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内なるエネルギーを爆発させた女性たち~セクハラにめげずに政治を変える

「女性のための政治スクール」30年の歩みから考えるジェンダーと政治【6】

円より子 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

 元参院議員の円より子さんが1993年に「女性のための政治スクール」を立ち上げてから来春で30年。多くのスクール生が国会議員や地方議員になり、“男の社会”の政治や社会を変えようと全国で奮闘してきました。平成から令和にいたる間、女性など多様な視点はどれだけ政治に反映されるようになったのか。スクールを主宰する円さんが、「論座」の連載「ジェンダーと政治~円より子と女性のための政治スクールの30年」で現状や課題、将来展望などについて考えます。今回はその第6話です。(論座編集部)
※「連載・ジェンダーと政治~円より子と女性のための政治スクールの30年」の記事は「ここ」からお読みいただけます。

候補者の第一声に耳を傾ける有権者=2022年6月22日、札幌市中央区

 2022年夏の参院選がたけなわだ。男女の候補者を均等にするよう政党に求める「政治分野における男女共同参画推進法」(候補者男女均等法)の施行から4年。今回の参院選では全候補者に占める女性の割合は33・2%。衆院選を含めた戦後の国政選挙で初めて3割を超えた。

 女性の候補者が増えるのは望ましい。とはいえ、票ハラ、セクハラ、パワハラが女性たちに立候補をためらわせているのも事実。「良識の府」と言われる参議院でもセクハラはあったし、地方議会にいたれば驚くことの連続だ。

 それでも、めげてはいられない。「女性のための政治スクール」に参加した女性たちも、それぞれのやり方で内なるエネルギーを爆発させ、さまざまなハラスメントを超克して、一歩一歩、時代を切り開いてきた。

 「子育て世代、特に女性の声が市政に反映されていない」として1995年、鹿児島県加世田市(後に合併し南さつま市)の市議選に立候補して当選した平神純子さんも、その一人だ。

阪神大震災、地下鉄サリン事件、住専不良債権問題……

 当時、日本では大きな出来事が次々と起こり、参院議員だった私はそれへの対応に追われた。95年1月には阪神大震災が、3月には東京で地下鉄サリン事件があり、この国の危機対応のあり方が問われた。7月には参院選がおこなわれ、所属する新進党が躍進した。

 年末には、住宅専門貸付会社の巨額の不良債権処理のため、6850億円の公的資金の投入を政府が決めたことが政治問題化した。これに対し野党・新進党は委員会で追及するだけでなく、予算委員会室の前でピケを張って委員会を開かせないようにするなど、大反対戦術を展開する。 

 発端は1995年末の参議院決算委員会だった。臨時国会はすでに終わっていたが、野党筆頭理事だった私は閉会中審査を求め、村山富市総理、武村正義大蔵大臣を相手にこの問題を追及した。

 衆議院でも、年が明けて通常国会が始まれば追及しようと、議員たちは手ぐすね引いてていたのだが、村山内閣は1月11日、突如退陣。橋本龍太郎内閣が誕生したが、新進党による執拗な住専問題追及は続き、小沢一郎党首を先頭に大規模なデモも繰り広げた。

 デモには執行部のご夫人がたにまで動員がかかった。小沢夫人とも初めてお会いし、「写真を撮られたくないから、カメラマンから守って」と頼まれたのを覚えている。

住専問題を追及するために小沢一郎党首(前列右から3人目。右隣が筆者)を先頭に大規模なデモも行われた=1996年2月

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30代の大学生、命を守るために市議に

 平神さんと知り合ったのは1996年の夏。4期目に入った「女性のための政治スクール」に、鹿児島から参加したのがきっかけだ。

 初当選後すぐ、「鹿児島の女性議員を100人にする会」を立ち上げるなど、目立つ存在だった平神さんが市議に挑戦したのは大学生の時だった。とはいえ20代ではない。5歳と2歳の子どもがいる30代。社会人入試で大学生になっていたのだ。

 以前は高校の看護学科で教師をしていた。社会福祉や政治の勉強をしたいと大学に入ったが、卒業後の進路に困った。教師には戻れない。さて、どうするか。

 考えた末に出した結論は、市議選に挑戦しよう、だった。女性の声を政治の場に届けようと思った。

 知名度も地盤も、もちろん資金もない。できるだけ多くの人に会うしかないと思い定めた。2年生の時、2年後の春の統一地方選に出ると決意し、若い学生たちと後援会を作って次から次に人と会った。この町のすみやすさは? 子育てしやすい? 看護や介護が必要な時は? 議員って勉強してないと思わない? なぜ投票率が低いと思う? 2年間に2000人に会った。

