高瀨毅(たかせ・つよし) ノンフィクション作家・ジャーナリスト
1955年。長崎市生まれ。明治大卒。ニッポン放送記者、ディレクターを経て独立。『ナガサキ 消えたもう一つの「原爆ドーム」』『ブラボー 隠されたビキニ水爆実験の真実』など歴史や核問題などの著作のほか、AERAの「現代の肖像」で人物ドキュメントを20年以上執筆。ラジオ、テレビのコメンテーターなどとしても活躍。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
どのようにして投下されたのか、いまだに不明な点だらけのそのプロセス
Nagasaki must be the last.「長崎を最後の被爆地」にという言い方がある。
核時代の幕を開けた「ヒロシマ・ナガサキ」以後、核爆弾が戦争で使用されたことはない。長崎が最後の被爆地であり続ける限り、まだ未来はある。そんな願いが、このフレーズには込められている。
だが今年2月、ウクライナに侵攻したロシアのプーチン大統領は、核の使用を仄(ほの)めかした。「ナガサキ」が意味を為さなくなるのではないか。そんな危機感が、長崎市民の間に広がった。と同時に、長崎には、同じ戦争被爆地である広島にはない意味が付与されていることも、再認識させられた。
1945年8月9日、広島に続いて長崎に原爆が投下された。あの日から77年の時が流れたが、なぜ長崎に原爆が投下されなければならなかったのかについては、いまだに曖昧(あいまい)な部分が多い。
9日の原爆投下は、第一目標が現北九州市の小倉で、長崎は第二目標だった。広島や小倉と違って二つの盆地がある狭隘(きょうあい)な地形。原爆投下の狙いのひとつに実験的側面があったことは確かで、その点からして長崎は難しい都市だった。
当日、米軍機は小倉に3度侵入を試みている。いかに小倉に執着していたかがわかる。しかし、諸々の条件が悪く、爆弾を落とせないまま長崎へ。やむなく長崎に落とさざるを得なかったというのが実態だった。
長崎原爆は、当日の経緯も分かりにくい。広島が、飛行も投下も計画通りに遂行されたのと対照的である。米軍の「戦闘詳報」が公表されていないのだ。なぜなのか。それは「戦術的に失敗」だったと考えられるからだ。
長崎原爆投下機「ボックス・カー」号の機長、チャールズ・W・スウィーニー少佐の『私はヒロシマ、ナガサキに原爆を投下した』を中心に、当日の動きを時系列で追いかけてみたい。
「ボックス・カー」が太平洋マリアナ諸島テニアン島を離陸したのは、現地時間9日午前2時45分だ。しかし、離陸直前、重大なトラブルが発生していた。後部爆弾倉にある予備タンクの燃料ポンプが作動しなくなっていたのだ。
2000リットルもの燃料が1滴も使えない。ポンプの修理には数時間かかる。原爆を別の機に移し替えるとしても数時間を要する。
「早く出発しなければ作戦は中止になり、ワンツーパンチの心理的効果が薄れる」。原爆投下チームのリーダー、ポール・ティベッツ中佐はそう考えた。結局、使えない燃料2000リットルを抱えたまま、離陸することになる。
離陸に際し、もう一つ予想していなかったことが起きた。爆撃チームは3機で編成されている。➀原爆搭載機、➁計測機器を乗せた機、③撮影機器を積んだ機だ。
原爆搭載機が離陸して2分後、計測器の2番機。その後、撮影機が飛ぶはずだったが、精密な写真撮影を担当する搭乗員(博士)が規程で決まっているパラシュートを持参するのを忘れ、誘導路に降ろされたのだ。3番機だけ、離陸が遅れた。
3機は鹿児島県屋久島上空で待ち合わせる計画だった。ところが乱気流発生の恐れがあり、高度を上げて9000メートルに設定した。高度が高いほど、燃料の消費が早い。
さらにミスが重なる。スウィーニーによれば、屋久島の合流地点に到達したのが午前7時45分。ほどなくして計測機器を積んだ「グレート・アーティスト」号が合流。しかし、離陸が遅れた撮影機が来ない。
島の南西端を旋回して到着を待ったが、落ち合えないまま40分が経過した。燃料の問題もあってそれ以上待てなくなり、2機で小倉へ向かうことになった。
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