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77年前、原爆はなぜ長崎に落とされたのか?~機長の記録検証から見えてくるもの

どのようにして投下されたのか、いまだに不明な点だらけのそのプロセス

高瀨毅 ノンフィクション作家・ジャーナリスト

 Nagasaki must be the last.「長崎を最後の被爆地」にという言い方がある。

 核時代の幕を開けた「ヒロシマ・ナガサキ」以後、核爆弾が戦争で使用されたことはない。長崎が最後の被爆地であり続ける限り、まだ未来はある。そんな願いが、このフレーズには込められている。

 だが今年2月、ウクライナに侵攻したロシアのプーチン大統領は、核の使用を仄(ほの)めかした。「ナガサキ」が意味を為さなくなるのではないか。そんな危機感が、長崎市民の間に広がった。と同時に、長崎には、同じ戦争被爆地である広島にはない意味が付与されていることも、再認識させられた。

昨年の長崎原爆犠牲者慰霊平和祈念式典。長崎平和宣言後、ハトが一斉に放たれた=2021年8月9日、長崎市の平和公園、代表撮影

いまだに曖昧な部分が多い長崎への原爆投下

 1945年8月9日、広島に続いて長崎に原爆が投下された。あの日から77年の時が流れたが、なぜ長崎に原爆が投下されなければならなかったのかについては、いまだに曖昧(あいまい)な部分が多い。

 9日の原爆投下は、第一目標が現北九州市の小倉で、長崎は第二目標だった。広島や小倉と違って二つの盆地がある狭隘(きょうあい)な地形。原爆投下の狙いのひとつに実験的側面があったことは確かで、その点からして長崎は難しい都市だった。

 当日、米軍機は小倉に3度侵入を試みている。いかに小倉に執着していたかがわかる。しかし、諸々の条件が悪く、爆弾を落とせないまま長崎へ。やむなく長崎に落とさざるを得なかったというのが実態だった。

使えない燃料を積んだまま離陸

 長崎原爆は、当日の経緯も分かりにくい。広島が、飛行も投下も計画通りに遂行されたのと対照的である。米軍の「戦闘詳報」が公表されていないのだ。なぜなのか。それは「戦術的に失敗」だったと考えられるからだ。

 長崎原爆投下機「ボックス・カー」号の機長、チャールズ・W・スウィーニー少佐の『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』を中心に、当日の動きを時系列で追いかけてみたい。

 「ボックス・カー」が太平洋マリアナ諸島テニアン島を離陸したのは、現地時間9日午前2時45分だ。しかし、離陸直前、重大なトラブルが発生していた。後部爆弾倉にある予備タンクの燃料ポンプが作動しなくなっていたのだ。

 2000リットルもの燃料が1滴も使えない。ポンプの修理には数時間かかる。原爆を別の機に移し替えるとしても数時間を要する。

 「早く出発しなければ作戦は中止になり、ワンツーパンチの心理的効果が薄れる」。原爆投下チームのリーダー、ポール・ティベッツ中佐はそう考えた。結局、使えない燃料2000リットルを抱えたまま、離陸することになる。

チームがそろわず2機で小倉へ

 離陸に際し、もう一つ予想していなかったことが起きた。爆撃チームは3機で編成されている。➀原爆搭載機、➁計測機器を乗せた機、③撮影機器を積んだ機だ。

 原爆搭載機が離陸して2分後、計測器の2番機。その後、撮影機が飛ぶはずだったが、精密な写真撮影を担当する搭乗員(博士)が規程で決まっているパラシュートを持参するのを忘れ、誘導路に降ろされたのだ。3番機だけ、離陸が遅れた。

 3機は鹿児島県屋久島上空で待ち合わせる計画だった。ところが乱気流発生の恐れがあり、高度を上げて9000メートルに設定した。高度が高いほど、燃料の消費が早い。

 さらにミスが重なる。スウィーニーによれば、屋久島の合流地点に到達したのが午前7時45分。ほどなくして計測機器を積んだ「グレート・アーティスト」号が合流。しかし、離陸が遅れた撮影機が来ない。

