落合貴之(おちあい・たかゆき) 立憲民主党衆院議員
1979年生まれ。慶應義塾大学経済学部卒業。三井住友銀行行員、衆議院議員江田憲司秘書などを経て、2014年衆院議員初当選、現在3期目。衆議院経済産業委員会野党筆頭理事、党政調副会長など歴任。著書に『民政立国論 一人ひとりが目指し、挑み、切り拓く新世界』(白順社)。東京6区。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
会社がためこんだ内部留保を有効な投資に活用させるための国の工夫が必要だ
大島 1990年代に起きたことを振り返ることが必要だと思うのですね。95年に私は鉄鋼会社を辞めましたが、その時、まだ係長だったにもかかわらず、ひそかに心に誓ったことが三つありました。
当時、バブルははじけていましたが、それでもしばらくは新規事業のために1千億円単位で銀行からお金を借り、半導体工場をつくったりした。それが過剰設備になって銀行にお金を返すのがままならなくなり、会社の経営を圧迫していました。また、過剰な人員の整理にも直面していました。
そこで私は、今後は銀行からお金は借りない、人はできるだけ雇わない、新しいことにチャレンジしないと誓ったものです。先輩の課長や部長もそうだったでしょう。その後、彼らは部長、取締役、社長になるわけですが、この時の「心象風景」に着目しないと、平成日本の経済は理解できないと思います。
その後、2000年代になると政府の円安誘導を背景に、30兆円の輸出規模が80兆円まで拡大しました。慎重な経営で内部留保を積み上げた企業は、90年代の窮状を脱して無借金経営となりました。並行して、労働市場の規制が緩和され、正規社員から非正規社員への転換が進んで、景気変動に柔軟に対応できるようになりました。その結果、2008年11月のリーマンショックを日本の企業は乗り切ることができたのです。
この“成功体験”によって、慎重な経営と柔軟な雇用形態こそが正しい経営だという確信を上場企業の経営者は深めました。企業はますます内部留保を積み上げ、新しいことにチャレンジしなくなりました。
落合 1990年代に会社が経験したことが、現在の「慎重すぎる経営」の根底にあるというわけですね。
大島 ええ。私が衆院予算委員会でこのことを指摘したら、かつての会社の先輩から即座にメールがきました。「日本社会・企業の構造的問題に切り込んでいる。21世紀の日本経済停滞の根源は、上場企業では私も含めて何もしない人が生き残ることにあると思います。政治の後押しが必要です。頑張ってください。期待しています」という内容でした。
落合 会社が新しいことに挑まないのだから、政府の成長戦略が代わり映えしないものになるのもある意味、当然ですね。
大島 もう一つの指摘しておきたいのは、1990年代後半に国が産業政策を立案することをやめ、民間の自由な判断に委ねる方向に舵を切ったことです。
落合 1997年からの日米通商協議で新自由主義的な政策への外圧が強まりましたね。
大島 はい。外から規制緩和や自由化、民営化、グローバル化などの新自由主義的な政策が奨励され、その後は日本政府自らが規制緩和や構造改革を進めました。企業では外国人株主の割合が増え、四半期ごとに経営のパフォーマンスが問われるようになり、中長期的な利益を見据えた技術開発や設備投資よりも、短期的な成果を追求する経営が求められました。
落合 それは冷戦が終わった後の世界的な流れだったのではないですか。
大島 他の国も民間の判断に委ねるようにはなったのですが、安全保障の分野においては国が主導して技術革新が進められました。それが、日本との間のイノベーションギャップを生んだと私は思っています。
たとえば、アメリカでは、インターネットの原型であるARPANETや全地球測位システムのGPSを開発したダーパ(DARPA)は、先端軍事技術研究プロジェクトを指導する米国国防総省の機関です。ダーパは医療用の手術支援ロボットの「ダヴィンチ」もつくりましたが、これはもともと遠隔で負傷兵を治療するための技術です。彼らはそこで科学のイノベーションを起こしている。
日本はそれができない。すべてを民間に任せたら、先述した社会・企業の風潮もあってイノベーションが起きなくなった。とすれば、国がやるべきことは明らかです。すなわち、明確な産業政策をつくり、投資に予見性をもたせる。そうして、企業が内部留保の活用に踏み切れる環境を整えていくしかありません。