新進党は男の政党? 苦難の政治スクール 政治へのワクワク感薄れ細川さんも引退
「女性のための政治スクール」30年の歩みから考えるジェンダーと政治【4】
円より子 元参議院議員、女性のための政治スクール校長
3年で幕を下ろし分裂した新進党

華やかな結党大会でスタートした新進党だったが……=1994年12月10日、横浜・国立横浜国際会議場
この第41回衆院選は、1994年12月に横浜で華々しくスタートした大型船・新進党にとって、“終わりの始まり”になった選挙だったかもしれない。代表の小沢一郎さんが、例外を除いて比例区との重複立候補を許さなかったから、多くの候補者が比例で復活できず落選したのだ。後に総理になる野田佳彦さんも、わずか105票差で小選挙区で敗れて落選したが、そういう現職候補者がかなりいた。
この選挙をめぐる怨念に、前年の党首選で小沢さんと羽田孜さんが激突したしこりも残り、衆院選から2カ月後、羽田さんらが離党。太陽党を結成する。細川護煕さんもまた、翌1997年6月に離党した。新進党は内側からの波にあおられ、難破しそうになっていた。
結局、97年末、小沢さんと鹿野道彦さんとの一騎討ちの党首選が行われ、勝った小沢さんが新進党の解党を宣言する。
私はその前に細川さんの後を追って離党していた。親しかった先輩、同輩に挨拶に行くと、円さん、新進党がなくなりそうだよと、みんな青い顔をしていた。その通り、新進党は3年で幕を下ろし、六つの党に分裂した。
96年衆院選に新進党から出馬し落選したものの、再起を期していた小嶋昭次郎さんも、居場所を失ってしまった。
ただ、小嶋さんはそこで諦めなかった。後述するが、細川さんや私と共に民主党の結党に参加。2000年衆院選に民主党公認で出馬する。だが、自民党王国とも言われる保守の牙城の岐阜のハードルは高く、この選挙でも健闘むなしく落選。
それでも、夫婦でクリニックを営み、地元の名士でもある彼はめげることなく、その後も民主党の市議や県議を誕生させることに尽力し続けた。

衆院選後も民主党の総支部長として活動し、後継者を育てた小嶋医師
スクールに生徒が集まらない!
さて、政治スクールである。実はこの頃、運営が結構大変だった。女性たちは日本新党贔屓(びいき)の人が多く、細川さんが合流したとはいえ、新進党を応援したいという人は少なかった。スクール生たちに聞くと、「新進党は男の政党に見えて近寄り難い」と言われた。
1年が1クールのスクールは毎年、生徒を募集するのだが、生徒がなかなか集まらない。スクールは超党派ですと言っても、顧問の細川さんも事務局長の私も新進党の国会議員なので、どうしても新進党寄りに見えてしまうのだろう。それが応募者減につながっているようにみえた。
何故、男の政党に見える?と聞くと、小沢さん、二階俊博さんがいるし、女性が少ないとから、と言う。確かに、当時の新進党は218人の大所帯で、女性議員は18人、およそ8%である。でも、日本新党だって、女性はそんなにいなかったはず。
さらに訊くと、女性といっても、小池百合子さんや高市早苗さん、扇千景さんでしょ。あの人たちは私たち女性の代表に見えない。女性の顔した男の政治家よね、と。
うーむ、そういう印象なのか。
小沢さんも二階さんも夫婦別姓に賛成だし、非嫡出子の差別には反対よ、と言うと、えっ、と驚くスクール生が多かった。スクール生だけでなく、後に民主党になった時、元社会党の岡崎トミ子さんら多くの女性議員が、スクール生と同じイメージで小沢さんをとらえているのに驚いたことがある。
小沢さんがいるだけで、男の政党という強烈なイメージを、あらゆる人に与えているらしかった。それだけ存在感が大きいのだろう。じかに話す機会が多いと、優しい人だし、女性政策にも理解があることもわかるのだが……。

新進党の党首に選ばれ笑顔を見せる小沢一郎幹事長=1995年12月27日、東京・紀尾井町
新進党が女性たちにあまり人気がなく、スクールの募集にも人が集まらなかったのは、権力闘争とゴタゴタぶりが目に余ったこともあるだろう。あんなにも政治にワクワクしたのに……、と落胆し、この時期は議員になりたいという人も少なかった。
スクールにとってはやっかいな新進党の3年間だった。
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