 島の南西端を旋回して到着を待ったが、落ち合えないまま40分が経過した。燃料の問題もあってそれ以上待てなくなり、2機で小倉へ向かうことになった。

市職員によって風通しされる原爆死没者名簿=2022年5月18日、長崎市の国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館

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姫島を起点に「爆撃航程」態勢に

 目標=照準点は小倉造兵廠および市街地。だが、いきなり直行するのではない。まず攻撃始点(IP)へ行き、そこから照準点へと向かう航程=「爆撃航程」態勢に入らなければならない。そうしないと、正確に目標に原爆を投下する「精密爆撃」ができないからだ。

 爆撃航程とは「攻撃始点」から「照準点(爆撃目標地点)」までのことだ。小倉の攻撃始点は、大分県の国東半島の北、周防灘の沖合に浮かぶ姫島だった。

 屋久島から、おそらく九州東岸を北上したと思われる「ボックス・カー」は、姫島の西北にある小倉へと機首を転換する。距離約75キロ。爆撃航程に入ると爆撃手がノルデン照準器を使って目標の視認を行う。この時点で主導権はパイロットから爆撃手に移る。

 爆撃手が目標を捉え、投弾するまで、機長は爆撃手の意向に沿って操縦するのだ。爆撃手が照準器で目標を捉える。すると高度、コース、速度が「ロックオン」となる。

 広島の場合、攻撃始点は広島県三原市。高度9400m、時速320㎞で真西へ一直線。高射砲弾がさく裂しても、迎撃機が飛来しても動かせない。爆撃機にとって最も危険な時間帯となる。

 ノルデン照準器を使うのは、目視による確認・投下という命令も理由だが、この装置が投下のタイミングを決定するための機器なのだ。投下直後から着弾まで、弾道に影響するすべての要素、たとえば風や風圧などを計算に取り込む必要があった。

原爆犠牲者らを追悼するため、爆心地近くの浦上川沿いで毎年開かれる「万灯流し」(2020年は新型コロナの影響で中止)。近くの小学生らが作った約400個の灯籠(とうろう)が川沿いに並んだ=2021年8月9日、長崎市

雲と煙で目標が視認できず

 「小倉が見えてきた(中略)。午前9時45分だった」。そのあと「攻撃始点に到着した時、目印のいくつか-----川、建物、道路や公園までも----がはっきり確認できた」。スウィーニーの著書にはそうある。

 爆撃航程に入ると、「煙で目標が見えない」と爆撃手が叫んだ。前夜の八幡爆撃で発生した火災がまだ燃えていて、その煙だという。

 この記述は奇妙だ。小倉上空に東側から侵入してきた爆撃機の機長が、小倉の西南7キロの八幡爆撃の煙だと、その時点でわかるのか。それほどはっきりと煙が流れ込んでいたのか。

 後になってわかったことと合わせて記述していることも考えられる。小倉で当時を知る人たちに話を聞くと「はっきりと上空が噴煙で覆われている感じはしなかった」という。雲も混じりはじめ、八幡からの煙と混ざったことで、9000メートル超の高度からだと、目標が明確に視認できなかったと考えられる。

異なる方向から3回試みたが……

 「目標がみつからず、米軍機は小倉上空を何度か旋回した」と書かれた資料が少なからずあるが、それはありえない。なぜなら、1回目の爆撃航程で落とせなかったら、もう一度爆撃航程を繰り返さないといけないからである。

 となると姫島に戻り、再び小倉へ向かうことになる。往復だけで30分はゆうにかかる。燃料も消費する。計画が大幅に狂い、燃料を浪費していた「ボックス・カー」がそんなことをしたのだろうか。

 米軍の日本爆撃の研究で第一人者の工藤洋三氏(元徳山高専教授)は、「3回異なる方向から爆撃航程を試みた」(「ターゲットはKOKURA」平和のための戦争展in北九州)。ただ、それがどこを始点としたのかは明らかではない。工藤氏に問い合わせたところ、「米国の資料に関連するものは見つかっていないのではないか」とのことだった。

