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つくづく怖い参院選 歴史から見えるその本質~戦後日本政治を決めた三つの選挙

実績評価という本来の役割を越える決定力。令和4年の参院選ははたして……

曽我豪 朝日新聞編集委員(政治担当)

 6月22日に公示された参院選も、7月10日の投開票に向け与野党の論戦がいよいよ最終盤に入った。ただ、マスコミ各社が報じた中盤までの情勢調査はいずれも、与党が改選過半数を制する可能性の高さを示すものばかりだ。

 そのせいだろうか、「改憲勢力」が非改選を含め国会発議を可能とする「3分の2」を越えるか、逆に言えば「護憲勢力」が「3分の1」の防衛線を維持できるか、その勝敗ラインがさらにクローズアップされてきたように思う。

参院選の演説に耳を傾ける有権者ら=2022年7月3日、札幌市中央区、

結果次第で改憲の国民投票に進む可能性

 むろん、具体的な条項改正など各論で意見に幅のある自民、公明、日本維新の会、国民民主各党を「改憲4党」と一括りにするのは、改憲論議の対決構図を単純化し過ぎるきらいはある。それに、衆参両院で「1強」体制を誇り、自公与党で3分の2を超えた安倍晋三政権でさえも、改憲の国会発議にこぎつけられたわけではなかった。

 とはいえ、ロシアのウクライナ侵攻が日本の防衛体制の強化論と共に緊急事態条項をはじめとする改憲論議を加速させる情勢はある。参院選の結果次第で「改憲4党」を軸にした詰めの作業が加速され、具体的な条項改正案に基づく多数派が形成されれば、現行憲法下で初の改憲を問う国民投票へと進む可能性はある。

 だとすれば、つくづく参院選とは怖いものだと思う。実績評価という本来の役割を越え、衆参のねじれを契機にして政権の存亡や国会の多数派体制の興亡を決定づけてきたからだ。

意義深い自民党発足から3回の参院選

 筆者は参院選公示前に、この「論座」で平成初期以来30年余りの歴史を振り返る記事「参院選は難しく、しかも重要だ~政治激動の予兆が垣間見えた3ケースに学ぶ」を書いた。だが実は、戦後昭和期の自民党長期政権時代の出発点からして、そうした参院選の決定力は明らかだった。とりわけ、左右社会党が統一され、自由、民主両党の合併により自民党が誕生した1955(昭和30)年から3回の参院選は意義深い。

 具体的には、
・自民党の初代総裁となった鳩山一郎首相のもとでの1956(唱和30)年、
・石橋湛山首相を挟んで3代総裁に就いた岸信介首相のもとでの59(昭和34)年、
・岸首相の後を襲った池田勇人首相が審判を受けた62(昭和37)年
の参院選である。米ソ冷戦の激化、経済成長への流れを基調にした時代背景のもと、いずれも憲法改正や成長政策の是非を争点にした「自社対決」により争われた。

 今もまた、世界及び日本の国民の生命と財産が脅かされるコロナ禍とウクライナの二大危機を受け、まさに「平和と景気」の回復が問われる時代である。第2次世界大戦の終結から10年余りしか経っていなかった日本で行われた三度の参院選で、有権者がどんな道を選び取ったのかを振り返ってみたい。

参議院本館側から見た国会議事堂=2022年6月22日、国会

1956年参院選~鳩山一郎政権

 まずは1956年の参院選から見てみる。

自民、社会の勢力比は現状維持

 朝日新聞の縮刷版で7月8日投票の参院選の結果を報じる紙面を確認すると、開票作業が1日ですんでいないことに気付く。初めに地方区の半数、次にその全体、最後に全国区の選挙結果が判明する。刻々と全体情勢が見極められてゆくあたりがかえってリアルだ。見出しは以下の通り。

