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国会議員の私が安倍元総理の国葬儀を欠席する理由~米山隆一衆院議員

手続き上の問題、内政・外交評価の双方で国葬にする理由なし。当日は献花台で悼む

米山隆一 衆議院議員・弁護士・医学博士

 安倍晋三元首相の国葬儀が9月27日に執り行われます。政府の発表によると、国内の約6000人に案内状を送付、22日までに約3600人から出席の回答があり、海外から参列する約700人と合わせ、参列者は約4300人になるということです。

 そんななか、私は国葬儀を欠席します。以下、その理由について述べたいと思います。

国葬儀の出欠表明、是非の議論はすべきではないのか

 まずこの様にして自らの出欠を表明すること、さらに国葬儀の是非を議論することについて、自民党の二階幹事長は「国葬がどうだとか、こんな時に議論すべきではない。控えるべきだ」(自民・二階氏 国葬は「黙って手を合わせ見送ればいい」(FNNプライムオンライン)と述べ、評論家の三浦瑠麗氏は「はしたない」とツイートしていますが(参照)、はたしてそうでしょうか?

 この原稿を書いている時点で結論はお判りでしょうが、私は「そんなものは自由である」と思っています。

 国葬儀は、その名の通り、個人の葬儀ではなく国家の儀式(セレモニー)です。国権の最高機関の一員たる国会議員が、その是非を論じ、出欠についての態度を表明するのはむしろ当然です。そこに個人の葬儀におけるモラルを持ち込んで、「議論すべきではない。控えるべきだ」「はしたない」などと言うのは、隠然たる言論抑圧であり、評論家の三浦氏はともかく、国会議員たる二階氏は厳に慎むべきことだと思います。

故安倍晋三元首相の国葬が行われる日本武道館 =2022年9月21日、東京都千代田区北の丸公園

民主主義の否定につながる国葬儀のあり方

 そのうえで、私が出席しない最大の理由、それは、
法的根拠なく、閣議決定によって一個人を「国葬儀」に付すことは、国権の最高機関としての国会の地位を軽視し(憲法41条)、日本の民主主義の否定につながるものであり、全国民の代表たる国会議員が「国葬儀」に出席することで、こうしたあり方を認めることはできない、
からに他なりません。

 これに対し、「国葬儀の法的根拠は、内閣府設置法第4条第3項33号『内閣府は、前条二項の任務を達成するため、次に掲げる事務をつかさどる。……国の儀式並びに内閣の行う儀式及び行事に関する事務に関すること(他省の所掌に属するものを除く。)』にあるから、閣議決定で決めて問題ない」という“俗論”が流布しています。

 しかし同条項は、内閣府の所轄事務を定めているに過ぎません。閣議決定によって、一個人の「国葬儀」を決められるという法的根拠にはなり得ないのです。そもそも、こうした理屈がまかり通るなら、税金の徴収は財務省の管轄だという理由で、閣議決定だけで新たな税金を決める事ができることになってしまいます。

 実際、政府・内閣府・内閣法制局もこの様な無理な解釈はとっていません。政府の公式見解は、
国葬儀は儀式の実行であり、儀式の実行は行政権の行使として内閣に属し(憲法65条)、内閣府設置法第4条第3項33号はこれを裏付けるものである。侵害留保説(政府が行政権を実行するにあたり、国民の権利や自由、財産を権力的に制限、侵害するような行政活動に限り、法律の根拠を必要とするとする説)に基づけば、儀式の実行は国民の権利や自由、財産を侵害するものではないから、法律の根拠を要しない行政権の行使として実行できる、
と言うもので、妥当か否かはともかく、「解釈論(説)」としては成立し得ます。

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「侵害留保説」はひとつの「説」に過ぎない

 一方、「侵害留保説」は判例にはなっているものの、いわゆる「説」に過ぎません。国民の権利や自由、財産を制限、侵害するようなものであるか、国民に権利や利益を与えるものであるかにかかわらず、行政活動が権力的な行為形式によって行われる場合には、法律の根拠が必要であるという「権力留保説」、国民の権利や自由、財産を制限、侵害するようなものであるか、国民に権利や利益を与えるものであるかを問わず、行政活動にはすべからく法律の根拠が必要であるという「全部留保説」も有力に主張されています。

