山口 昌子(やまぐち しょうこ) 在仏ジャーナリスト
元新聞社パリ支局長。1994年度のボーン上田記念国際記者賞受賞。著書に『大統領府から読むフランス300年史』『パリの福澤諭吉』『ココ・シャネルの真実』『ドゴールのいるフランス』『フランス人の不思議な頭の中』『原発大国フランスからの警告』『フランス流テロとの戦い方』など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
ドキュメンタリー番組「ゴルバチョフの私語」の晩年の姿に思う……
「棺(かん)を蓋(おお)いて事定まる」という諺があるが、「棺を蓋っても」評価が定まらないのが、ソ連の最後の指導者、8月30日に91歳で死去したミハイル・ゴルバチョフだ。
西側の評価は「ソ連消滅、そして東西冷戦に終止符を打った立役者」「東欧に自由をもたらした恩人」として総じて高く、好意的だ。一方、ロシア国内の評価は「ソ連の墓堀り人」「裏切者」と評価が低い。プーチン大統領が国葬を行わず、遺体に最後の別れはしたが、葬儀には欠席した行為も、このあたりの国内評価を反映したものだろう。
本人は、国内と国外の相反する評価をどう思っていたのだろうか。
仏独共同経営のテレビ局「アルテ(ARTE)」が8月31日に特番として1時間半にわたって放映したドキュメンタリー番組「ゴルバチョフの私語」(2019年12月31日から2020年1月1日零時に収録)では、製作者兼インタビュアーのロシア人ヴィタリー・マンスキーが、何回かこの点を質問したが、ゴルバチョフは黙して答えなかった。
西側では一般的に、ゴルバチョフの名はまず、「ペレストロイカ(再建)」と「グラスノスチ(情報公開)」によって、ソ連に風穴を開けた人物として、広く知られるようになった。国際政治に通常は関心のない者にも、ソ連への関心を高めさせた点でも、異例の政治家と言える。
冷戦中のレーガン米大統領との初の米ソ首脳会談(1985年11月)は、二人の笑顔と共に印象的な歴史的シーンとなった。その後も米ソ首脳会談を続け、最終的には米ソの核軍拡戦争に終止符を打ったことも評価されている。だからこそ、ノーベル平和賞も受賞した(1990年11月)。
冷戦の象徴でもあった東西に分断されていたドイツの統一を許したのもゴルバチョフだった。さらに、東独を含む統一ドイツのNATO所属を承認(1990年7月)し、冷戦終了を実質的に実現させたのもゴルバチョフだ。
もっとも、ゴルバチョフが米ソの軍拡競争に終止符を打ったのは、米国に勝ち目はないと悟ったからだ。すでに経済の破綻が始まり、国内総生産(GDP)の20%に達していた軍事費の出費に耐えらる状態ではなかった。東側の“兄弟国”への支援もままならない状態だった。当時、大事に保管していた帝政ロシア時代から継承した金貨を含む金塊をロンドンに密かに売却したというニュースが、パリでは流れていた。
しかし、こうしたニュースのほかに、一般的に西側で評価が高かったのは、パステルナークの「ドクトル・ジバコ」(1985年11月発刊)の出版を許可した“文化人”だったことではないだろうか。あるいは、激しい抵抗運動を展開した天才物理学者アンドレイ・サハロフの国内監禁を解除(1986年12月)した“反ブルジネフ政治家”、ソ連に新風を吹き込んだ人物としての印象を与えたはずだ。
ソ連の忠実な部下だった東独の独裁者エリック・ホネッカーが1989年1月に「ベルリンの壁は今後100年間は堅固だ」と述べたのに対して、「遅刻者は一生涯の罰に値する」と糾弾している。ベルリンの壁はホネッカーの預言に反して、10カ月後の同年11月に崩壊した。
西側にとって、「悪の象徴」のような怖いブレジネフとは対照的に、ゴルバチョフは明るい笑顔の遠縁のおじさんのような印象だった。
論座ではこんな記事も人気です。もう読みましたか?