「戦後77年」を率いた二人の宰相 安倍晋三、吉田茂の政治・外交路線を論ず
永井陽之助と岡崎久彦の外交・防衛“15年論争”から見えるもの。公明党の役割は……
赤松正雄 元公明党衆院議員 元厚生労働副大臣 公明党元外交安保調査会長 公明党元憲法調査会座長
戦後日本の基盤と位置づけられた「吉田路線」
岡崎・永井論争は、永井の「防衛論争の座標軸」によれば、政治的リアリストと軍事的リアリストの対決ということになる。いわゆるアングロ・サクソン枢軸、英米両国に身を寄せることを絶対視した岡崎に対して、永井は日米同盟は是としながらも、「英米一辺倒」を疑問視していた。
日本の外交防衛論争は当時、大まかに言うと、「現実主義対理想主義」の相剋(そうこく)と見られてきた。永井は、その現実主義を「福祉重視」と、「軍事重視」の立場の二つに仕分けした。
前者には、いわゆる保守本流とされる政治家や外務防衛を除く官僚たちが括られた。後者には、自民党右派、外務省、海・空自衛隊などが属するとされた(他に目標は自立におくも手段は「福祉重視」の非武装中立論的存在、また、目標は同じだが、手段は「軍事重視」の日本型ゴーリストなど4つのグループに分けられていた=図参照)。 後に触れるが、ここで公明党が社共と同じ位置にあるのは隔世の感がする。

図:『新編 現代と戦略』(文藝文庫)に掲載された表をもとに論座編集部で作図
永井は、こうした座標軸を提示した上で、戦後の日本の外交・防衛のよって立つ基盤を「吉田路線」と位置付けた。核兵器が力を持つ時代には、非核国は自ずと核保有国との同盟関係に立つしかなく、自立とは縁遠くならざるを得ない。軍事は米国の“矛”に任せ、自らは軽武装で“盾”に徹して、経済力強化に邁進することでいくしかなかった。文字通りの矛盾なのだが、これを永井は「吉田ドクトリンは永遠なり」との誇張表現で、世に宣揚したのである。吉田本人はドクトリンとは薬のことか、と訝(いぶか)しんだはずといわれる。

国会で施政方針演説をする吉田首相=1951年1月26日
対極的位置にあった「安倍路線」
安倍は、周知の如く、岸信介、福田赳夫の流れを汲む自民党非本流の立場で、生涯を通じ、憲法改正への意志を露わに、日本の栄光を取り戻したいとする姿勢を鮮明にしていた。自ずと、吉田路線とは対極的位置にあった。連立政権入りした公明党も、私も、第2次安倍政権までは、安倍と一定の距離を置き、その右寄り傾向に警戒心を隠さなかった。政策的には、宏池会や経世会との親近性が囁かれてきたのは周知の通りである。
細谷雄一慶大教授が先の中央公論9月号の特集「安倍政治が遺したもの」で、興味深い論考を書いている。
細谷は戦後吉田茂が目指した「軽武装・経済路線」は「永遠に有効なわけでなく、一時的な帰納的回答である」と批判。「われわれが向き合うべき新しい外交路線」こそ、「より厳しい世界の現実に直面する勇気を」持つ「安倍ドクトリン」だと、安倍の政治姿勢を推奨している。安倍の死にあたり、高坂正堯『宰相吉田茂』(1964年)を意識して、「宰相安倍晋三論」を1971年生まれの細谷が掲げたことは感慨深い。
この論考はほんのさわりだけ。近く本格的なものが書かれるのかどうか、注目されよう。

安保関連法案の参院特別委で答弁する安倍晋三首相=2015年9月11日、国会内
思想的には保守、政治選択は現実的
実は、安倍を保守と見るかどうか、死後の評論は分かれ、疑問を投げかける向きは少なくない。そうした論者は、安倍には伝統的な保守の政治行動とは言い難い面が散見されるという。
例えば、思想家の佐伯啓思(京都大名誉教授)は、
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