「女性のための政治スクール」30年の歩みから考えるジェンダーと政治【7】
2022年07月17日
元参院議員の円より子さんが1993年に「女性のための政治スクール」を立ち上げてから来春で30年。多くのスクール生が国会議員や地方議員になり、“男の社会”の政治や社会を変えようと全国で奮闘してきました。平成から令和にいたる間、女性などの多様な視点は政治にどれだけ反映されるようになったのか。スクールを主宰する円さんが、自らの政治人生、スクール生の活動などをもとに考える「論座」の連載「ジェンダーと政治~円より子と女性のための政治スクールの30年」。今回はその第7話です。(論座編集部)
※「連載・ジェンダーと政治~円より子と女性のための政治スクールの30年」の記事は「ここ」からお読みいただけます。
前回「内なるエネルギーを爆発させた女性たち~セクハラにめげずに政治を変える」では、盗聴法とセクハラ問題を取り上げたが、今回も盗聴法についてから始める。民主主義の基となる表現や報道の自由を危うくする、極めて重要な問題だからだ。
1999年の夏は熱かった。毎日毎日、盗聴法(正式名は「犯罪捜査のための通信傍受に関する法律」)に明け暮れた。
テロに関わるような人物を特定して捕らえ、テロを未然に防ぐには、傍受が必要だという。それだけを聞くと、反対することではないじゃないかと思う人もいるだろう。ただ、ことはそれほど単純ではない。
日本海側のある町にイスラムの人が長く住んでいて地域に溶け込んでいた。その人がテロにかかわっていたと疑われ、付き合っていた日本人たちが1カ月以上、携帯電話や家の固定電話が傍受されたケースがあった。疑いは晴れ、その傍受は終わった。
しかし、ちょっと待ってほしい。傍受された人たちは傍受されていたことを知らされず、家族や恋人、職場の仲間、友人との会話を1カ月以上全部聞かれていたことになる。傍受? これは盗聴じゃないか。
こんな気味の悪いことが、自分が知らない間に警察、公権力によって行われてはかなわない。テロを取り締まることも大事だが、市民のプライバシーはどうなる。これは反対しなければ。
ところが、衆議院では強行採決されて、あっという間に、参議院に法案が来て、法務委員会の野党筆頭理事だった私は、その廃案に向け、日々闘うことになったわけだ。
国会議員って何してるの?ちゃんと働いているの?とよく聞かれる。
年に4回、郵送で1万人の人に出していた「円より子ニュース」に、典型的な1日を表にして載せたことがある。1日に50〜60人の人に会って話を聞くのはざらだし、国会内だけで、1万歩は軽く歩くし、毎日朝8時から会議だというと、みんな驚く。
NHKで放送される予算委員会で質問などすると、ああ、やってるなとわかってもらえるが、放送されない委員会のほうがずっと多い。盗聴法成立を阻止するためにひたすら理事懇談会や野党理事懇を開き、国対委員長と打ち合わせ、市民との反対集会をひらくなどの裏方の活動は、国民に見えない。今なら、SNSで発信もされようが、当時はそういう便利なものはなかった。
そして、どんなに頭を使い、身体がへとへとになるまで頑張っても、多数の与党には勝てず、延長国会の最終盤まで長引かせたところで、結局のところ盗聴法は成立してしまったのだから、わかっていたことだったとしても、私の疲労度は大きかった。国会が閉会した後、1週間くらいぼうっと寝てばかりいた。
そんな私のもとに、警察庁刑事局長が訪ねて来られた。盗聴法をなんとか早く成立させたかった側の人だ。その人がわざわざ、退任の挨拶に来られたのだ。
「あの夜、私は本会議場の傍聴席で、一部始終を聞いていたんです。長い公務員生活の中で、国会対策の仕事もずいぶんしてきましたが、あの日の円先生の演説ほど感銘を受けたものはありませんでした。
私たちはあの法律を使う立場ですが、70日以上もの長い日々を頑張られ、また、あんなに人の心をうつ演説をされたことで、私たち警察は心して、慎重にこの法律を使わざるを得なくなりました。このことを申し上げたくて、退任の挨拶にかこつけて、伺わせていただきました」
