エネルギー危機の日本 岸田総理の意味不明な原子力政策~ドイツの例から考える
ロシアのウクライナ侵略に伴う国際的なエネルギー危機への対応で浮き彫りになったもの
竹内恒夫 名古屋大学名誉教授
原発撤退で合意した「アトム・コンセンサス」
ロシアからのパイプラインによる天然ガスの供給量の大幅な削減に直面しているドイツでは、今年末に運転が終了する最後に残った3基の原発(合計430万kW、年間発電電力量約30TWh(ドイツの総発電電力量の約5%))の運転期間を延長すべきかどうかが議論になってきた。
ここで、ドイツの脱原発政策の経緯をみる(日本では「メルケル首相が福島第一原発事故を契機に脱原発に舵を切った。」との説明が多くみられるが、これは正しくない)。
1998年10月、16年続いたコール政権(キリスト教民主/社会同盟と自由民主党の連立〈黒・黄連立〉)に代わり、シュレーダー政権(社会民主党と緑の党の連立〈赤・緑連立〉)が誕生した。
社会民主党は1970年代に原発を巡って党内が対立し、シュミット首相らの推進派が勝利したが(この時、「これで、西ドイツのすべての政党が原発推進になった」として、社会民主党の原発反対の党員のかなりの部分が緑の党結成に合流した)、野党時代に起こったチェルノブイリ事故(1986年4月)の後の党大会で脱原発に転換した。緑の党は全国レベルの政党として1980年に発足した当初から反原発。その2党が連立政権を組むに当たり、4年間の政権期間中に実現する政策を「連立協定」において合意した。
そこには、原発からの撤退、再エネ固定価格買取制度(再エネ法)の導入、エコロジー税制改革(エネルギー税を引き上げ、社会保険料負担を軽減し、CO₂削減と雇用増を同時達成)の導入などが明記され、シュレーダー政権は、これらの実現を目指した。
2000年6月14日、原発からの撤退について、シュレーダー首相は、原発を保有する4つの電力会社の社長との間で最終的に合意した(「アトム・コンセンサス」)。19基あった原発1基ごとの運転期間を32年として総発電電力量を算定し、2000年1月1日時点の残存発電電力量(19基合計で2620TWh)を各基に割り当て、これに達した原発から運転期間を終了するという方法であった。
効率の悪い古い原発の残存発電電力量は効率の良い新しい原発に移譲できるとしたので、確定的な終了年は流動的だが、基本的には、1989年に運転開始した最後の3基が運転を終える2022年にドイツの原発はすべて終了する。社長らと徹夜で交渉したシュレーダー首相は、社長らとの共同記者会見において「原発の問題は、ドイツ社会において長い期間、非常に対立的な議論が続いてきた。経営者にとっても、ドイツの政治や社会にとっても、このような合理的なルールが求められてきた」と説明をした。
原発計画を白紙撤回した北川三重県知事
なお、アトム・コンセンサスの3カ月前の2000年2月、日本の三重県議会では、北川正恭知事が中部電力の芦浜原子力発電所計画についての見解を表明している。
「現状では、原子力は欠くことのできないエネルギー源と言わざるを得ないと考えます」としたうえで、
「原子力発電所の立地についての推進、反対の対立が続く中、地元住民はそれにより長年にわたって苦しみ、日常生活にも大きな影響を受けていることを強く感じました。37年間もの長きにわたりこのような状態が続いてきたことは、県にも責任の一端があることは事実であり、こうした事態がこれ以上続くことは避けなければならないと考えます」
「よって、芦浜原子力発電所計画については白紙に戻すべきであると考えます」
と述べた。
これを受けて中部電力社長は同日、直ちに「芦浜断念」を発表した。
北川知事、シュレーダー首相は、くしくも同じ2000年、原発を巡っての地域や政治・社会における長年にわたる激しい対立を解消するため、原発計画を白紙に戻すよう要請し、あるいは、原発からの撤退の合理的な方法を示し、いずれも電力会社は合意したのだ。

三重県議会で芦浜原発建設計画の白紙撤回を表明した北川正恭知事=2000年2月22日、津市
原発対応で揺れたメルケル政権
ドイツに戻る。2002年4月、「アトム・コンセンサス」に沿って、原子力法が改正され、原発の新設禁止とともに、17基がそれぞれいつまで運転できるかが具体的に規定された。例えば、Isar2、Emsland、Neckarwestheim2の3基の運転許可期間は2022年12月31日までと原子力法第7条に規定された。これらの3基が最後である。
2009年、(第2期)メルケル政権(キリスト教民主/社会同盟と自由民主党の連立〈黒・黄連立〉)の「連立協定」では、原発の新設禁止は維持するが、運転許可期間は延長するとした。
1980年以前に運転開始した7基の運転許可期間が迫った2010年10月、メルケル政権は、7基の運転時期を8年、より新しい10基は14年、それぞれ延長する原子力法の改正案を成立させた。メルケル政権は「原発撤退から撤退した」のだった。
ところが、翌2011年3月11日、福島第一原発事故が発生した。3日後、メルケル首相は、17基すべての原発の3カ月にわたる安全試験を開始した。さらに脱原発に関して様々な検証が行われた。同年6月30日、連邦議会では与野党一致で、最後の3基の運転許可期間を2022年末に戻すことなどの原子力法及び関連法の改正案を可決した。「2022年終了」に戻ったのである。
2021年12月、16年間続いたメルケル政権に代わり、ショルツ政権(社会民主党、緑の党と自由民主党の連立〈赤・緑・黄=信号=連立〉)が誕生した。そして、ドイツの原発が終了する2022年が到来した。2月のロシアのウクライナ侵攻に伴い、天然ガスの供給不足などエネルギー危機が発生し、これに対処するため、最後の3基の運転許可期間を延長すべきかどうかが議論になった。

ドイツの原子力発電所イザール1号機と2号機
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