メインメニューをとばして、このページの本文エリアへ

政治スクール生が地方選で続々と当選!~「定置網方式」で参院議員3期目へ

「女性のための政治スクール」30年の歩みから考えるジェンダーと政治【9】

円より子 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

 元参院議員の円より子さんが1993年に「女性のための政治スクール」を立ち上げてから来春で30年。多くのスクール生が国会議員や地方議員になり、“男の社会”の政治や社会を変えようと全国で奮闘してきました。平成から令和にいたる間、女性などの多様な視点は政治にどれだけ反映されるようになったのか。スクールを主宰する円さんが、自らの政治人生、スクール生の活動などをもとに考える「論座」の連載「ジェンダーと政治~円より子と女性のための政治スクールの30年」。今回はその第9話です。(論座編集部)
※「連載・ジェンダーと政治~円より子と女性のための政治スクールの30年」の記事は「ここ」からお読みいただけます。

ベアテ・シロタ・ゴードンさんのこと

 参院選が終わり、来年2023年の通常国会では、憲法改正議論が進みそうな雰囲気だ。この日本国憲法に、男女平等を書いたのは、ベアテ・シロタ・ゴードン(1923〜2012年)という22歳の女性だったことは知る人ぞ知る。

 彼女はウィーンで生まれ、リストの再来と言われたロシアのピアニスト、レオ・シロタの娘として、父が日本に招かれたのを機に5歳で来日。米国の大学に進学するが、戦後、日本にいる両親に再会するためGHQの通訳として来日。GHQによる日本国憲法草案作りに参加し、両性の平等などを規定する24条づくりにかかわるなど、男女平等を進める役割を担った。

 このベアテさんを2000年5月、国会の憲法審査会に参考人としてお呼びした。審査会後の懇親会でも親しく話すことができたが、ベアテさんは9条や24条を変えようという動きに大きな懸念を抱いていた。

日本国憲法草案づくりに関わったベアテ・シロタ・ゴードンさん=2005年4月、東京・新宿

ベアテさんに背中を押されて旭川市議に

 このベアテさんに背中を押されて、2003年に北海道の旭川市議になったのが、スクール生の山城えり子さんだ。

 2002年、ベアテさんが札幌に来た際、3日間、世話係のような形で寝食を共にした。講演や集会に付き添い、夜はグラスを傾け、夜更けまで語り合った。その中で、「あなたは議員になるべきよ。何を迷っているの」と背中を押されたのである。

 というのも、かなり以前から、旭川市の審議会の委員や家裁の調停委員などの社会的活動をやっていた彼女は特に環境に詳しく、環境大臣が旭川に来た時は事前に市長にレクチャーもする立場だった。もちろん、率先して、旭川市の環境運動にも取り組んでいたから、1995、1999年の統一地方選前には自民党から市議にと誘われていたのだ。

 「周りも是非と、言ってくれたけど、操り人形にはなりたくなくて」と固辞したが、ベアテさんに背中を押された時、たまたま今度は民主党からも誘われて、彼女は腹を決める。しかし、どの政党にも属さず、無所属で出ることにした。

 そして、2003年の統一地方選で見事当選。環境問題等の活動で、顔も名前もかなり知られていたことが大きかった。その仲間たちが全面サポートしてくれた。さらに、建築関係で人脈の広い夫が、当初は出馬に反対していたものの、子どもたちの説得で賛成にまわり、知り合いはほとんど自民党系という中でかなり動いてくれた結果、夫のゴルフ、釣り仲間も全面的にサポートしてくれた。

 彼女は大学卒業後、音楽の教師をしていて、妊娠で勤めを辞めたが、社会、人への関心が高く、子育てしながら、さまざまな活動をしてきた。市議になってもっとも良かったことは、「外からいくら叩いてもドアを開けて貰えなかったものが、内側から開けられるようになったこと」だったそうだ。ベアテさんに背中を押されたことは無駄ではなかった。

2011年、成年後見センター立ち上げの必要性を訴えて旭川市議会で質問する山城えり子さん。即予算がつき、翌年開設された(筆者提供)

 必要な人に社会資源をつなげることを優先し、それに徹した4期16年。引退を惜しむ声は大きかったが、しっかりと、2人の女性を後継に立て、当選させた。

 議員退職後は、障害を持つ子どもたちの放課後のデイサービスで週5日働いていたが、もっと専門的に携わりたくて社会福祉士の試験に挑戦。その資格を得て、この8月に開設した、虐待等で家庭に居られない児童の自立を援助する施設で、正職員として働いている。

 おっとりしていて気配りの人で、声を荒げるところなど見たことがなく、ニュージーランドに行った時も、旭山動物園に案内してもらった時も、一緒にいて楽しい人だが、芯の強い頑張り屋さんである。

