会社がためこんだ内部留保を有効な投資に活用させるための国の工夫が必要だ
2022年06月02日
国内外に山積する課題に政治はどう向き合い、解決すればいいか――。現役の国会議員が政治課題とその解決策について論じるシリーズ「国会議員、課題解決に挑む~立憲民主党編」。落合貴之衆院議員による緊急連続対談「いま必要な経済政策は?」の第2回の対談相手は大島敦衆院議員です。
大島議員は参院選の立憲の公約に盛り込む経済・産業政策をまとめた調査会の会長。平成以来、日本経済が低迷する理由と再生のポイントについて、幅広く語っていただきました。コメント欄にぜひ、ご意見をお寄せください。(論座編集部)
(構成 論座編集部・吉田貴文)
大島敦(おおしま・あつし) 立憲民主党衆議院議員
1956年生まれ。早稲田大学法学部卒業後、日本鋼管(現JFEスチール)に14年間勤務、ソニー生命営業職を5年間勤める。2000年衆院選で民主党公募候補として初当選。民主党政権で内閣府副大臣、総務副大臣などを歴任。現立憲民主党経済産業政策調査会長。当選8回。埼玉6区
落合貴之 立憲民主党は夏の参議院選挙の公約をつくるため、八つの政策分野ごとに調査会をもうけ、検討を進めました。調査会ごとにとりまとめは終わり、党の政務調査会で公約をまとめています。今回の対談では、調査会の一つの経済・産業政策調査会の大島敦会長と立憲民主党の経済政策についてお話したいと思います。
私は経済・産業政策調査の事務局長をさせていただいていますが、そもそもこの調査会の名称は従来のものとは違います。これまでは「経済政策調査会」でしたが、大島会長の提案で「経済・産業政策調査会」にしました。なぜ、「産業」という言葉を入れたのでしょうか。
大島敦 今の日本に「産業政策」がないからですね。そこで、あえて「産業」という言葉にこだわり、調査会の名称にも入れました。私は大学を卒業後、日本鋼管(現JFEスチール)に14年間いましたが、1970年代末から90年代初めにかけての日本には、産業政策がありました。その頃と今とではまったく違います。
落合 日本経済が好調だった頃ですね。高度成長を実現した日本の社会・経済構造を称賛する『ジャパンアズナンバーワン』という本が話題を呼び、日本企業の海外進出も盛んで、経済的な繁栄を謳歌していました。東京・世田谷の職人の家に生まれた小学生の僕も日本の豊かさを実感していました。
大島 1989年にアメリカで出版され、日本で翻訳も出た『Made in America』という本があります。80年代にすっかり疲弊したアメリカ産業の再生を願い、MIT(マサチューセッツ工科大学)が日本や欧米の労使を対象におこなったインタビューなどをもとにまとめたものです。この本では、アメリカが再生するための詳細な分析と具体的な政策提言がまとめられています。日本も今、そういう時期にあると思います。
落合 日本が再生のために必要なものはなんでしょうか。
大島 平成を通じて日本の「ものづくり」が弱体化し、円安になった今も「売るもの」がありません。円安で最高利益をあげたという企業もありますが、優れた製品で稼いでいるといいのですが……。
落合 製造業が弱くなったのは確かですね。自民党政権は、成長しないと分配もできないと言ってきましたが、成長戦略はいずれも成功せず、企業の競争力は失われました。なにより深刻なのは先端産業が弱いことです。
30年前からデジタルの時代の到来は分かっていたのに、1994年と2015年を比べると国のデジタル投資はほとんど増えていない。アメリカでは3倍になっているのとは対照的です。デジタル化の核であるクラウドは海外の企業に依存しており、その支払いで年に1兆円以上の資金が流出しています。政府のクラウドでさえ海外企業が受注し、情報管理の問題が指摘されています。
さらに、30年前には世界の半導体の5割を生産していたわが国のシェアは今、1割まで落ち込んでいる。汎用品の半導体さえつくれない状況です。グリーンの分野でも2000年代以降、再生可能エネルギーが広がると言われながら、世界シェア4割だった太陽光パネルは00年代半ばに補助金が打ち切られて減速し、今やシェアは1%未満です。風力発電の設備も自前ではつくれません。
日本は成長分野でことごとく世界から後れを取っている。どうしてこうなってしまったのか。どこに原因があると思いますか。
大島 1990年代に起きたことを振り返ることが必要だと思うのですね。95年に私は鉄鋼会社を辞めましたが、その時、まだ係長だったにもかかわらず、ひそかに心に誓ったことが三つありました。
