する人材が多数当選した日本新党

衆院選に当選し日本新党本部に駆けつけた当選者たちと握手する細川護煕代表=1993年7月19日、東京都港区

 衆院選で日本新党が獲得した議席は35議席。今も政界で活躍する有能な人材が多く、面白かった。総理を務めた野田佳彦さん、海江田万里衆議院副議長、元国土交通大臣の前原誠司さん、立憲民主党の党首だった枝野幸男さん、自民党の茂木敏充幹事長、遠藤利明自民党選対委員長、元金融担当大臣伊藤達也さん、元環境大臣長浜博行さんなど多士済々。東京都知事の小池さん、愛媛県知事の中村時広さんもそうだ。

 枝野さんは日本の政党で初めて実施した公募に応募した数百人の中の一人だった。優秀で感じが良かったが、演説はあまりうまくなかった。二次試験は演説だ。お節介だと思いつつ、もう少し気持ちをこめて心から訴えるように話すといいのではと、休憩中にアドバイスした。“予行演習”をしてほしいというので、やったりした。

 そのせいだとは思わないが、彼は合格した二人の一人となり、埼玉県・大宮選挙区から出馬し、見事に当選した。

総理になった細川さんの心

 細川代表が首班指名を受ける特別国会が始まる前、新党さきがけの議員との会合があった。その頃、日本新党とさきがけが一緒になる話があった。席上、細川さんの首班指名の話が出ると、日本新党の議員たちは喜色満面で万歳と叫び、異様な興奮に会場中が包まれた。

 ただ、私は心弾まなかった。細川さんの心が日本新党から離れてしまったのではないかと思っていたからだ。隣にいた細川内閣の官房長官になる武村正義さんから、「嬉しそうじゃないね。みんなあんなにはしゃいでいるのに」と言われた。

 細川代表は総理になると、日本新党の議員は官邸には来ないようにと指示を出した。細川内閣を支えていこうと奮い立っていたのに、さきがけはいいが日本新党は官邸に来るなと言われた日本新党の議員たちは、親に捨てられた気分だったろう。なぜ、さきがけの議員を大事にして、自分たちを信用してくれないのかと鬱憤は大きかったに違いない。

 細川代表にすれば、8党連立という綱渡りの運営である。自分の党は常に最後という姿勢を見せないと、連立がもたない。みんなまだ一年生だから、政府より党をしっかり支えてほしいと思ってのこととだったのだと思う。

 総理になるということは、これまで以上に、国や世界のことを考えざるを得ない立場なのだ。

認証式を終え、記念写真を撮るために並ぶ細川護熙首相と閣僚=1993年8月9日 被写体所在地 皇居で

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地方にも「政治スクール」の分校が

 「女性のための政治スクール」は1期目のまっ最中だった。都議選の間に開いたスクールに細川さんが講師として登場したことは2話で書いたが、さすがに衆院選の間は休校。かわりに選挙後の8月、埼玉県武蔵嵐山の国立女性教育会館に泊まりがけの研修合宿を実施。衆参両院の国会議員と東京都議による「女性と政治」のシンポジウムも細川佳代子総理夫人の基調講演も大好評だった。

 合宿の直前に細川さんは第79代内閣総理大臣に指名され、佳代子さんに総理夫人という肩書が加わっていた。スクール合宿がいやがうえにも盛り上がったのは言うまでもない。

 東京以外にも、熊本、名古屋、静岡にスクールの分校ができていた。名古屋は河村たかしさんが、静岡は牧野聖修さんが始めたが、候補者として女性票を取りこみたい思惑もあり、衆院選中も女性たちを集めての大集会となった。

 熊本校は、細川佳代子さんが女性議員を増やしたいと本格的に開校したスクールだ。熊本は、今でも県議会などの女性議員比率は全国ワースト3に入る、どちらかというと、女性は表に出るなと言われる地域だ。だからこそ、佳代子さんは張り切って、地元の講師だけでなく、東京からも樋口恵子さんや塩田丸男さんなどを呼び、熱心に生徒も集めた。

 細川さんが総理となって日本新党ブームはピークに達していて、熊本スクールだけでなく、すべての分校は活気づき、賑わっていた。

細川佳代子さん(左)は「女性のための政治スクール」の名誉校長を勤めてくれている。何度も講師でも来てくれているが、特にスペシャルオリンピックスの話は感動的で、スクール生には、各地で、その手伝いをしている人が多い。

