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普通の女性が議員になる時~疑問に声をあげる勇気を持つ 背中を押す人の存在も

「女性のための政治スクール」30年の歩みから考えるジェンダーと政治【5】

円より子 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

 元参院議員の円より子さんが1993年に「女性のための政治スクール」を立ち上げてから来春で30年。多くのスクール生が国会議員や地方議員になり、“男の社会”の政治や社会を変えようと、全国各地で奮闘してきました。平成から令和にいたるこの間、女性など多様な視点はどれだけ政治に反映されるようになったのか。スクールを主宰する円さんが、「論座」の連載「ジェンダーと政治~円より子と女性のための政治スクールの30年」で、スクール生や自身の経験をもとに現状や課題、将来展望などについて考えます。今回はその第5話です。(論座編集部)
※「連載・ジェンダーと政治~円より子と女性のための政治スクールの30年」の記事は「ここ」からお読みいただけます。

 2022年6月初旬、銀座のミュージアムで細川護煕・元総理の、ウクライナ侵攻に怒り、祈りを捧げるチャリティー展覧会が開かれた。全国での募金も活動も始まった。

 その細川さんが日本新党を結成し、政界に嵐を巻き起こして30年。女性のための政治スクールも、政治に風穴を開けたいと努力してきた。

親に捨てられたような喪失感

 1998年4月30日、樽床伸二衆議院議員と二人、細川護煕元総理からホテルオークラに呼ばれたことは、前回「新進党は男の政党? 苦難の政治スクール 政治へのワクワク感薄れ細川さんも引退」で書いた通りだ。二人を前にして細川さんは、「私の役割は終わった。新しくできた民主党で頑張ってください」と言った。

 突然のことに言葉もなく国会に戻ると、民主党は蜂の巣をつつくような騒ぎになっていた。午後の本会議前の議員総会では、細川さんは無責任だと怒っている人もいた。3日前に、船出したばかりの新党に水を刺すと思ったのだろう。それに、2ヶ月後には参院選がある。

 社会党から旧民主に参加し、今回合流して一緒になった竹村泰子さんは、「あなたのボスも身勝手な人ね」と批判した。「そうですよ、参院選が近いのに、どういうつもりなんだろう」と言ったのは、日本新党ができてすぐの1992年参院選で、比例3位で当選し、細川さんに恩義があるはずの寺澤芳男さんだった。参院選の自分の順位にマイナスになると暗い顔をして嘆いた。

 私は、新進党を離党した時から、次の選挙は勝てなくてもいい、細川さんと行動をともにできれば本望だと思っていたから、フロムファイブがすぐ解党し、民政党も解党しても驚かなかった。ただ、日本新党がなくなった時以上に、細川さんが議員辞職したことには、親に捨てられたような喪失感を抱いていた。

議員辞職会見後、報道陣の質問を受けながら国会を出る細川護煕元首相=1998年4月30日、国会内

7人委員会のメンバーに挨拶に行くと……

 間近に迫る参院選では、比例区からでる候補者の順位を党が決める。その3年後の2001年参院選からは、比例の候補者も個人の名前を書いてもらい、その票数で当落が決まる選挙制度に変わったので、順位で当落が決まる最後の選挙だった。

 候補者にとっては、比例名簿の何位になるかですべてが決まる。生命与奪の権を党に握られているようなものだ。

 民主党結成が1998年4月27日。細川さんの議員辞職がその3日後の4月30日。参院選に向けた“選挙戦”は最終盤といっても良かった。

 6月のある日、鹿野道彦さんから「円さん、7人委員会のメンバーに挨拶に行ったほうがいい」と言われた。その委員会が順位を決めるからだ。私の選対の人たちと相談し、以前、知り合いの電通の子会社につくってもらった、国会議員になる前からの20年近い活動、つまり講演、テレビ、著作、離婚講座、女性たちのネットワークなどで、どれだけの支援者がいるか、どれだけの広告効果があったかなどをデータ化してもらっていたものを一枚紙にまとめて、すぐさま委員会の7人の議員に説明に行った。