選挙カーの前で手を振る平神純子さん

 いよいよという時、妊娠が分かる。1995年春の選挙時は臨月だった。2年かけて2000人にと会った地道な努力、「君のような人が出るべきだ」という夫の応援もあり、見事に当選した。

 「臨月で選挙」と新聞に載ったのが当選にプラスしたと彼女は笑うが、妊娠の計画もできない人に市政は任せられないと非難した女性もいたそうだ。

 市町村合併の影響もあり、平神さんはその後、2度落選した。看護師として働いていたが、2013年に復活。看護師としても市議としても、「命を守ることが自らの使命だ」と思う。そして、それを使命だと思う女性議員を増やしたい、とも。

 「鹿児島の女性議員を100人にする会」が目ざすの女性議員は現在80人。あと一踏ん張りですねと言うと、「いえいえ、あと20人が難しい」。合併で議員定数が減り、ここまでやっと戻ったが、島嶼部は人々の移動が少なく、保守的な考えが強く、女性が出るのが難しいらしい。

 でも、平神さんはめげない。「最近は30代、40代の候補者が増えてきて、たのもしい」と、元気いっぱいだ。

平神さんは鹿児島で女性議員を100人にしたいと、勉強会を開いている

法務委員会の野党筆頭理事として

 1997年12月に新進党が解党。次々と新党ができ、98年4月に民主党に収斂(しゅうれん)していった経緯は第4話「新進党は男の政党? 苦難の政治スクール 政治へのワクワク感薄れ細川さんも引退」で書いた通りだ。

 翌99年、20世紀最後の統一地方選でも、スクール生が多く出馬した。しかし、私はほとんど選挙の応援に行けなかった。というのも、参議院議員の2期目で法務委員会の野党筆頭理事になっていたからだ。当時、法務委員会は通常国会でいくつも重要法案を抱えていた。

 児童買春児童ポルノ禁止法、指紋押捺改正法案、そして、盗聴法である。盗聴法までは、公明党と協力して反対の論戦をはっていたが、公明党は自民党と組んで与党になったから、こちらは多勢に無勢、どんなに対策を講じても、与党は盗聴法成立を迫ってくる。衆議院の法務委員会はなす術もなく強行採決され、参議院にまわってきて、法務委員会の野党筆頭理事の私にすべてがかかっていた。

 私は、委員会前の理事懇談会で、法案審議の時間をできるだけ確保しようとしたが、それだけではあっさりと成立させられてしまうのは目に見えている。

 しかし、党本部は頑張れと言うだけ。本気で阻止したいなら、民主党をあげて、盗聴法阻止の運動本部を立ち上げてほしいと、鳩山由紀夫さん、菅直人さんに直談判した。その運動本部長として、他の野党、市民の人たち、学識者の応援も得て、国会や星稜会館などで毎夕、盗聴法阻止の会を開いた。

 99年の通常国会は2カ月も延長され、法務委員会の理事懇談会も1日に5回も6回も開くなど、明らかに異常な日々だった。

裸足で演説3時間、国会史上初のフィリバスター

 閉会直前、ついに強行採決が参議院でも行われ、その採決をした法務委員長の解任決議案が提出された。私に解任決議案への賛成討論をしろとの指令が出る。

 夕方から始まった本会議で賛成討論をはじめた私に、与党から激しい野次がひっきりなしに飛んだ。1時間ほどした時、野党の女性議員の多くがたちあがり、壇上で演説している私の近くまでつめかけた。何か叫んでいるが、議場が騒がしくて聞きとれない。そもそも本会議中に壇上近くに詰めかけるのはルール違反だ。

 斎藤十朗議長は何度も、皆さん、席にお戻りください、と言うが、男性議員たちまでもが立ちあがり、私の演説途中で本会議が休憩となった。まさに、前代未聞のできごとである。

 衛士に引き摺り出されるまで演説を長引かせてほしいと、北沢俊美国対委員長に言われていた。実際、成立を阻止できる策はそれしか残されていなかった。夕方に始まった本会議を夜中の12時まで続けられれば、阻止できる。

 ただ、衛士が来る気配はない。足が痛くなったのでヒールの靴を脱ぎ、裸足で演説したほどだ。

 かつて、衆議院で菅直人さんが30分で衛士に引き摺り下ろされた前例があった。だが、さすがに女性の円さんを引き摺りおろすのはまずい、身体を触るとセクハラにもなりかねない、と後で聞いたが、議長の真意はわからない。

 休憩を挟んで再開した私の演説は合計3時間にも及び、国会史上初のフィリバスターとして記録された。

参議院で3時間のフィリバスターをする筆者=参議院本会議場

自民議員のセクハラ発言に怒った女性議員たち

 ところで、演説している私のもとになぜ、野党の女性議員たちが詰め寄ったのか。実は、自民党の保坂三蔵議員が、私に対するセクハラ発言をし、それに怒った女性たちが立ち上がったのだった。

 盗聴法の問題点にも委員長解任にもまったく関連なく、突如、保坂議員は「あんたも離婚したんだろ」と野次を飛ばしたらしい。大きな声だったらしいが、他にも野次を何十人と飛ばしているから、私には全く聞こえなかった。しかし、近くで聞いた女性たちが、これは聞き捨てにならぬと、立ち上がったわけだ。

 休憩中にそれを聞いた私は笑ってしまった。「離婚したんだろ」に私がひるむとでも思ったのか。それで、演説が早く終わるとでも? 