刑事局長のこの言葉に、野党議員冥利に尽きると思った。この法案審議前に、自民党の林芳正さん(現外務大臣)らと共に、児童買春児童ポルノ禁止法を議員立法で成立させたことも嬉しかったが、そうか、あれだけ盗聴法に反対したことは無駄ではなかったのか、少しは歯止めになるのかと、落ち込んでいた気持ちが和らいだ。
円さんは野次を飛ばせば飛ばすほど元気になって、何時間演説するかわからないと言って、官邸で本会議の中継を見ていて、撃ち方やめ、つまり野次は飛ばすなと、鴻池祥肇国対委員長に指示した青木幹雄官房長官や村上正邦自民党参議院会長らは「敵ながらあっぱれ」と言い、我が民主党の北沢俊美国対委員長(後に防衛大臣)は「あれは女じゃないな」と彼なりの褒め言葉を送ってくれたが、歯止めになると言ってくれた刑事局長の言葉は、もっとも深く心にしみた。
そうでなければ、野党の議員などやってられない。ただの反対ではない、効果のある反対を誠心誠意、国民を代表してやるのが野党なのだ。
そう言えばこんなこともあった。与党になっていた自由党の平野貞夫さん、小沢一郎さんの懐刀と言われた人だが、彼もまた、法務委員会の理事で私の隣に座り、常に早く採決をと言う側で、ある日、円さん、こんなに国民が待っている法案をあなたはいつまで反対するんだ、と部屋の外まで聞こえる大声を放ち、テーブルを叩いて立ち上がったことがある。
私は静かな声で答えた。平野先生、私、まだ耳はいいのでそんな大声、お出しにならなくても聞こえます。それに、先生はどこのお国の方ですか。アメリカでいらっしゃいますか。私の愛する国、日本の国民はこの盗聴法の廃案を心待ちにしております、と。
国会議員は政策ができ、それを実現させることがもちろん大きな仕事だが、野党としては反対の国民の声をしっかりと反映させることも必要で、そのためには喧嘩もうまくなければならない。
秋の臨時国会から私は国対委員長代理を任命された。
私は国対、つまり国会対策という仕事に悪いイメージを持っていた。自民党と社会党の長い55年体制と言われた時代、重要法案が社会党の反対でなかなか通らないと、料亭での接待の後の麻雀で、自民党が100万円負けると、2、3日で法案が通る。20万くらいの負けだと1週間かかるなどとまことしやかに言われていた。
国対の副委員長すらやったことがないから無理だと断ったのだが、盗聴法での交渉はじつに見事で、君ならできるとおだてられた。
細川護熙元総理に相談すると、受けた方がいいと言う。細川さんは、私がフィリバスターをやった翌日、ゴルフをしていた軽井沢から電話をくれて、よくやったとほめてくれていた。
そして、彼は言った。私は国対が得意だったんですよ、と。
えっ、国対廃止と言ってらしたでしょ。
そうです。昔の料亭政治のような国対はやめたほうがいい。でも、国対は交渉術が鍛えられるし、情報も入る、人脈ができる。ただの副委員長と違って、委員長の代行だから引き受けなさい。
こうして、それまで女性が就いたことのなかった国対委員長代理に私は就任したのである。
翌年2000年の通常国会からは予算委員会の筆頭理事にも就任したから、その忙しさは、盗聴法の時とは種類がちがったが、半端ではなかった。
朝、国会に行くとまず、登院のボタンを押す。娘に朝食と弁当を用意して、7時台にボタンを押すのだから、一番乗りだと思うのだが、必ず私より先にボタンを押している人がいた。青木官房長官であった。
私は議員会館の自分の事務所に行き、秘書に渡す原稿や資料などをデスクにおいてから、国会議事堂内の国対委員会室に入る。委員長や事務局長と打ち合わせ、その後、その部屋から自分の所属する部門会議、委員会、本会議などに出席。昼は大抵、会議。
つまり、一日中、国対の部屋が拠点で、そこから、他党に連絡や打ち合わせにも行くし、仲間の衆議院の国対にも話に行く。
自分の事務所には議員会館内のそれですら、なかなか行く時間がなく、一番町に持っていた外事務所に行く余裕など全くなく、そちらにいる私設秘書たちと会うのは週に一回の事務所会議くらいだった。
2000年4月2日、小渕恵三総理が脳梗塞で入院した。自民党は自由党、公明党と連立を組んでいたが、小沢さん率いる自由党が離脱すると言ったことがきっかけで、小渕さんは倒れたと言われている。
1998年7月の参院選敗北の責任を取って退陣した橋本龍太郎総理の後継総理になった小渕さんは、新元号平成を官房長官として発表し、「平成おじさん」として知られていた。“低空飛行”のスタートだったが、自自公連立政権は安定し、長期政権も視野に入っていた。