日本新党は解党したが「スクール」は継続

 ところが、支持率は高かった細川内閣は1994年4月25日、総辞職。羽田孜内閣が誕生する。だが、羽田内閣も2カ月で総辞職し、6月30日、自民党、社会党、さきがけが組んで、村山富市内閣が誕生する。

 社会党もさきがけも細川連立内閣の一員であった。残る6党は、次期衆院選に備えて大きな固まりを作る必要性に迫られ、新進党を結成する。

 この新進党に合流するため、日本新党は12月9日解党された。寂しさ、拠り所を失ったような不安感を振り払い、女性のための政治スクールだけは一人ででも続けようと覚悟を決めた。細川さんと日本新党の事務局長だった永田良三さんは、スクールは超党派だし円さんが作ったのだから、日本新党が解党しても、しっかり続けてくださいと言ってくれた。

永田さんと李香蘭

 ここで事務局長の永田さんにちょっと触れておきたい。陸士を出て、世が世なら将軍かと思えるような威風堂々とした人格者で、細川さんが新党をたちあげたので、熊本の経済界の人たちが、補佐役にと送り込んでくれた人だった。

 当時、70歳。人を、左翼だとか右翼だとか、保守とかリベラルとか、ゼロか一のような区分法は馬鹿げてると思うが、熊本の人から見れば、永田さんは保守中の保守の人である。

 エピソードがある。永田さんは満鉄の食堂車で、李香蘭と食事をしたことがあるという。

 当時の李香蘭といえば大スターである。彼女が食堂車に入ってきたが、あいにく、テーブルはうまっている。一人で食べていた永田さんに、「ご一緒してもよろしいですか」「もちろんです。光栄です。どうぞ」とさっと永田さんは立ち上がり、椅子を引いて彼女を座らせようとした時、陸軍将校の一人が、「おい、李香蘭、こっちに来いよ」
もちろん彼女は行かなかった。「私、こちらの方といただきますので」

 李香蘭の数奇な運命は調べていただきたいが、彼女は後に、参議院議員としても活躍した。

松崎哲久さん除名をめぐり一騒動

 話を戻す。実はその頃、私の身分は不安定だった。

 1993年の衆院選直前に除名になった松崎哲久さんが、手続きに瑕疵があるとして、中央選挙管理委員会を相手取り、訴訟を起こしていたのだが、解党の寸前の11月末に東京高裁で選管が敗訴。松崎さんの除名はないということで、「円より子の当選は無効」との判決が出た。

 判決当日の夕刊には「円より子議員の当選無効」との見出しが躍った。法務省の官房長だった原田明夫さん(後の最高検検事総長)が飛んできて、「円先生、最高裁で確定するまでは議員の身分は保障されますから、安心して今まで通りご活動ください。その後も大丈夫、大丈夫」と言ってくれたのは心強かった。

 手続きに瑕疵はなく公序良俗にも反していないことを証明するため、細川さんらは裁判の当事者として関わることを決め、翌年5月、最高裁で勝訴を勝ち取った。私の当選は有効となった。

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子育てしやすい社会をつくりたい

 翌1995年の春の統一地方選、最高裁判決のでていなかった私は、不安定な身ではあったものの、国会活動と党務に専念していた。スクール生の何人かが地方選に出ることになり、応援にも駆け回った。

 その一人、東京都杉並区議選に挑戦した押村貞子さんは1940年生まれ。戦中っ子である。家は造り酒屋で、父親は町議会議長や町長をやっていた。母親は家裁の調停委員で、二人ともいつも町の人たちの相談に走り回っていたという。

 押村さんは女子美を出た後、結婚。二人の子どもが社会人になった頃、夫が長期休暇をとり、オーストラリアの高校で日本の文化や歴史を教え始める。彼女も信託銀行の財形の勧誘員として働きながら、オーストラリアに行ったり来たりしていたが、自分の後半の人生をもっと人の役に立つことに使いたいと思うようになった。

 当時、気になっていたのは、急速に進む日本の少子化だった。若い二人がはたらきながら子育てを楽しめる社会づくりに貢献したい。そう思った時、父母が家族よりも町の人を優先していたのを思い出し、女性のための政治スクールの門をたたいた。