「地方区の半数確定 自社の分野、余り動かず」「緑風の不振目立つ 新顔進出 無所属はふえる」「全国区開票にかかる 憲法改正をめぐる争い」=7月9日朝刊

「地方区で社会党六名増加 自民、三議席減る 緑風は当選者なし 75議員全部判明」=9日夕刊

「革新派〝三分の一〟すれすれ」「参院の政党化強まる」「全国区 官僚、労組出身が進出」=10日朝刊

 一読して、
①自民、社会両党の勢力比はほぼ現状維持で、鳩山政権の存続は揺らがなかった、
②保守系無所属議員が集まり戦後の国会で存在感を示してきた緑風会が惨敗した、
③参院の政党化が進み、自民党の場合は官僚、社会党の場合は労組といった人材供給源のありかが鮮明になった、
④革新派、つまり護憲派が改憲阻止に必要な3分の1を超える勢力を得た、
ことがわかる。

 ただ、この参院選が持つ「決定力」の本当の意義深さは、当時の政治状況を踏まえてみなければ分からない。

 保守と左派・中道、あるいは保守同士で、政権交代を含めて目まぐるしく政権が移り変わり、政党が離合集散を重ねた戦後の混乱期の直後である。自民党の結党自体、保守勢力の分裂と国会運営の行き詰まり、社会党の統一に危機感を募らせた結果の対応策であり、それまでのように一過性のもので終わる可能性もあったろう。社会党が政権奪取に向けた橋頭堡(きょうとうほ)を築けるか否かも含め、56年参院選は「二大政党」にとって初の試金石となったのだ。

決定づけられた“二大潮流”

 しかも、憲法改正を正面から唱える首相が初めて審判を受けた国政選挙でもあった。鳩山首相は、軽武装・対米協調路線に立った吉田茂前首相に対抗し、改憲や日ソ交渉に強い意欲を示していたのだ。

参院選の応援のため渋谷駅前でオープンカーから演説する鳩山一郎首相。「日本はいま外交、内政両面で重大な時期に立っている。自由と独立に害のあるような占領中の諸制度を改めてゆきたい」と語った=1956年7月3日、東京都渋谷区の渋谷駅前

 参院選前の「激突国会」の実情は「昭和史講義【戦後篇】(上)」(筒井清忠編 ちくま新書)の第15講「鳩山一郎内閣」(武田知己・大東文化大教授)に詳しい。「憲法改正論者であった鳩山は、日本自身は軍隊を持つべきだと論じて譲らなかった」うえ、「日本は『他に手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ』ると主張するなど」「たえざる与野党対立の種を撒き続けた」という。

 さらに、「新教育委員会法案や小選挙区法案、あるいは前年に廃案となった憲法調査会法案や国防会議設置法案など一連の重要法案を、一気に国会で押し切ろうとした」結果、「鳩山内閣は戦前の思考そのままの保守反動内閣だとの批判が本格化」したとある。

 だが、参院選の結果は、鳩山政権の存続だけでなく、後に続く“二大潮流”を決定づけることとなった。武田教授は「両院ともに自民党が目指した憲法改正の発議は当分不可能となった」「二大政党下初の国会は政府自民党に不利な結果を生んだと総括されよう」としつつ、「やや強引に解釈すれば、この時、日本国民は自民党に政権は委ねるものの、憲法改正は望まないという信託を下したとも解釈できる」と指摘する。

 強硬で拙速な改憲論は国民に警戒心を抱かせる。だが、護憲論だけでは政権交代を生む決定力は生じない。その二つが歴史的な教訓になったということか。

 ただ、法案修正などで是々非々路線の成果を挙げてきた緑風会が存在感を減じたことにより、国会の「緩衝地帯」は消えた。「官僚組織対労働組合」といった下部構造を含め、「自社対決」の祖型が定まった選挙でもあった。それは、岸信介政権下で大衆運動を巻き込んだ度重なる「激突」を生んでゆく。

1959年参院選~岸信介政権

 次に1959年参院選を見てみよう。

政権に安定基盤を許した社会党、野党多党化の兆しも

 この参院選は、58年の「警職法騒乱」と60年の「安保紛争」の間に行われた。岸政権の存亡と共に、社会党の躍進の可否が焦点となってもおかしくはない選挙のはずだった。

 岸首相は58年5月の衆院選で絶対安定多数を確保し、日米安保条約の改定作業を本格化させた。だが、時を同じくして国会に提出した警察官職務執行法(警職法)改正案に対し、その強権性を指弾する批判が高まり、「デートも出来ない警職法」とのスローガンのもと反対の大衆運動が広がった。

