櫻田淳(さくらだ・じゅん) 東洋学園大学教授
1965年宮城県生まれ。北海道大法学部卒、東京大大学院法学政治学研究科修士課程修了。衆議院議員政策担当秘書などを経て現職。専門は国際政治学、安全保障。1996年第1回読売論壇新人賞・最優秀賞受賞。2001年第1回正論新風賞受賞。著書に『国家への意志』(中公叢書)、『「常識」としての保守主義』(新潮新書)など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
民主主義を担うために必要な政治家の「資質」「覚悟」とは
筆者が政治を観察する際に、常に心に留めていた言葉がある。それは、吉野作造(政治学者)が残した「私の考では、最良の政治と云ふものは、民衆政治を基礎とする貴族政治であると思ふ」という言葉である。
吉野は、現今では大正デモクラシーの代表的論客として語られるけれども、彼は自らが「民本主義」と呼んだデモクラシーを決して最上のものとは認識していなかった。吉野は、前に触れた言葉に続き、「所謂貴族政治丈けで民衆政治なければ駄目である。今日我が国の政治は正に此弊に苦しんで居る。又民衆政治丈けで貴族政治という方面がなければ、之も亦駄目である。仏蘭西革命当時の歴史が之を説明して居る……」という記述を残している。
吉野は、大正期の社会情勢を反映し、「民衆の政治参加」の方途を探ったけれども、それでも民衆の意志が暴走する事態を懸念していた。吉野における「民衆政治を基礎とする貴族政治」の指摘は、政治を手掛ける際には、民衆が帯びるのとは異なる「貴族性」が要るという一つの真理を伝えている。前に触れた政治に関わる「資質」、「覚悟」や「見識」も、その「貴族性」の証として理解すべきものであろう。
このことは、現今の日本では、真剣に議論されていなかったものなのではないか。参議院議員選挙の風景に触れるまでもなく、そうした「貴族性」とは無縁の候補が乱立する様相は、吉野が大正期に意図したのとは逆の意味合いで、「今日我が国の政治は正に此弊に苦しんで居る」因の一端を象徴的に表している。その意味をこそ、現今の政治を観察する人々は、留意しなければならないであろう。
安倍晋三の宰相としての政策展開や政治手法は、その「功」と「罪」の両面において、今後、確実な検証と評価の対象とされなければならない。筆者は、外交・安全保障政策領域に関する限り、対露政策を除き、その「功」が傑出したものであったと評価している。
ただし、こうした政策展開や政治手法への評価を脇に置くとしても、安倍が「貴族性」を体現した政治家であったことは、否定しようがないと思われる。安倍が披露した「貴族性」とは、
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