信教の自由の制約は「特に」慎重にという言説への違和感~カルト規制の立法が急務
日本社会に巣くうカルトの問題を抜本的に解決する千載一遇のチャンスを逃すな
倉持麟太郎 弁護士(弁護士法人Next代表)
世界平和統一家庭連合(旧統一協会)とカルト規制の問題について、「政治と宗教」、政教分離への配慮、「信教の自由」という観点から、制約を課す場合には慎重にも慎重を期すべきといった言説が、相当程度の影響力をもって言論空間で大手を振っています。
はたして、これらの言説を額面通り受け入れて、当該問題を解決するための柔軟で多層的な語り方まで萎縮する必要があるのであるのでしょうか。
もちろん、信教の自由が保障されてきた歴史的経緯等に鑑みれば、その制約には当然、慎重になる必要はあります。しかし本来は、信教の自由に限らず、いかなる人権への制約に対しても慎重であるべきです。信教の自由を制約することに「特に」慎重であるべきという言説には、違和感を禁じ得ません。
はからずも表面化した旧統一協会問題を、「政治と宗教」や「信教の自由」を盾に、霧の向こうに消失させることで、日本社会に巣食ったカルトの問題を抜本的に解決する千載一遇のチャンスを不意にしてはいけないと思います。
さらに、今回の問題を、日本の知識人が形成する言論空間が、狭い狭いポジション、ないしエコーチェンバーの内部のみで、ご都合主義的・発散的に消費してきた権利(制約)論に関する言説を、今一度「たたき直す」という大きな議論とも向き合う機会にもするべきです。
以下、具体的に論じていきたいと思います。

世界平和統一家庭連合(旧統一教会)が入る建物=東京都渋谷区松濤1丁目
憲法が保障する三つの「信教の自由」
「信教の自由は“無制約”」といった感覚に源泉をもつ主張は、なぜ繰り出されるのでしょうか。おそらく、信教の自由のもつ多層的な内容を、極めて粗雑にひとくくりにしているからであろうと推察されます。
憲法20条1項は、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と規定しています。学説は、保障される信教の自由を、
①内心における信仰の自由、
②宗教的行為の自由(加持・祈祷行為、布教行為等)、
③宗教的結社の自由(宗教団体の創設、宗教法人登録等)、
に大別してきました(『注釈日本国憲法⑵』(駒村圭吾執筆)有斐閣、2021年)。
信教の自由が無制約のように語られる場合、①の内心の信仰の自由がイメージされているのではないのでしょうか。
これは、分かりやすく言えば、「踏み絵」のようなやり方で信仰告白を強制されたり、逆に信仰を強制されないという文脈であり、思想・良心の自由と同様、「内心にとどまる限りは無限に自由」ということに尽きます。
しかしながら、ひとたび信仰が外的な行為として表面化すれば、その時点で他者とのコンタクトが生まれるため、人権同士の衝突や公益的な利害関係との調整が必要となります。
ここで登場するのが、「公共の福祉」です。
「憲法上の人権とはいえ、絶対無制約ではない」
さて、法律家の登竜門である司法試験では、「憲法」の答案を書く際に必ず守るべき「型」が存在します。
ある法令や公権力による行為が、何らかの憲法上の人権を制限しているとしましょう。このとき、前提として、まず制限されている権利が憲法(たとえば表現の自由や信教の自由といった人権規定)で保障されていることを確認しつつ、「しかし、憲法上の人権とはいえ、絶対無制約ではない」と続きます。
絶対無制約ではないとして、ではどの範囲で制約されるかといえば、雑ぱくにいって「公共の福祉の範囲内」での制約ということになります(本稿では、公共の福祉でも制約できない人権という論点や、そもそも公共の福祉概念が有する問題性については立ち入る紙幅がないため、別稿に譲らせていただきます)。
ここでいう「公共の福祉」とは、教科書的には「人権相互の矛盾・衝突を調整する実質的衡平の原理」などと丸暗記させられます。法律業界にいない方々には、何のことやら?でしょう。
超訳すると、憲法上の人権に対して、法令や公権力の行使によって何らかの制約がなされた場合に、その制約の目的とその目的達成の手段の関連性などを審査し、当該制約が合憲であれば、公共の福祉に適っているということにしましょう、ということを言っているにすぎません。これは、信教の自由についてもあてはまる法原則です.
ちなみに、後述するオウム真理教に対する宗教法人法に基づく解散命令について、最高裁は「宗教上の行為の自由は、もとより最大限に尊重すべきものであるが、絶対無制限のものではなく…憲法20条1項に違背するものではない」と判示しています。
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