「女性のための政治スクール」30年の歩みから考えるジェンダーと政治【4】
2022年06月05日
元参院議員の円より子さんが1993年に「女性のための政治スクール」を立ち上げてから来春で30年。多くのスクール生が国会議員や地方議員になり、“男の社会”の政治や社会を変えようと、全国各地で奮闘してきました。平成から令和にいたるこの間、女性など多様な視点はどれだけ政治に反映されるようになったのか。スクールを主宰する円さんが、「論座」の連載「ジェンダーと政治~円より子と女性のための政治スクールの30年」で、スクール生や自身の経験をもとに現状や課題、将来展望などについて考えます。(論座編集部)
※「連載・ジェンダーと政治~円より子と女性のための政治スクールの30年」の記事は「ここ」からお読みいただけます。
今から30年前の5月、細川護煕さんが日本新党を結成した。同党は日本の政党としては初めて党則にクオータ制を取り入れた。ひょんなことで、日本新党にかかわることになった私は、女性議員を増やそうと「女性のための政治スクール」を開校した。
冷戦が終わり、日本は「改革の時代」に突入していた。政治、行政、経済などの改革が進められたが、そこでは既得権益や既存の価値観との摩擦も生じた。ジェンダーも然(しか)り。改革の波に乗せて、前に進めようとしたものの、押し返す波の力も強く、行きつ戻りつを繰り返した。平成の「政治改革」という縦軸と、「政治スクール」という横軸が織りなす「ジェンダーと政治」をめぐる物語りの、今回は第4話である。
2022年の今、政治にワクワク感を持つ人はいるだろうか。残念なことに、ほとんどいないのではないか。
しかし、1992年はそうではなかった。細川護煕さんが日本新党を旗揚げすることでつくりだした「うねり」が、それまでの閉塞した政治を揺り動かし、女性も男性も政治が変わっていく気配に、ワクワクするような期待と高揚感を抱いたものだ。
岐阜県大垣市でクリニックを開いていた医師の小嶋昭次郎さんもその一人だった。
小嶋さんは医師として人助けのできる立場ではあったが、政治だとより多くの人を助けられる。政治こそが、人として目指すものとの考えを持っていた。
とはいえ、医師や弁護士なら、勉強して資格を取ればなれるが、政治家は、勉強したからといってなれるものではない。それに彼にすれば、既存の政党は、たとえば自民党も社会党も、そこで共に働く気になれないところばかりだった。
そこに現れたのが細川護煕さんであり、日本新党だった。
「やっと、自分が入りたい党、一緒に日本を変えたい党が出てきた!」と感動に震えたという。
日本新党から政治家になりたいと思った小嶋さんは、ある女性誌が名古屋で日本新党の海江田万里衆議院議員を招いて講演会を開くことを知った。抽選に当たるよう、何十枚も応募の葉書を書いた。
会場で会った海江田さんは、「円より子さんが『女性のための政治スクール』をやっているから、そこに入ったら」と教えてくれた。女性の? 男の自分が入れるのか?
男性も入れる、年齢も問わない、という海江田さんの言葉に励まされて応募。小嶋さんはスクールの2期・3期と、岐阜の大垣から通い続けた。“皆勤賞”だった。当時、スクールは月にほぼ2回、年に21回も開いていたのだから、地方から皆勤というのは熱心という他ない。
「他の講演やシンポにも行ったけど、円さんのスクールは本当に刺激的で面白かった。細川さんだけでなく、小沢一郎さん、羽田孜さん、米沢隆さんら、生の政治家に直接質問もできたから」
3期目のちょうど細川さんの講義の日、「次期衆院選の新進党公認になれそうだから、すぐ大垣にもどるように」と、小嶋さんのケータイに地元から電話が入ったのだという。1996年4月だった。
その年の10月、第41回衆院選が行われ、小嶋さんは岐阜2区から新進党公認で出馬。私も大垣まで応援に行った。
この第41回衆院選は、1994年12月に横浜で華々しくスタートした大型船・新進党にとって、“終わりの始まり”になった選挙だったかもしれない。代表の小沢一郎さんが、例外を除いて比例区との重複立候補を許さなかったから、多くの候補者が比例で復活できず落選したのだ。後に総理になる野田佳彦さんも、わずか105票差で小選挙区で敗れて落選したが、そういう現職候補者がかなりいた。
この選挙をめぐる怨念に、前年の党首選で小沢さんと羽田孜さんが激突したしこりも残り、衆院選から2カ月後、羽田さんらが離党。太陽党を結成する。細川護煕さんもまた、翌1997年6月に離党した。新進党は内側からの波にあおられ、難破しそうになっていた。
結局、97年末、小沢さんと鹿野道彦さんとの一騎討ちの党首選が行われ、勝った小沢さんが新進党の解党を宣言する。
私はその前に細川さんの後を追って離党していた。親しかった先輩、同輩に挨拶に行くと、円さん、新進党がなくなりそうだよと、みんな青い顔をしていた。その通り、新進党は3年で幕を下ろし、六つの党に分裂した。
96年衆院選に新進党から出馬し落選したものの、再起を期していた小嶋昭次郎さんも、居場所を失ってしまった。
ただ、小嶋さんはそこで諦めなかった。後述するが、細川さんや私と共に民主党の結党に参加。2000年衆院選に民主党公認で出馬する。だが、自民党王国とも言われる保守の牙城の岐阜のハードルは高く、この選挙でも健闘むなしく落選。
それでも、夫婦でクリニックを営み、地元の名士でもある彼はめげることなく、その後も民主党の市議や県議を誕生させることに尽力し続けた。
さて、政治スクールである。実はこの頃、運営が結構大変だった。女性たちは日本新党贔屓(びいき)の人が多く、細川さんが合流したとはいえ、新進党を応援したいという人は少なかった。スクール生たちに聞くと、「新進党は男の政党に見えて近寄り難い」と言われた。
1年が1クールのスクールは毎年、生徒を募集するのだが、生徒がなかなか集まらない。スクールは超党派ですと言っても、顧問の細川さんも事務局長の私も新進党の国会議員なので、どうしても新進党寄りに見えてしまうのだろう。それが応募者減につながっているようにみえた。
何故、男の政党に見える?と聞くと、小沢さん、二階俊博さんがいるし、女性が少ないとから、と言う。確かに、当時の新進党は218人の大所帯で、女性議員は18人、およそ8%である。でも、日本新党だって、女性はそんなにいなかったはず。
さらに訊くと、女性といっても、小池百合子さんや高市早苗さん、扇千景さんでしょ。あの人たちは私たち女性の代表に見えない。女性の顔した男の政治家よね、と。
うーむ、そういう印象なのか。
小沢さんも二階さんも夫婦別姓に賛成だし、非嫡出子の差別には反対よ、と言うと、えっ、と驚くスクール生が多かった。スクール生だけでなく、後に民主党になった時、元社会党の岡崎トミ子さんら多くの女性議員が、スクール生と同じイメージで小沢さんをとらえているのに驚いたことがある。
小沢さんがいるだけで、男の政党という強烈なイメージを、あらゆる人に与えているらしかった。それだけ存在感が大きいのだろう。じかに話す機会が多いと、優しい人だし、女性政策にも理解があることもわかるのだが……。
新進党が女性たちにあまり人気がなく、スクールの募集にも人が集まらなかったのは、権力闘争とゴタゴタぶりが目に余ったこともあるだろう。あんなにも政治にワクワクしたのに……、と落胆し、この時期は議員になりたいという人も少なかった。
スクールにとってはやっかいな新進党の3年間だった。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください