中国当局の現場スタッフの視線で描くウイグル族への「ジェノサイド」
カラカシュ県やその周辺で中国当局のスタッフは人権侵害にどのように関与してきたのか
柴田哲雄 中国現代史研究者
全寮制学校を訪れた「お兄さん」「お姉さん」
麦迪乃姆(麦熱哈巴)は父親が拘束されただけのようだが、両親が拘束され、養育者がいなくなった児童は、全寮制の学校や幼稚園に引き取られた。そうした児童は、片親だけが拘束されて家庭に留まっていた児童に比べると、さらに情緒不安定に陥っていたにちがいない。また、一部の全寮制の学校や幼稚園は劣悪な環境の下にあった。劣悪な環境も児童の情緒不安定に拍車をかけたことだろう。
「訪、恵、聚」のスタッフは、拘束の対象者を選定するだけでなく、残された児童に対する精神的なケアにも当たっている。「訪、恵、聚」のスタッフはしばしば全寮制の学校や幼稚園を訪れ、両親を拘束された児童と交流していたのである。
例えば2018年3月5日、カラカシュ県の共産主義青年団委員会の指導の下で、新疆農業大学第4期大学院生教育支援団などのスタッフが、同県闊依其(クオ イー チー )郷にある愛心学校という全寮制の小学校を訪問した。愛心学校で暮らす7歳から12歳までの計450名余りの児童の大半は、両親が拘束されていた。
スタッフの一人が「どれくらいお父さんやお母さんと会っていないか尋ねると、子どもたちのなかにはむせび泣いて話ができなくなる者もいた」。スタッフはめいめい「子どもたちのために、散髪や洗髪を行なったり、足を洗って新しい靴下をはかせたり、布団を畳んだりした」。児童らはスタッフのこうした世話もあってか、次第に心を許すようになり、スタッフの帰り際には、手を引っ張りながら、「『お兄さん、お姉さん今度はいつ来るの?』とひっきりなしに尋ねた」。
ちなみに「カラカシュ・リスト」の218番の被拘束者(女性)の欄には、夫も拘束されてしまったために、10人中3人の子どもが愛心学校に送られたと記載されている。その3人の子どもも当日、スタッフと交流したものと思われる。
もっとも、スタッフは児童と交流するためだけに訪問したのではなかった。わざわざ3月5日を選んだのは、その日が55回目の「雷鋒同志に学べ」運動の記念日だからである。雷鋒(1940‐62年)は中国人民解放軍の兵士であり、若くして事故死したが、毛沢東によって生前の人民への奉仕を称揚され、毛沢東思想を体現した人物とされていた。
スタッフは児童に散髪などの世話をするかたわら、「雷鋒同志に学べ」運動についてもわかりやすく説明している(「研支団動態」)。要するに、児童への精神的なケアは、党のイデオロギー教育と一体化したものだったのである。

新疆ウイグル自治区ウルムチ市 Jarung H/shutterstock.com
抵抗を試みる被拘束者の家族も
被拘束者の家庭では、児童だけでなく、成人も動揺を免れず、さらには憤りや反感を内心で募らせていたにちがいない。それは、被拘束者の成人家族のなかから消極的な抵抗を試みる者が出てきたことからも明らかだろう。
例えば、「カラカシュ・リスト」の315番の被拘束者(男性)の家庭では、長男と次女も拘束されていた。そのせいだろうか、同リストによれば、残された成人家族の憤りや反感は、「訪、恵、聚」のスタッフの目にもあからさまとなり、「明らかに漢族を排斥する感情を抱くようになっていた」。そして、大胆にも「幹部が家のなかに入ろうとすると、故意に玄関口を塞ぎ、未成年の家族をそそのかして、その幹部を押し戻させようとした」。
ウイグル族などの大量拘束のそもそもの目的は、2019年8月に中国政府によって公表された白書の「前言」で明言されているように、「テロリズムや宗教過激主義が繁殖し蔓延する土壌や条件」を除去することにあった(「新疆的職業技能教育培訓工作」)。しかし、被拘束者の成人家族が募らせる憤りや反感を放置すれば、かえってそうした「土壌や条件」を育む結果になりかねないだろう。
イスラム教の祝祭日をともに祝う
そこで「訪、恵、聚」のスタッフは、被拘束者の成人家族の慰撫に努め、彼らの要望に一部応えようとさえしている。例えば、中級人民法院からカラカシュ県吐外特(トゥー ワイ トァ)郷に属する薩亜特(サ ヤー トァ)村に派遣されたスタッフは、残された家族の要望に応えるために、被拘束者が拘束に伴って中途退学を余儀なくされた自動車教習所と交渉して、残余の学費の返還を約束させた(「下沈日記」)。
また、「訪、恵、聚」のスタッフは慰撫の一環として、イスラム教の祝祭日に合わせて、被拘束者の成人家族を招待している。
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