 「殿から言われているからわかってますよ」といったのは熊谷さん。「小宮山洋子さんを引っ張り出した人がいて、いやあ、困ったなあ」と畑英次郎さん。「今頃来たって遅いですよ」とは山花貞夫さん。「他の人はみな7人を接待したりいろいろやっているのに、紙一枚ですか」と言ったのは鳩山邦夫さん。性格というか、細川護煕さんとの関係性がよくわかる対応だった。

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「凄腕ですね、どんな手を使ったんですか」

 参院選公示の前夜、順位が委員会で決まることになっていたので、私の支持者10人くらいが、私の宿舎の部屋に待機していた。本来なら、翌朝発表される順位は外に漏れないはずだが、夜12時近くになって、さる筋から8位に決まったとの報告が入った。

 誰もががっかりし、「細川を馬鹿にしている」「これは円さんの問題じゃない」と怒り、「比例なんか降りてしまえ」「東京選挙区から無所属で出るぞ」「細川代表に電話だ」と息巻く人も。電話をするには遅すぎる時間なので、ケータイではなく自宅に恐る恐る掛けてみると、娘さんが出た。薬師寺の高田好胤さんが亡くなられ、お通夜に行って今帰ったが、疲れてもう休んでいる、とのこと。一晩考えてみようと、会合はお開きになった。

 翌朝8時前、畑英次郎さんから電話が入った。円さん、3位になりました、という。

 えっ、3位? そうです。小宮山さんが1位で申し訳ないが、3位でも当選はできますから。

 すぐさま、細川さんに電話を入れた。昨夜は8位だと言われたのに、なぜか3位で、と言うと、円さん、果報は寝て待てというでしょ、と細川さんはとてもご機嫌だった。

 そこへ、高木剛ゼンセン会長(後の連合会長)から電話。「円さん、しばらく国会に行かない方がいいよ。嫉妬の炎が渦巻いているからね」と言う。

 忠告どおり、国会にはいかなかったが、この日は選挙戦の初日である。新宿に党代表や候補者があつまり、私も候補者として、第一声を発することになっていた。15分前に着くと、真っ先に鳩山由紀夫さんが、「円さん、良かったですね、おめでとうございます」と優しく挨拶してくれた。街宣車の屋根にあがると鳩山邦夫さんがいて、「あなた、凄腕ですね、どんな手を使ったんですか」。

 この第18回参院選で民主党は27議席を得て、現有議席が47となった。自民党は17議席も減らし、橋本龍太郎総理が責任をとって退陣。小渕恵三総理が後を継いだ。

参院選敗北の責任をとって自民党総裁(首相)を辞任した橋本龍太郎氏の後任の総裁に選出された小渕恵三氏=1998年7月24日、東京都千代田区の自民党本部

地方から参加が増えた「政治スクール」

 この頃、「女性のための政治スクール」は6期目を迎えていた。

 新進党の時と違って、応募者も増えた(このあたりの経緯については、前回「新進党は男の政党? 苦難の政治スクール 政治へのワクワク感薄れ細川さんも引退」で触れた)。特に地方から参加してくれる人が多かった。地方にいるキーマンが、スクールで勉強しろと、女性たちに勧めてくれたのも大きかった。

 前回に紹介した、岐阜大垣の医師で、新進党で衆院選に落ちたものの、民主党の総支部長になっていた小嶋昭次郎さんもキーマンの一人だった。

 まずは、既に社会党の県議だった不破照子さんに、もっと知識を得たいなら、女性スクールに行ったほうがいいと勧め、彼女の後継者にと考えた小嶋さんの秘書の野村美穂さんと一緒に、スクールに送り込んでくれた。さらに、市議候補として、粥川加奈子さんにもスクールの門を叩かせる。

 結局、大垣から、4人ものスクール生が東京まで通うことになった。

 今、野村さんは、不破さんが引退した後の岐阜県議となり、粥川さんは大垣市議として活躍している。二人とも国民民主党の所属だ。小嶋さんを師と仰いで教えを乞い、「小嶋さんは私たちのお父さん、そのお父さんが尊敬する円さんは私たちのおばあちゃんです」と街頭演説で語る。

10年以上も通う粥川加奈子さん

補助金申請のお手伝いのために危険な空き家を視察する粥川加奈子さん
 10年以上、スクールに通う粥川加奈子さんは、たぶんスクール生の中でも、一番長く通っている生徒だ。現職の市議になってからも、来ている。

