ドキュメンタリー番組「ゴルバチョフの私語」の晩年の姿に思う……
2022年09月07日
「棺(かん)を蓋(おお)いて事定まる」という諺があるが、「棺を蓋っても」評価が定まらないのが、ソ連の最後の指導者、8月30日に91歳で死去したミハイル・ゴルバチョフだ。
西側の評価は「ソ連消滅、そして東西冷戦に終止符を打った立役者」「東欧に自由をもたらした恩人」として総じて高く、好意的だ。一方、ロシア国内の評価は「ソ連の墓堀り人」「裏切者」と評価が低い。プーチン大統領が国葬を行わず、遺体に最後の別れはしたが、葬儀には欠席した行為も、このあたりの国内評価を反映したものだろう。
本人は、国内と国外の相反する評価をどう思っていたのだろうか。
仏独共同経営のテレビ局「アルテ(ARTE)」が8月31日に特番として1時間半にわたって放映したドキュメンタリー番組「ゴルバチョフの私語」(2019年12月31日から2020年1月1日零時に収録)では、製作者兼インタビュアーのロシア人ヴィタリー・マンスキーが、何回かこの点を質問したが、ゴルバチョフは黙して答えなかった。
西側では一般的に、ゴルバチョフの名はまず、「ペレストロイカ(再建)」と「グラスノスチ(情報公開)」によって、ソ連に風穴を開けた人物として、広く知られるようになった。国際政治に通常は関心のない者にも、ソ連への関心を高めさせた点でも、異例の政治家と言える。
冷戦中のレーガン米大統領との初の米ソ首脳会談(1985年11月)は、二人の笑顔と共に印象的な歴史的シーンとなった。その後も米ソ首脳会談を続け、最終的には米ソの核軍拡戦争に終止符を打ったことも評価されている。だからこそ、ノーベル平和賞も受賞した(1990年11月)。
冷戦の象徴でもあった東西に分断されていたドイツの統一を許したのもゴルバチョフだった。さらに、東独を含む統一ドイツのNATO所属を承認(1990年7月)し、冷戦終了を実質的に実現させたのもゴルバチョフだ。
もっとも、ゴルバチョフが米ソの軍拡競争に終止符を打ったのは、米国に勝ち目はないと悟ったからだ。すでに経済の破綻が始まり、国内総生産(GDP)の20%に達していた軍事費の出費に耐えらる状態ではなかった。東側の“兄弟国”への支援もままならない状態だった。当時、大事に保管していた帝政ロシア時代から継承した金貨を含む金塊をロンドンに密かに売却したというニュースが、パリでは流れていた。
しかし、こうしたニュースのほかに、一般的に西側で評価が高かったのは、パステルナークの「ドクトル・ジバコ」(1985年11月発刊)の出版を許可した“文化人”だったことではないだろうか。あるいは、激しい抵抗運動を展開した天才物理学者アンドレイ・サハロフの国内監禁を解除(1986年12月)した“反ブルジネフ政治家”、ソ連に新風を吹き込んだ人物としての印象を与えたはずだ。
ソ連の忠実な部下だった東独の独裁者エリック・ホネッカーが1989年1月に「ベルリンの壁は今後100年間は堅固だ」と述べたのに対して、「遅刻者は一生涯の罰に値する」と糾弾している。ベルリンの壁はホネッカーの預言に反して、10カ月後の同年11月に崩壊した。
西側にとって、「悪の象徴」のような怖いブレジネフとは対照的に、ゴルバチョフは明るい笑顔の遠縁のおじさんのような印象だった。
ところが、国内での評価は一転して低いどころか、「ロシアの偉大さにケチをつけた人物」「ソ連の墓堀り人」として糾弾されている。ノーベル平和賞受賞に関しても、「西側におもねったからで、そのご褒美」「裏切り者の証拠」などと非難は尽きない。
実際、ゴルバチョフ自身がこの国外と国内との評価の極端な相違について、どう考えているのかを問うた先述の『ゴルバチョフの私語』の番組制作当時、ロシアでのゴルバの支持率は0.8%しかなかった。
インタビュアーのマンスキーは、ソ連時代のウクライナで1963年に生まれ、ロシアより自由に活動がしやすいリトアニアに生活の本拠を移し、ルポルタージュ中心の番組制作を行っている。年齢的にも環境的にも西側的な人間だ。ゴルバチョフのロシアでの評価の低さに関しても、「評価が低すぎるのでは」と同情的な態度で質問していた。
ところが、ゴルバチョフは再三の質問に対して、黙して答えず。補聴器をつけていたが、質問がよく聞こえず、他の質問の時も聞き返している場面があったので、実際に聞こえなかったのかもしれないが、聞こえないふりをしているようにも見えた。
激しい権力闘争を生き抜き、ソ連の最高指導者までのぼりつめた百戦錬磨の人だ。答えたくない質問には、聞こえないふりをして、やり過ごすしたたかさは、老いても十分に備えているだろうから、ほんとうのところは分からない。
それにしても、91歳のゴルバチョフの食欲は驚異的だった。糖尿病だったと伝えられるが、この日、スタッフと共にしたテーブル一杯に並べられた昼食のご馳走の山とワインを、旺盛な食欲で平らげていた。大物政治家や経済人には総じて健啖家が多いが、ゴルバチョフも例外ではない。
健康状態は決して良くない。椅子から立ち上げるという簡単な動作にも時間がかかった。だが、使用人が抱き起そうとするのは拒否した。使用人が「長いこと座っていたからですね」と自尊心を傷つけないように慰めていた。
歩行器を使ってゆっくりと歩いた。食堂のある2階からはエレベーターを使って降りたが、室内の短い階段はこの歩行器を使いながら、使用人の手を借りずに一段一段、ゆっくりと降りた。
政府から提供されているという自宅は白塗りの壁の二階建てで、小型のホワイトハウスといった感じだが、内部は広いが薄暗くて陰気な感じだ。目を引いたのは、1999年にガンで亡くなったライサ夫人の巨大な笑顔の肖像写真だ。絵画のように壁にかけられていた。室内のあちこちにもライサ夫人の写真が置かれていた。
運転手や料理人など約10人の使用人がいるが、「自費で雇っている」とのこと。「大統領を辞めた後、世界中から講演の依頼があったからだ。一回の講演料で4万ドルもらったこともある」とちょっと誇らしげに説明した。
そういえば、ルイ・ヴィトンの旅行鞄のPR写真のモデルになって話題を呼んだことがある。車の座席に座ったゴルバチョフのかたわらに、かの有名なヴィトンの大型ボストンバックが置いてあるという構図だった。あのPR出演料はいったい、いくらだったのか。
番組では自宅でのインタビューの後、モスクワの中心部にある事務所に場所を移してインタビューが続けられたが、つけっぱなしのニュース番組のテレビにはまったく、視線を送らなかった。
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