 仮に「侵害留保説」に立ったとしても、一個人を国葬に付することは、法の下の平等(憲法14条)に反し、国民の権利を害するとも考えられますし、現在明らかにされてだけでも16億円の費用が税金から支出され、その分ほかの予算が削られるわけですから、国民の財産を侵害すると考えることも出来ます。

 結局のところ、「国葬儀」と言う国の儀式を法律の根拠なく閣議決定で実行できるか否かは、論理必然に一つに決まる事ではなく、憲法解釈のあり方、さらに言えば政治哲学の問題なのです。

首相官邸で行われた故安倍晋三元首相の国葬儀実行幹事会=2022年9月21日、首相官邸

最低限必要な国会の議決

 これらを前提にして、仮に、「儀式」であればどのようなものであっても閣議決定で実行できると考えるのであれば、例えば岸田文雄総理が、閣議決定によって自らの母親を国葬に付しても何の問題もなく、国会はそれについて何一つ言えず、次の選挙で審判を仰ぐまで待っていろということになってしまいます。

 しかしそれは、国会を国権の最高機関と定め(憲法41条)、すべての人を法の下に平等とする(憲法14条)日本国憲法の趣旨にあまりにも反する考え方であり、民主主義国家の政治家としては、到底許容できない憲法解釈です。

 全国戦没者追悼式や、東日本大震災追悼式のように、誰が見ても日本国民全体のための儀式であれば、閣議決定で決めることも正当化されえますが、そうではない一個人を国葬に付する以上、どの説に立とうが、国会で審議のうえで成立した法律の根拠なり、最低限国会の議決が必要だと、私は思います。

 そしてこの様に考えることは、実のところ、常識的な「国葬」概念、更には政府の従来の解釈とも一致します。

 平成29年の内閣法制局政府答弁例集は、「国葬とは、①国の意思により②国費を持って③国の事務として行う葬儀を言う」としています。この従前の政府の解釈は、極めて常識的であり、多くの国民の感覚にも一致します。このうち、②国費を持ってと、③国の事務として行う、は意味するところが明らかですので、問題は、①の国の意思をどう決めるか、になります。

 私は、憲法41条が「国会は、国権の最高機関であって、国の唯一の立法機関である。」と定めている以上、①国の意思を定める方法は、立法、もしくは国会決議しかないと思います。

 裏を返せば、立法か国会決議があれば、個人として賛成であろうが反対であろうが、国家の儀式としての正統性は民主的に認められたことになります。自民・公明両党は衆議院で465議席のうち293議席、参議院で245議席のうち139議席という圧倒的多数を有しているのですから、「(安倍元総理)国葬儀法案/決議案」を出し、一定の時間、賛成・反対討論をしたのちに採決しさえすれば、ほぼ100%(衆議院で61人、参議院で17人が造反しない限り)法案/決議案は可決され、誰はばかることなく堂々と国葬儀を行えます。政府・与党はなぜ、そうししないのかと思います。

立法か国会決議で解決できる「弔意の強制」問題

 「弔意の強制」についても同様の議論が成立します。

 私は「国葬儀」を行うことそれ自体は、憲法19条が定める「思想良心の自由」を侵害するとは思いません。「国葬儀」に出席しない自由はあるし、「国葬儀」が行われても個人としての弔意を示さない自由があるからです。とはいえ、では「弔意の強制」が一切ないかと言うと、そうではありません。

 「国葬儀」は前述した通り「国の意思」で行われます。民主主義国家である日本では、「国」とは「国民一人一人の集まり」ですから、国の意思で行うということは、つまり民主主義的な意味で、国民一人一人の意思で行うということになります。国民が国葬を行うことの可否を問われることなく、自らの意思で国葬を行ったことになってしまうとすれば、それを行う意思のない国民にとってそれは、「(民主主義的意味での)弔意の強制」になってしまいます。

 しかし、この「(民主主義的意味での)弔意の強制」もまた、立法ないし国会決議という民主主義的手続きによって解決できます。

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