 スウィーニーの記録では、小倉への最初の侵入時に高射砲の攻撃があり、二度目の侵入に際しては高度を9500メートルに上げた。それでも搭乗員が「高射砲がすぐ後ろを狙っていて、どんどん近づいてくる」とパニック気味になったという。

「そばで高射砲が炸裂」への疑問

 二度目の「爆撃航程」でも目標を視認できない。レーダー操作士から「日本の零戦が接近中。およそ10機」。スウィーニーは、さらに高度を300メートル上げ、9800メートルに設定。

 「対空砲火を振り払い、別の角度で接近しようと試みた」。それでも高射砲がすぐそばで炸裂(さくれつ)し、機体が反動で跳ね上がったと書く。

 ここも疑問が拭えない。「北九州平和資料館をつくる会」の事務局長で、『改訂版・北九州の戦争遺跡』の編者、小野逸郎さんは、高高度を飛ぶ米軍機には高射砲は届かなかったと言う。

 「北九州には当時、7~8センチ砲しかなかった。10センチ砲もあったが、大砲を高射砲に転用したもの。高度9000メートルや1万メートルを飛行するB29には通用しなかった」

 そしてこうも言うのだ。「前日の八幡空襲の時、高射砲は撃たなかった。敵に居場所がわかり、逆に攻撃されてしまうからだ」

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考えにくい「ゼロ戦10機の迎撃」

 10機のゼロ戦が迎撃してきたというのも考えにくい。当時、小倉周辺には、芦屋(福岡県)、築城(福岡県)、宇佐(大分県)、小月(山口県)に航空基地(飛行場)があったが、芦屋は通信業務が中心。築城は、戦争末期に何度も爆撃を受けていた。宇佐も海軍航空隊基地があったが、4月の空襲で壊滅的被害を受けていた。築城については次のような証言がある。

 「飛行場周辺では訓練で飛行機が舞っていたが、戦争末期には空襲警報のたびに飛行機と兵士たちは避難し、子供心に不信感が募った。今考えれば、力の差がありすぎて仕方なかったのでしょう」(西日本新聞2020年8月4日報道・築城基地近くに住む亀田精一さんの証言)

 残るは小月。ここには「屠龍」の部隊がいたが、戦争末期は本土防衛戦を想定し、戦闘機の温存策がとられていた。小月基地のエースパイロットは次のように語っている。

 「昼間の大空襲---ことに艦上戦闘機を伴う戦爆連合の空襲の場合、わが戦隊は、朝鮮半島の大邱基地に退避し、夕刻、薄暮になってから帰還して、夜間空襲に備えた」(『B29撃墜記』樫出勇)

 こんな状況で、わずか2機で高空を飛ぶB29に対して、本当に10機も迎撃に向かったりしたのだろうか。ゼロ戦というのも疑問だ。日本の戦闘機を一般的に「ゼロ」と呼んだ可能性もある。

 最終的に小倉を断念したスウィーニーは、長崎への機首方位を教えてくれ」と部下に指示する。部下からは「九州にある戦闘基地の真上を飛ぶことになります」との返事。だが、それを避けて海上を迂回(うかい)し、余分な燃料を消費する余裕はなく、結果的に「迂回は出来ない」と判断した。ついに、長崎へと針路がとられたのである。

核廃絶などを願って正月に座り込む被爆者たち。参加者は原爆が投下された午前11時2分に合わせて黙禱(もく・とう)をした=2022年1月1日、長崎市の平和公園

説明不足のスウィーニー少佐の記録

 スウィーニーの本では、この後いきなり長崎上空の描写に切り替わる。「北西から近づいていた我々は、あと数分で攻撃始点に到着するところだった」

 なぜ、北西なのか。これでは、長崎の北東にある小倉からわざわざ西へ回り込んで遠回りして長崎に侵入したことになる、ここも分かりにくい。攻撃始点もどこなのか書いていない。原爆投下機の機長の書いたものとしては、首をひねらざるをえない。

 彼の記録をいくら読んでも、長崎への侵入コースだけでなく、上空での状況、原爆をどこでどのように投下し、どう離脱したのか、説明不足の感を拭えない。どこか、紛らわしい記述なのだ。

 どうしてそうなったのか? 

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