小渕さんは倒れる前日、介護保険施行のセレモニーに参加していた。実はこの介護保険は、女性たちにとって念願の法律だった。
NPO法人「高齢社会をよくする女性の会」の理事長樋口恵子さんは、定年後の夫たちを濡れ落ち葉と表現するなど抜群のコピーライター的資質を持つ辛口の評論家。私が主宰していた「ニコニコ離婚講座」や「女性のための政治スクール」にも、何度も講師できてくれた。
その樋口さんたちが中心になり、介護保険導入を目指して行ったアンケートが面白い。
政界財界のお偉いさんたちに、介護が必要になったら誰に見てもらうかという質問をしたのだが、多くの人が、妻か嫁と答えている。では妻に介護が必要になったら、誰が見るのか。妻には決して先に逝くなと厳命しているといった笑えないものもあった。妻が倒れることは考えたくないらしかった。
今は、男性も母親や妻の介護をしているし、仕事を辞めざるを得ない人もいる。しかし当時は、介護は育児家事と同様、女の仕事であり、役割であり、介護保険導入にも反対の人が多かったのである。
31歳でニコニコ離婚講座を主宰した私は、思いもかけず、50代、60代、70代の先輩女性たちの相談を数多く受けることになった。彼女たちの多くが、夫の親、自分の親の介護に携わっていた。4人の親の介護を20年にわたってしたという人、身体を壊した人、寝たきりの親の遠距離介護に疲労して先に逝った人もいた。「老老介護」の問題が迫っていた時代だった。
介護が原因の別居や離婚もあった。介護保険制度は、女性にとってだけでなく、誰にとっても早急に必要なものだった。
小渕さんはそのセレモニーの時、同席していた丹羽雄哉厚労大臣に、この頃、言葉が出てこなくてね、とつぶやいたらしい。脳梗塞の予兆はあったのだ。総理というのは、ほんとうに心が休まることのないきつい職だと思う。
小渕さんの後を継いだのが森喜朗理だった。だが、“密室”で誕生したといわれたり、選挙にあたり「寝ていてくれ発言」があったりで、人気はいまひとつ。昨年の東京オリンピックでも、「わきまえない女」の発言で炎上したが、総理の頃から失言が多々あった。
「寝ていてくれ発言」が問題化したのは、2000年6月の第42回衆院選で、森総理がこのように言ったことがきかっけだった。
――どうせ自民党には入れてくれないんだろうから、関心のない人は投票に行かず、寝ていてくれればいいんだが、そうもいかないでしょうね。
新潟市内での演説だったらしいが、無党派層は寝ていてくれればいいと、大々的に報道された。短縮しようが、そのままだろうが、寝ていて欲しい、つまり投票に行かないでほしいという願望は隠せない。
棄権を勧めたり、低投票率を期待したりするのは、政治家、それも一国の総理が口にすることではない。まずすぎる。
フェミニズムやジェンダー平等を目指す人には叱られそうだが、森さんは人情味もあるし、女性にも優しい人だ。森さんのような失言はしないが、腹の中では、女性を蔑視している政治家を多く見ているので、素直すぎる森さんのような人をあまり叩く気になれない。野党にとっても、女性にとっても、それこそ、格好の餌食になってくれる人で、むしろお礼を言いたいくらいだ。
この発言に加え、「神の国発言」も問題となり、2000年の衆院選は“神の国解散”と呼ばれて、森総理の資質が問われる選挙となった。自民党は38議席を減らして、単独過半数を割った。この時、自由党から分かれて与党に残っていた扇千景党首の保守党は26議席から7議席という大惨敗を喫した。保守党はその後、保守新党を経て、自民党に合流する。
大惨敗の保守党で生き残った一人が、現東京都知事の小池百合子さんだ。彼女とは日本新党の同僚だった。
新進党解党後、与党と野党に別れて、共に活動することはなくなったが、女性初の防衛大臣をつとめたり、女性初の都知事になったりと、華々しい活躍ぶりだ。それだけに、権力のために男を渡り歩くといった言われなき非難も浴びる。男性の政治家だったら浴びないですむ非難ではないだろうか。
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