当時、バブルははじけていましたが、それでもしばらくは新規事業のために1千億円単位で銀行からお金を借り、半導体工場をつくったりした。それが過剰設備になって銀行にお金を返すのがままならなくなり、会社の経営を圧迫していました。また、過剰な人員の整理にも直面していました。
そこで私は、今後は銀行からお金は借りない、人はできるだけ雇わない、新しいことにチャレンジしないと誓ったものです。先輩の課長や部長もそうだったでしょう。その後、彼らは部長、取締役、社長になるわけですが、この時の「心象風景」に着目しないと、平成日本の経済は理解できないと思います。
その後、2000年代になると政府の円安誘導を背景に、30兆円の輸出規模が80兆円まで拡大しました。慎重な経営で内部留保を積み上げた企業は、90年代の窮状を脱して無借金経営となりました。並行して、労働市場の規制が緩和され、正規社員から非正規社員への転換が進んで、景気変動に柔軟に対応できるようになりました。その結果、2008年11月のリーマンショックを日本の企業は乗り切ることができたのです。
この“成功体験”によって、慎重な経営と柔軟な雇用形態こそが正しい経営だという確信を上場企業の経営者は深めました。企業はますます内部留保を積み上げ、新しいことにチャレンジしなくなりました。
落合 1990年代に会社が経験したことが、現在の「慎重すぎる経営」の根底にあるというわけですね。
大島 ええ。私が衆院予算委員会でこのことを指摘したら、かつての会社の先輩から即座にメールがきました。「日本社会・企業の構造的問題に切り込んでいる。21世紀の日本経済停滞の根源は、上場企業では私も含めて何もしない人が生き残ることにあると思います。政治の後押しが必要です。頑張ってください。期待しています」という内容でした。
落合 会社が新しいことに挑まないのだから、政府の成長戦略が代わり映えしないものになるのもある意味、当然ですね。
大島 もう一つの指摘しておきたいのは、1990年代後半に国が産業政策を立案することをやめ、民間の自由な判断に委ねる方向に舵を切ったことです。
落合 1997年からの日米通商協議で新自由主義的な政策への外圧が強まりましたね。
大島 はい。外から規制緩和や自由化、民営化、グローバル化などの新自由主義的な政策が奨励され、その後は日本政府自らが規制緩和や構造改革を進めました。企業では外国人株主の割合が増え、四半期ごとに経営のパフォーマンスが問われるようになり、中長期的な利益を見据えた技術開発や設備投資よりも、短期的な成果を追求する経営が求められました。
落合 それは冷戦が終わった後の世界的な流れだったのではないですか。
大島 他の国も民間の判断に委ねるようにはなったのですが、安全保障の分野においては国が主導して技術革新が進められました。それが、日本との間のイノベーションギャップを生んだと私は思っています。
たとえば、アメリカでは、インターネットの原型であるARPANETや全地球測位システムのGPSを開発したダーパ(DARPA)は、先端軍事技術研究プロジェクトを指導する米国国防総省の機関です。ダーパは医療用の手術支援ロボットの「ダヴィンチ」もつくりましたが、これはもともと遠隔で負傷兵を治療するための技術です。彼らはそこで科学のイノベーションを起こしている。
日本はそれができない。すべてを民間に任せたら、先述した社会・企業の風潮もあってイノベーションが起きなくなった。とすれば、国がやるべきことは明らかです。すなわち、明確な産業政策をつくり、投資に予見性をもたせる。そうして、企業が内部留保の活用に踏み切れる環境を整えていくしかありません。
落合 経済・産業政策調査会がまとめた政策の根底にあるのは、「慎重すぎる経営」を解凍し、我が国に集う国民の能力を最大限に引き出す方向に転換することです。
具体的には、研究開発費や人への投資を増やしてイノベーションを実現するため、我が国の研究開発費を今後10年間で現在の米国並みに引き上げる。また、光電融合、量子暗号、AIなど波及効果が高いイノベーションを、国家プロジェクトとして推進する。これまでと異なるレベルで「課題解決による経済成長」を中長期的な目標として掲げ、「投資の予見性」を確保します。
大島 NTTの方から去年の春、光電融合の話を聞いたとき、瞬間的に「これはいける」と思いました。これを2030年代までに社会実装したいですね。
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