>>>この記事の関連記事

「次の内閣」の財務大臣に就任

 山城さんが初当選した2003年の統一地方選では、「女性のための政治スクール」のスクール生が60人近くも出馬し、約9割が当選するという快挙だった。民主党では前年の代表選で鳩山由紀夫さんが再選され、私は「次の内閣」で財務大臣に任命された。

 民主党の女性議員たちがみんな喜んでくれたのは、財務大臣という、いわゆる「男のポスト」に私がついたからだった。女性議員を増やそうという民主党だったし、女性と男性との間に差別があってはいけないと気を遣っている党ではあったが、次の内閣の大臣をみると、環境、厚生、少子化、法務といった分野に女性が就くことはあっても、財政金融や防衛外交にはいなかった。

 これは民主党だけでなく、他の党でも、内閣でも言えることだ。そもそも、女性議員が国会で財政金融や外交防衛の委員会を選ばないことが大きな原因だ。

 私は決算委員会、予算委員会以外に、地味で人気の無い、そして専門的で難しい財政金融委員会に長く所属していた。大学で経済を勉強したわけでもなく、基礎的素養もない私にとって、財政金融委員会は荷が重かったが、財界の鞍馬天狗と言われ、「そっぺいさん」と慕われた中山素平さんに目をかけてもらい、久水宏之さん、足立哲郎さん、東京電力の平岩外四さんの懐刀、川又民夫さんらが師匠となってくれて毎週、勉強会で叱咤激励され、山のように宿題を与えられるという日々を過ごしたからこその、次の内閣財務大臣だったのである。

私の金融経済のブレーンになってくれた大先輩たち。前列は中山素平さん。後列は右から足立哲郎さん、円より子、久水宏之さん=1999年5月17日

 日本新党で参議院議員になったその日から、女性や少子化問題も福祉も大事だが、国会議員なら外交防衛、金融経済を勉強することが必要だと、毎週、講師を呼んで、新政策フォーラムという勉強会を開いてくれたのである。

 おかげで、一流の人々と議論ができただけでなく、「女性のための政治スクール」の講師にも来てもらうなど、この30年間、交流を続け、何かにつけて、有益なアドバイスを貰えている。女性自身も従来の「女性に身近な分野」に捉われずに挑戦する意欲を、もっと持つ必要があるのではないだろうか。

都知事選の候補者に樋口恵子さんを口説く

 ともあれ、私は金融経済の有能な大先輩のブレーンの人たちと、満を持して財務大臣の任に臨んだのだが、鳩山代表の辞任と共に3カ月で大臣の座を降りることに。代表選では岡田克也さんを破って菅直人さんが代表になった。私は党の副代表に就任する。

 2003年の統一地方選と東京都知事選が迫っていた。代表の菅さんは不戦敗だけは避けたいと、女性の候補者を探してほしいと要請してきた。相手は現職の都知事石原慎太郎さん。私は20年以上の付き合いがある樋口恵子さんに連絡した。

 「決めるまで絶対漏れないようにしてね」とまんざらでもない感触を得て、菅さんとだけやりとりをしつつ、毎朝7時、国会に出る前に、樋口さんとの電話会談を重ね、ついに承諾を得た。

記者会見を開き、東京都知事選への出馬を表明する樋口恵子氏=2003年3月19日 、 東京・内幸町の日本記者クラブで

 無所属で出馬する記者会見を樋口さんが開いた日の翌日3月20日、アメリカのイラク攻撃が始まる。その7日後、都知事選がスタート。「平和ボケ婆さん」を名乗り、「平和な国、安心の福祉の東京を」と訴えたが、投票日直前にバクダッドが陥落。石原慎太郎さんの大勝利に終わった。

 しかし、さすがに長年、女性の問題を追求してきた樋口さんである。全国から浄財が集まり、ボランティアも押しかける。赤松良子さん、住田裕子さんとは毎晩、選対会議後に夜食を食べたし、落合恵子さんらと共に電話かけもした。

 民主党はあまり表に出ないようにしたが、井の頭公園を菅さん、樋口さんとまわったり、事務所内の雑務や政策作りを手伝った。もう少し早くから準備をしていればと悔やまれたし、樋口さんにしてみれば不本意だったと思うが、良い闘いだった。

2003年の都知事選に出馬した樋口さん。菅直人さんと井の頭公園で(筆者提供)

>>>この記事の関連記事

スクール生が江戸川区議選でトップ当選

 都知事選の1週間後、区議選が始まった。2001年から通い続けていたスクール生の田の上いくこさんが江戸川区から出馬、トップ当選する。

 民主党公認で出たいというので、東京16区総支部長を務める衆議院議員に紹介、公認を得ることができた。総支部長は各選挙の公認候補を党本部に推薦する権限がある。総支部長の眼鏡にかなわなければ公認は得られないし、総支部長の秘書などが公認されていると難しい。学歴、職歴、能力、人柄が申し分なくても、総支部長である衆議院議員が、自分に忠実な秘書のほうを選ぶことはよくある。