夫に支えられた選挙戦

杉並区議選に初めて無所属で立候補した押村貞子さん。仲間と一緒に。
 杉並区議選には無所属で出馬。テニスやスキーなど主婦の頃に続けてきたサークルの仲間が集まってくれた。何より力強かったのは、「君が区議になれば、僕は秘書兼運転手をするよ」と夫が言ってくれたことだった。私もテニス仲間も荻窪駅前でマイクを握って応援した。駅前の自転車置き場を借りての“青空選挙事務所”だった。

 この時は、わすか12票差で落選。本人だけでなく、友人たちもみな悔しがり、次は勝つぞ!と奮い立った。スクールに通いながら4年後に再挑戦。民主党の公認を受けて当選。区議を2期勤めた。

 2期目の途中、夫が末期がんで入院。その夫が、「一人で選挙は難しいかもな、もう次はやめたほうがいいよ」と言った。

 選挙事務所では、見たこともない人が、支持者だと言ってやってきては、「ここは酒も食べ物も出さないのか」と言ったり、ボランティアで手伝いますと言った人が法外な金を要求したり、仲間うちで喧嘩があったり、候補者が街頭演説している間に、ありとあらゆることがあり、それをさばいてくれる人がいるといないではずいぶん違う。押村さんの場合は、それを夫がやってくれていたのだ。

 「テニス仲間や友達がずいぶん手伝ってくれて、それはありがたかったけど、やっぱり、選対の中に、夫のような役割をしてくれる人って必要なのよね。夫がいてくれて、ほんとに助かった。私のやりたかった子育て支援や保育所が、区政でも目処がついたし、もういいかなと思ったの」

 夫は帰らぬ人となり、押村さんは3期目には出なかった。

政治の世界に踏み出すまでに20年

 押村さんがもうひとつ気になっていたのは、サラリーマンや子育て中の女性の声が区政に届いていないことだった。

 二人の息子が幼かった頃、西武線の駅の南北の行き来が不便で、住人から駅の立体化の要望が出ていた。古参区議と商店街の反対があった。「子どもを負ぶってみんなで署名を集めたり、所沢の西武本社にまで行ったりしたのよ」と押村さん。

 それを契機に、町のこと、住みやすさのこと、子育てのことに思いが及ぶ。しかし、彼女自身が、政治の世界に踏み出すには、それから20年以上の歳月を要した。

 子育ても終わり、夫がオーストラリアに行くという時、たまたま細川護煕さんが現れ、日本新党ができる。質実剛健、凛(りん)とした生き方を見て、それこそ自分の求めているものだと感動し、女性のための政治スクールに入校したのだ。

「25日のクリスマスケーキ」

 「25日のクリスマスケーキ」という言葉があった。今では死語になっている「結婚適齢期」という言葉もあり、25歳を過ぎると、クリスマスケーキのように叩き売りされる、24歳までに結婚しろという女性への警句であった。

 余計なお世話だと若い女性たちは反発したが、それでも、友人たちが次々、23、24で結婚していくと、親だけでなく、本人もけっこう胸中、焦りを感じる女性は少なくなかった。

 結婚して「25日のクリスマスケーキ」にはならないですんでも、次は「子どもはまだ?」のおせっかいが待っている。こちらはいまだに健在。不妊治療にかきたてられる要因のひとつだ。

 結婚も出産も個人の選択なのだが、周りの目、社会の慣習、こうあるべきという規範意識が人生の選択を左右する。

空の巣症候群に襲われる良妻賢母たち

 今も、働きながら子育てをするのは容易ではない。保育所、家事育児のワンオペ、長時間労働、狭い家等々、原因をあげればきりがないが、半世紀前は今の比ではなかった。保育園に入れることを、夫の親に反対された女性も多かった。「私の孫を救貧施設に入れるなんてとんでもない」と。当時の祖父母たちは保育園は救貧施設と思っていたのだ!

 3歳までは母親が手許で育てるべきという「3歳児神話」が、女性たちを縛っていたこともある。そうした社会規範を跳ね除けて、出産後も働き続けた女性たちもいるが、本当は2人目が欲しかったともらす人が多い。2人目を育てながら働き続ける環境は当時まずなかったのである。

 だからこそ、働きながら、子育てを楽しめる社会を、娘たちの世代には実現したい、子どもたちに豊かな自然環境を残したいと考えて、子育て後に出馬する女性が多いのだ。

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