 地方にいてはめったに聞けない、会えない講師の話が聞ける、たとえば、緒方貞子さん、世界銀行副総裁の西水美恵子さん、赤松良子さんなどの話はとても参考になったと言う。同じような問題意識を持つ人たちと話すとモチベーションがあがるし、スクール生から学ぶことも多いそうだ。

 政治の場面では決断をせまられることが多いが、そういう時の参考にもなると言う。ニュージーランドや韓国の研修旅行にも一緒に行った。

 粥川さんが政治の世界に入ったきっかけは、夫の友人が市議選に出るので手伝ってくれと言われたことだった。ウグイス嬢として、マイクを握るのは楽しかった。市長選も手伝い、女性の弁士が足りない時は応援演説までした。それが、小嶋昭次郎さんの目にとまり、出馬するはずだったところ、残念ながら死去した女性市議がいて、その後継として出ないかと誘われた。

 「夫がいやがると思ったら、頑張れと言うのよね」

 粥川さんが地域団体やNPO、PTAなどさまざまな活動をしていて、行政に言いたいことが山ほどあるのを知っていた夫は、市議になって変えればいいじやないか、と勧めた。その選挙では落選したものの、すぐさまスクールに登録。毎月上京して、本気で勉学に励んだ。

 2007年の統一地方選で民主党公認で出馬し当選。現在4期目を務めている。

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2人目を産んだばかりで出馬した野村美穂さん

 野村美穂さんが、県議選に出たのは、2人目の子を産んだばかりの時だった。小嶋さんはこんな時にどうかなと思いつつも、彼女しかないと思い、自宅に押しかけた。小嶋さんに言われると、野村さんは二つ返事で引き受けたと言う。もともと、小嶋さんの選挙に手伝いに来て、そのガッツに小嶋さんが感心し、秘書にした女性だ。

 「スクールにずっと通っていて、円さんのなぜ政治の世界に女性が必要なのかの話を聞いた時、雷が落ちたような衝撃を受けたんです」

 だから、次女が生まれてすぐだろうが、絶対にやりたいと思ったのだという。

 「若い世代も女性も少ない。もやもやしてた。だからすぐ、話を持ってきてくれた小嶋先生にイエスと言ったんです」

 長女は3歳。こちらも手のかかる年だ。

 夫に話した。夫は言った。子どものことであきらめるな。俺が主婦をやればいいんだろ、と。

 今、野村さんは岐阜県議4期目。議員になって良かったと思っている。性暴力被害者支援センターを実現するなど、さまざまなことに取り組んでいるが、政策を提案して、実現させるために奔走し、いよいよ実現しそうだという時のワクワク感がたまらないと言う。産後すぐ、初めての選挙に出た時のエネルギーを、今も失わずにいる。

 野村さんの場合、不破さんの支持者の票もあったし、事務所もスタッフも小嶋さんが用意してくれ、民主党公認もあり、恵まれていたこともある。しかし、当選に貢献したのは、天性の明るさ、そしてガッツだろう。

 先述の粥川さんも、最初は落選したが、1回くらい落選したくらいであきらめたらいかんと思っていたという。落選した翌日、地域の運動会があった。迷わず参加して走っていたら、体育連盟の会長がそれを見ていて、ガッツのある女性やな、応援してやれば良かったと、次から後援会長になってくれた。ガッツは、人を引きつけるのだ。

2021年12月議会での一般質問をする野村さん

女性たちの応援団として

 スクールには岐阜県だけでなく、石川県や岩手県、福島県など遠方から、元気な女性たちが大勢参加していた。

 山崎捷子さんは議員にはならなかったが、地域で議員を増やす活動や女性の地位向上に尽力していて、出前スクールの第一回は彼女の地元である会津若松で開いた。会津若松のホテルの経営者である山崎さんは、町の振興にも関わってきたが、なにより男女共同参画の活動に力を入れ、女性を支援してきた。

 彼女を見ていると、津田梅子が女子英学塾を作るのを、陰に陽に支援した大山捨松を思い出す。大山捨松は山川咲子といった。会津藩国家老の娘で、会津戦争では籠城している。梅子と共に、岩倉具視使節団の船で渡米、10年の留学生活を経て帰国後、大山厳と結婚した。

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