民主主義を担うために必要な政治家の「資質」「覚悟」とは
2022年08月03日
安倍晋三(元内閣総理大臣)の暗殺は日本内外に衝撃を及ぼした。安倍が日本の憲政史上、最長の執政を手掛けた宰相であり、各国から寄せられた弔意に示されるように国際政治の場裡で稀有(けう)な存在感を発揮した外政家であった故にこそ、彼の落命の衝撃は、大きなものになっている。1963年11月、ジョン・F・ケネディの暗殺の報に接した往時の米国国民の心理も、このようなものであったかと想像する。
日本国内では「民主主義体制に対する挑戦」といった言辞に拠って、これを非難する反応が横溢(おういつ)していた。参院選の最中に「暴力」による介入が行われたのであるから、確かに「民主主義体制に対する挑戦」である。
ただ、この「民主主義体制に対する挑戦」という反応それ自体は、誰も異論を差し挟まない半ば定型的なものであり、そうした定型的な反応に世が終始している事実にこそ、日本における民主主義体制の「腐食」の相が表れるのではないか。
「政治家とは、文字通りの命懸けの仕事である」。安倍暗殺の報に接したおり、筆者が真っ先に抱いたのは、こうした感慨であった。若き日に永田町インサイダーであった筆者にとっては、政治家という仕事が諸々の危難の事態を頭の片隅に置いておかなければ務まらないものであるとは、当然の諒解(りょうかい)であった。
事実、民主主義体制下であっても、米国におけるエイブラハム・リンカーンやジョン・F・ケネディ、さらにはロナルド・レーガンの事例にまつまでもなく、政治家が遭難する例は後を絶たない。日本では、大正デモクラシーを経た昭和初期においても、犬養毅、浜口雄幸、高橋是清といった政治家が危難に遭った。戦後においても、岸信介や浅沼稲次郎といった政治家が遭難している。
これは、民衆の期待や願望だけではなく、怨恨、嫉妬、あるいは誤解や憤激といった「負の感情」をも受け止めざるを得ない政治家の宿命なのではないか。それ故にこそ、筆者は「政治家という仕事を軽侮してはいけない」と声を大にして語ることにしよう。こういう遭難の危険にさえも向き合う覚悟を持った人々だけが、政治家という職責を担い得る。「生半可な気分で永田町を目指そうとするな」というわけである。
付け加えれば、筆者が大学での講義中、選挙で「選んではいけない」政治家の基準を説く際に指摘しているのが、政治家が時に自衛隊に防衛出動命令を出し、時に死刑執行命令書に署名する「酷薄な職業」であるということである。そうした「酷薄さ」に向き合う覚悟を持たない人々もまた、「永田町」に足を踏み入れようとしてはならない。
それ故にこそ、「『パンとサーカス』の提供に熱心な政治家」、「国民の『感情』に便乗する政治家」、 「根拠のない『夢想』を振りまく政治家」、「『綺麗事』に終始する政治家」の四つは、「選んではいけない」政治家の基準になるのである。
実際には、先の参議院議員選挙でも、「命懸けにして酷薄な仕事」を手掛ける「資質」や「覚悟」を微塵(みじん)も感じさせない候補が少なからずいたように見受けられ、政治に向き合う「真摯(しんし)さ」に疑問すら投げ掛けている。選挙戦中、「候補者の当選ではなく政党助成金の獲得」を企図していることを公言していたNHK党の姿勢は、そうした「真摯さ」の欠落を典型的に表していたといえよう。
誰にでも選挙に出る「権利」があるというのが、民主主義体制の建前である。けれども、政治に携わる「資質」や「覚悟」が誰にでも備わっているわけではないというのも現実なのである。「民主主義の擁護」を誰でも口にする時世ではあるけれども、そうした民主主義を担う政治家の「資質」や「覚悟」を問い質す言説は、意外に多くない。
前に書いたように、安倍暗殺という事態を受けて、「民主主義体制に対する挑戦」という定型的な言葉が流布する自体に、民主主義体制の「腐食」を観た筆者の意図は、ここにある。
筆者が政治を観察する際に、常に心に留めていた言葉がある。それは、吉野作造(政治学者)が残した「私の考では、最良の政治と云ふものは、民衆政治を基礎とする貴族政治であると思ふ」という言葉である。
吉野は、現今では大正デモクラシーの代表的論客として語られるけれども、彼は自らが「民本主義」と呼んだデモクラシーを決して最上のものとは認識していなかった。吉野は、前に触れた言葉に続き、「所謂貴族政治丈けで民衆政治なければ駄目である。今日我が国の政治は正に此弊に苦しんで居る。又民衆政治丈けで貴族政治という方面がなければ、之も亦駄目である。仏蘭西革命当時の歴史が之を説明して居る……」という記述を残している。
吉野は、大正期の社会情勢を反映し、「民衆の政治参加」の方途を探ったけれども、それでも民衆の意志が暴走する事態を懸念していた。吉野における「民衆政治を基礎とする貴族政治」の指摘は、政治を手掛ける際には、民衆が帯びるのとは異なる「貴族性」が要るという一つの真理を伝えている。前に触れた政治に関わる「資質」、「覚悟」や「見識」も、その「貴族性」の証として理解すべきものであろう。
このことは、現今の日本では、真剣に議論されていなかったものなのではないか。参議院議員選挙の風景に触れるまでもなく、そうした「貴族性」とは無縁の候補が乱立する様相は、吉野が大正期に意図したのとは逆の意味合いで、「今日我が国の政治は正に此弊に苦しんで居る」因の一端を象徴的に表している。その意味をこそ、現今の政治を観察する人々は、留意しなければならないであろう。
安倍晋三の宰相としての政策展開や政治手法は、その「功」と「罪」の両面において、今後、確実な検証と評価の対象とされなければならない。筆者は、外交・安全保障政策領域に関する限り、対露政策を除き、その「功」が傑出したものであったと評価している。
ただし、こうした政策展開や政治手法への評価を脇に置くとしても、安倍が「貴族性」を体現した政治家であったことは、否定しようがないと思われる。安倍が披露した「貴族性」とは、
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