 演説を再開した私は開口一番こう言った。

 「まず、なぜ、私の演説が中断されたのかを皆さまにご説明したいと思います。自民党の某議員が、あんたも離婚したんだろという、野次をとばされたと聞いております」

 それから、私はきわめて冷静に、盗聴法とは何の関係もない野次であり、「あんた」という下品な呼ばれ方は私個人だけでなく、離婚女性すべてを貶める言葉であり、謝罪してほしいと話した。

 そもそも、離婚女性と子どもたちが困窮に陥っているのは、長らく与党であった自民党の政策に問題があるからだ。女性が結婚しても働き続けることができ、夫婦で子育てしながら、働けるような柔軟な働き方、男女の賃金、昇給昇進に差がない社会であれば、仮に離婚してもシングルマザーも子どももしっかり生きていける。野次をとばしたような人に見られる、離婚に対する偏見差別が、離婚家庭を苦しめているのだ――。

 女性の生き方や政策について、それまで何十年と言い続けてきたことを、国会の場ではからずも披歴(ひれき)できた。有り難い野次のおかげである。

◆参議院本会議で演説する筆者(動画)

 

 1999年の8カ月に及ぶ通常国会は、文字どおり休む間もない忙しさだった。与党理事からは「円さんは性格が悪いね」と言われ、味方と思っていた民主党議員からも「そんなに頑張ってどうする」「自分だけかっこよくするな」と言われる。夢でも法務委員会の理事懇談会で与党理事とやりあっていて、これは夢の中で話したことかしら、昨日の理事懇談会で主張したことかしら、と混乱するほどだった。

米軍基地のある町で出馬

 そんな状況だったから、20世紀最後の統一地方選に出馬した人たちの応援にはどこにも行けなかったが、その時に当選した一人が、岩国市議となり、今も5期目で活躍している姫野敦子さんである。選挙の直前に決意、無所属で初当選した。

 姫野さんはもともと病院勤務看護師だった。ところが次男を出産後、夜勤のある仕事と二人の子育てが両立できずに看護師をやめ、訪問看護をしながら三男を産む。その後、県の教育委員会の生涯学習ボランティア活動のコーディネーターに精をだしたが、その関係で行政の課題に気づくことが増え、仲間と市議会の傍聴に行くようになった。

 行ってみると、傍聴席に女性はいないし、議会にも女性議員がほとんどいない。これじゃ、私たちの声は届かないね、と思った。審議会というのがあって、市民の声が届く「形」こそとっているが、メンバーはどこも同じ。議論もない。これでいいのか。

 おかしいよね、誰か市議にだそうよ。しかし、出ようという女性はいない。それなら私がやるしかない。地盤も資金も何もない。だけど、出ないより、出て、やれるだけやろう――。時間がないなか、数人の友達と、家の前にかける看板を手作りして、ペンキを塗ることから始めた。資金は夫に借りた20万円。

 「女子どもに政治ができるか」「女は布団の中で、子どもでも作っておれ」と面と向かって言われるような、男女共同参画なんて遠い遠い山口県である。くわえて岩国市は、真ん中に米軍基地があり、事故や騒音、レイプなど基地関連の問題は多いものの、基地に反対しない市長を選べば、まあまあ楽な生活ができると思う人が多い町だ。よくもまあ、勝てたと思う。

 39歳。若く元気だった。女性の声、看護介護の現場の声を届けられない市議会を変えたい。その強い思いが、市民を動かしたに違いない。

2016年1月の岩国市長選に出場した姫野敦子さん。

障害者、看護、介護の施策の向上を願って

 初めての市議会以来、毎回一般質問をしている姫野さんだが、必ず手話を自分でやりながら質問している。議会に耳の聞こえない人はいないが、ケーブルテレビを見ている人、傍聴者にはいるかもしれない。バリアフリーの議会をめざしたかった。

 ところが、男性の議員の中には、手話を揶揄して「またタコ踊りやってやがる」と言う輩(やから)がいた。「やっとそういう人たちが引退したり、落選していなくなりましたけど、最初は、礼儀知らずというか、障害のある人たちを平気で馬鹿にするような態度の人が、けっこう与党にいたんです」と言う。

 順風満帆だったわけではない。

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