生き残りの鍵はどこに
2022年07月15日
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勤労者音楽協議会(労音)の創設を担ったのは戦前に宝塚歌劇団の音楽監督を務め、戦後日本共産党の参議院議員になった須藤五郎である。そのルーツは戦前にあるが、各地域でさかんに結成されていったのは1950年代である。
そのなかでももっとも成功をおさめたといわれるのが「大阪労音」である。1960年代半ばに最盛期を迎えた大阪労音の会員数は15万人にのぼり、大阪の音楽興行の8割をしめていたという(注19)。1949年に結成され、クラシックを中心に会員を増やしていたが、1950年代半ばにポピュラーミュージックに進出したことで、会員数を激増させていく。美空ひばり、スパイダーズ、ドリフターズなどの公演は、同時期に普及した大衆メディアと競合していく。
進取の気風に富んだ大阪労音は新しい海外音楽の紹介にも積極的に取り組む。1965年5月、大阪労音は後に『ニューミュージック・マガジン』を創刊することになる音楽評論家中村とうように依頼し、1953年のワシントン大行進で歌唱した黒人女性フォークシンガーオデッタ・ホームズの来日公演をおこなう。
ホームズの公演の司会を務めたのは、前月に「ベトナムに平和を!市民連合」(ベ平連)を結成したばかりの鶴見俊輔である(注20)。日本共産党と鶴見俊輔の関係については、後の共産党副委員長上田耕一郎が当時の論攷で鶴見のプラグマティズムを徹底批判していたし、ベトナム反戦運動においても日本共産党とべ平連は緊張関係にあった(注21)。しかしそうした社会運動上の対立からは距離を置くかたちで、労音はその後も高石ともや、岡林信康、高田渡ら60年代後半のカウンターカルチャーを担うシンガーを次々と起用していった。
当時労音の組織拡大は社会現象として注目を浴びていた。
作家山崎豊子は小説「仮装集団」(1966年)で、大阪労音の勢力拡大とそれに脅威を覚え対抗する経営者の群像劇を描いている。この小説の冒頭の一節は、当時の労音に集う労働者や学生の熱気をよく伝えている。
六時過ぎの歩道には、家路を急いで大阪駅へ向かう流れと、K館とR館へ音楽を聴きに行く流れが行き違い、例会会場へ足を急がせる流れは、どの顔も一日の仕事から解放され、月に一度、音楽を聴きに行く喜びに満ち溢れ、むんむんとむせかえるような若いエネルギーが漲っている。それは勤音に行く会員か、音連に行く会員かは解らなかったが、一本の太いベルトのような列になって繋がっている。この若い群衆を組織し、政治的に利用しようとする集団が、現代の仮装集団であるのだ
60年代の労音は、高度経済成長下での急速な進学率の上昇、農村から都市への人口移動がうみだす文化的な欲求の受け皿としての役割を果たした。全国に数万の職場・地域単位の小規模サークルを組織し、「例会」をもとに労働者自ら企画の立案や合唱などに参加させることで意欲を喚起し、さらにはピクニックやフォークダンスなどのサークル単位の自主的な活動をおこなうことで、異性との交際といった交流、つながりの要求を組織化していった。
「労音は革命のための貯水池ということです。労音という組織をつくり、アミを全国に張り巡らせていけば、貯水池に水は自然にたまっていく」という当時の活動家の声からは、学園や職場で疎外感を抱いた労働者や学生が知と生の欲求を満たすために自発的に労音に流れ込んでいったことがわかる(注22)。
私の母親もまた流れ込んでいったうちの一人である。母は1968年に徳島県で入会し、「はじめて赴いた労音の事務所はソビエトによるチェコ侵攻で騒然としており、ふと見上げると壁には金日成の肖像が飾ってあった」ことを記憶している。労音は、因習的なしがらみからの脱出を願う地方在住の女性たちにとって、近代的文化に触れることができる貴重な解放空間だった。
労音の全国の会員数が60万人に達した1963年、日経連は、東京音楽文化協会(東京音協)を、64年には全国文化団体連盟(全文連)を設立し、労音会員が希望する曲目や演奏家を意識的にとりあげ、演奏家には労音よりも高い公演料を払い、労音の例会にぶつけ、従業員の音協への加入を推進するなどの対抗戦略を展開していった。また創価学会は、こうした労音の拡大戦略を模倣し、63年に「民主音楽協会」(民音)を設立、以後、この文化装置が創価学会の拡大戦略の軸に据えられていくことになった。
この時代は、労働者、学生の文化的欲求をどの勢力が支配するかをめぐる、熾烈な文化ヘゲモニー闘争がおこなわれていたのである。
こうした日本共産党の文化戦線は、音楽だけではなく演劇、映画でも展開された。1950年代には共産党系の映画人らが大資本から自立した独立プロ運動を立ち上げている(独立プロ解消後も、全国各地に組織された民主団体系の映画興行事務所、サークルと松竹、日活などの映画会社が協力してネットワークを形成していった)。いずれも自前の興行力を備えたことで外国勢力はもとより、共産党からも一定の自立性を有していたと思われる(したがって文学者とは異なり、演劇人、映画人等については、所感派、国際派の分裂等の傷は、少なくとも表面上はあまり顕在化しなかったと思われる)。
宮本路線はこうした「文化的公共圏」の広がりに裏付けられていた。
メディア研究者佐藤卓巳は、ドイツ社会民主党が20世紀初頭に100万人の党員を擁するに至ったのは、19世紀を通じて発達した新聞・雑誌メディアを積極的に活用し、市民的公共圏に対抗する労働者的公共圏をつくりあげたことにあるとしている(注23)。宮本路線もまた、高度経済成長期に大衆化した文化産業を自前の興行力を育成することでにない、大衆社会状況における独自の公共圏の構築に成功したのである。
機関紙「赤旗」の数百万部にのぼる大衆新聞化と宅配制度の確立、ほぼすべての分野を網羅した文化事業、数十万単位の党員、支持者が集う「赤旗まつり」は有機的に連動し、党員、支持者の日常世界を包摂し、「国家のなかの国家」を形成した。日本共産党は、日本の左翼・社会主義勢力のなかでゆいいつ、自前の興行力を有する大衆的文化戦線をもつことができた勢力であり、これこそが1960年代末から70年代初頭にかけての日本共産党の議会における躍進を支えたのである。
だが、60年代に飛躍的に拡大、強化されたこの文化的公共圏も、1970年代に入ると
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