 区議選の民主党公認となれた田の上さんは、着々と準備を進めた。私も出陣式から応援に入ったが、ポスターは公営掲示板の1番をクジでひきあて、幸先の良いスタートとなった。ポスターも目立つところに貼れるかどうかで違ってくる。

 最終日は圧巻だった。夕方から街頭演説に付き合い、20時、マイクを置く時間となった。しかし彼女はマイクなしで、駅頭に立ち、声を張り上げた。

 「たのうえです。明日の投票はぜひ、たのうえをお願いします」。駅の階段を降りてくる男性たちが、「頑張れよ」「痩せちゃって大丈夫か」「朝からずっと立っていたのか」「明日は必ずたのうえと書く!」と口々に言う。彼女の手を握って離さない酒臭いおじさんもいた。

2003年の統一地方選江戸川区議選に初出馬した田の上いくこさん(筆者提供)

「普通の女性でも議員になれる!」

 元々はオーストラリアの大学院を出て外資系企業に勤め、江戸川区の外の活動が多かった彼女だ。アフター均等法世代で、仕事は面白いが、ダブルインカムで少しは経済的余裕があっても、こんなに働いていて子どもを産んで育てることなどできるだろうかなどと考えるうちに、区内の子育て事情に目がいくようになる。

 まわりには母子家庭も多く、経済的に困窮している。共働きで子どもが産まれると、保育園は入りにくいし、短時間労働は許されず、退職した人もいる。均等法ができたって、男と同じように働けと言われたって、やってられない。

 男が、もっと家事も育児もできる働き方にならない限り、子どもなんて産めやしない。「政治を変えなくちゃ」と決意し、女性のための政治スクールに入って区議選に挑戦したのだ。

 スクールでは、前回紹介したジャンヌダルクの会で作った小冊子「立て、女たちよ」の編集に携わった。「あそこに出ていた女性たちって、本当に普通の人たちだった。私は普通の女性でも議員になれるって感動して、出馬する気になったんです」と言う。

 4年後の1月、江戸川区の都議に欠員が出て、補欠選挙が行われることになった。3カ月後には2期目の区議選があるが、私や党は彼女を補選に出すと決めた。彼女も意欲があった。10万票以上の票を得た。江戸川区で野党系の国会議員や都議が獲得したことのない大量得票だったが、残念ながら落選。2年後の都議選本選で当選を果たす。

 その間、地元をくまなくまわっていたことが、その後の選挙にいきたのだろう。今は都民ファースト所属の都議として3期目を務めているが、視覚障害者のガイドヘルパーや整体師の資格もとり、福祉政策に尽力するなど、努力の人でもある。

比例候補にとっては残酷な非拘束名簿方式

 2004年7月の参院選は、私にとって3期目の選挙だった。この選挙は、比例の順位を党が事前に決めていた従来の拘束名簿方式から、比例候補ながら氏名を書いてもらい、得票数の順番で当選するという非拘束名簿方式に変更になって、2度目の選挙だった。

 自民党の比例候補が順位を金で買っていることが大問題になったのを、自民党が問題をすり替えて非拘束名簿方式を提案し、野党の私たちは大反対運動を繰り広げたが、成立してしまった、比例候補にとっては残酷な制度であった。なぜ残酷なのか。

 まず、比例候補はポスターを貼る公営掲示板がない。選挙区は全国である。よほどの組織が全国的に無ければ、出馬していることを有権者に知ってもらうことができない。当時、SNSはなく、私は年に4回、国会報告のような形でレポートを支持者1万人に郵送していたが、郵送費は半端じゃない。これを10万に増やしたら、人件費、印刷費、郵送代は半端どころではない。それでいて、10万人全員が私に投票してくれても当選できない。

 さらに難しいのは有権者の多くが、新しい方式を知らないことだった。投票所では最初に選挙区の投票用紙をもらい、その都道府県の立候補者の名前を書く。2枚目の投票用紙が比例候補のものだが、政党名または候補者名を書くように言われる。これがわからないのだ。

 選挙後、多くの人に「円さん、当選して良かった」「入れてきたよ」と言われたが、よくよく聞いてみると、ほとんどの人が「民主党」と書いていた。もちろん、党の比例票にはなり、党の当選者を増やせるが、私の票にはならない。

参院選3期目の当選を期した「定置網方式」

 テレビで顔が売れていて、メディアで比例候補として大々的に取り上げられたりすればいいが、私は組織もなく、テレビで顔がそこそこ売れていたのは、日本新党から出馬した10年も前のことだ。選挙を勝ち切るにはよほどの戦略が必要だと、1年前に選対本部を立ち上げた。

 スクール生たちも自発的にそれぞれの地方で集会を開いて私を呼んでくれたりした。なかでも面白かったのは「定置網方式」の採用だった。

・・・ログインして読む
(残り:約2509文字/本文:約8254文字)