藤原秀人(ふじわら・ひでひと) フリージャーナリスト
元朝日新聞記者。外報部員、香港特派員、北京特派員、論説委員などを経て、2004年から2008年まで中国総局長。その後、中国・アジア担当の編集委員、新潟総局長などを経て、2019年8月退社。2000年から1年間、ハーバード大学国際問題研究所客員研究員。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
日中国交正常化50周年の日本に必要なのは現実的で冷静な対中戦略だ
中国は次に経済の改革開放により、台湾からの投資も積極的に取り込んで経済成長を続け、台湾を追い詰めた。蒋介石は大陸反攻の旗を降ろすことなく死去、国民党独裁の台湾の前途は風前の灯のようになった。
しかし、息子の蒋経国は大陸反攻より足元の台湾の発展に注力し、李登輝ら台湾出身者の登用を進めた。
日本は台湾と断交したが、植民地だった歴史もあり様々な民間の関係は続いた。ただ、共産党と同様に独裁を敷いた国民党に対する評価は芳しくなかった。それが87年の戒厳令解除に始まる民主化の進展により、日本だけでなく欧米からの注目が台湾に集まるようになった。
その台湾の民主化の歩みを世界に強く印象付けたのが、1996年の初の総統直接選挙だった。台湾当局が支配する地域だけで投票される総統選挙は、台湾独立の道を開きかねないと警戒した中国は、弾道ミサイル発射など軍事演習を繰り広げた。これに対して米国は、空母機動部隊を派遣し事態収拾に動いた。第3次台湾海峡危機である。
当時、新聞社の特派員として香港に駐在していた私は、中国を激怒させた95年の李登輝総統訪米から総統選挙まで現地に出かけ取材した。中国は李氏訪米直後から台湾を標的にした大規模な軍事演習を重ねていたが、日本では対岸の火事のような扱いだった。それが変わったのは96年3月、中国が日本の領海に近い海域でミサイル演習を設定してからだ。
東京では台湾在住の邦人避難をどうするかが話題となったが、有効な手段は見当たらなかった。救出策の検討を指示した、当時の橋本龍太郎首相は心配で「一週間ほど眠れない夜が続いた」と後に語っている。
東京本社からは毎日、「ミサイルは飛んだか」と問い合わせが来た。