 岸首相は審議未了・廃案を余儀なくされたばかりか、前倒しの自民党総裁選で再選を果たした正面突破策が非主流派の反発を呼び、池田勇人国務相ら3閣僚が辞任した。求心力の低下は覆い難く、衆院選で強大化した政権に対して参院選で批判票が大量に出る可能性もあっただろう。

 だが、結果は違った。今と違い6月2日の火曜日に投票された参院選の開票紙面の見出しははこうだ。

「地方区当選者、出そろう 自民、過半数を確保」「社党、東京では全滅」=6月3日夕刊

「参議院の新分野きまる 自民〝絶対多数〟獲得 社党、辛うじて3分の1」
「創価学会は全員当選、共産一人」=4日朝刊

 社会党は改憲阻止に必要な基数の確保には何とか成功したものの、岸政権に国会運営の安定基盤を許した。同時に今日の公明党につながる「創価学会」の参院進出が際立ち、後の「野党多党化」現象の兆しが浮かんだ選挙ともなった。

1959年参院選で朝日新聞東京本社の開票速報に見入る人びと=1959年6月3日、東京都千代田区有楽町の朝日新聞社前(当時)

護憲派の3分の1の壁は崩せず

 後に岸氏は、「警職法改正に対する社会党や総評の院外大衆運動が強まったことで、それが安保反対の国民運動の前駆を成すものだという認識はしておった」としたうえで、59年参院選について、「むしろ社会党の方が安保問題を取り上げてこなかった」と指摘し、「あのとき社会党が安保を強く取り上げていれば、われわれはあくまでもこれに対し安保改定の必要を叫んだと思うんですがね」と振り返っている(原彬久編「岸信介証言録」中公文庫)。

 安保紛争が結果的に岸氏の首相退陣につながったことを思えば、社会党と支援労組の総評が前年の参院選の時点で「安保」を争点化し、大衆運動の展開に成功していれば、また違った結果になっていたのかもしれない。

 もっとも、岸氏は「回顧録」において、改定日米安保の調印後に衆院解散を策したことを明かし、「あのとき解散をやっておけば、あんな騒動はなかったと思うんですよ」と後悔の弁を残している。

 「安保」の次に「改憲」を志していた岸氏にすれば、争点を明示して正面から審判を仰いで選挙に勝利することで、安保紛争を鎮静化させるだけでなく、自分の政権の間に改憲への道筋を付けられたはずだとの思いがあったのだろう。だが、結果的に59年参院選はその「決定力」は持つに至らず、政権を安堵はさせたものの、護憲派の3分の1の壁は崩せないままの現状維持で終わった。

1962年参院選~池田勇人政権

 最後に1962年参院選だ。今からちょうど60年前のこの参院選は、今日とよく似た時代の分岐点のもとで行われた選挙であった。

 当時は、ベルリンの壁が築かれ、キューバ危機が起き、世界は「米ソ冷戦」の激化と第3次世界大戦、核戦争の恐怖に直面していた。日本では、岸首相の後を襲った池田勇人首相が、前任者の「安保」と「強権政治」からの転換を目指し、「所得倍増計画」と「寛容と忍耐の政治」を旗印にしていた。

 一方、池田氏が創設した派閥「宏池会」を継いだ現在の岸田文雄首相は、池田首相の旗印に似た「令和版所得倍増」と「寛容の政治」を掲げて登場した。そこに、岸氏の孫でもある安倍晋三元首相との差異化や、潮流転換の意思を汲み取ることもできるだろう。さらにロシアのウクライナ侵攻により「米ロ新冷戦」が激化する時代に突入し、物価高やエネルギー不足などの「痛み」に耐えつつ、民主主義国家の協調を図るという重い課題を抱える点でも、池田時代に近似する。

確立された「55年体制」

 60年前に話を戻すと、

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