日本社会に巣くうカルトの問題を抜本的に解決する千載一遇のチャンスを逃すな
2022年10月26日
世界平和統一家庭連合(旧統一協会)とカルト規制の問題について、「政治と宗教」、政教分離への配慮、「信教の自由」という観点から、制約を課す場合には慎重にも慎重を期すべきといった言説が、相当程度の影響力をもって言論空間で大手を振っています。
はたして、これらの言説を額面通り受け入れて、当該問題を解決するための柔軟で多層的な語り方まで萎縮する必要があるのであるのでしょうか。
もちろん、信教の自由が保障されてきた歴史的経緯等に鑑みれば、その制約には当然、慎重になる必要はあります。しかし本来は、信教の自由に限らず、いかなる人権への制約に対しても慎重であるべきです。信教の自由を制約することに「特に」慎重であるべきという言説には、違和感を禁じ得ません。
はからずも表面化した旧統一協会問題を、「政治と宗教」や「信教の自由」を盾に、霧の向こうに消失させることで、日本社会に巣食ったカルトの問題を抜本的に解決する千載一遇のチャンスを不意にしてはいけないと思います。
さらに、今回の問題を、日本の知識人が形成する言論空間が、狭い狭いポジション、ないしエコーチェンバーの内部のみで、ご都合主義的・発散的に消費してきた権利(制約)論に関する言説を、今一度「たたき直す」という大きな議論とも向き合う機会にもするべきです。
以下、具体的に論じていきたいと思います。
「信教の自由は“無制約”」といった感覚に源泉をもつ主張は、なぜ繰り出されるのでしょうか。おそらく、信教の自由のもつ多層的な内容を、極めて粗雑にひとくくりにしているからであろうと推察されます。
憲法20条1項は、「信教の自由は、何人に対してもこれを保障する」と規定しています。学説は、保障される信教の自由を、
①内心における信仰の自由、
②宗教的行為の自由(加持・祈祷行為、布教行為等)、
③宗教的結社の自由(宗教団体の創設、宗教法人登録等)、
に大別してきました(『注釈日本国憲法⑵』(駒村圭吾執筆)有斐閣、2021年)。
信教の自由が無制約のように語られる場合、①の内心の信仰の自由がイメージされているのではないのでしょうか。
これは、分かりやすく言えば、「踏み絵」のようなやり方で信仰告白を強制されたり、逆に信仰を強制されないという文脈であり、思想・良心の自由と同様、「内心にとどまる限りは無限に自由」ということに尽きます。
しかしながら、ひとたび信仰が外的な行為として表面化すれば、その時点で他者とのコンタクトが生まれるため、人権同士の衝突や公益的な利害関係との調整が必要となります。
ここで登場するのが、「公共の福祉」です。
さて、法律家の登竜門である司法試験では、「憲法」の答案を書く際に必ず守るべき「型」が存在します。
ある法令や公権力による行為が、何らかの憲法上の人権を制限しているとしましょう。このとき、前提として、まず制限されている権利が憲法(たとえば表現の自由や信教の自由といった人権規定)で保障されていることを確認しつつ、「しかし、憲法上の人権とはいえ、絶対無制約ではない」と続きます。
絶対無制約ではないとして、ではどの範囲で制約されるかといえば、雑ぱくにいって「公共の福祉の範囲内」での制約ということになります(本稿では、公共の福祉でも制約できない人権という論点や、そもそも公共の福祉概念が有する問題性については立ち入る紙幅がないため、別稿に譲らせていただきます)。
ここでいう「公共の福祉」とは、教科書的には「人権相互の矛盾・衝突を調整する実質的衡平の原理」などと丸暗記させられます。法律業界にいない方々には、何のことやら?でしょう。
超訳すると、憲法上の人権に対して、法令や公権力の行使によって何らかの制約がなされた場合に、その制約の目的とその目的達成の手段の関連性などを審査し、当該制約が合憲であれば、公共の福祉に適っているということにしましょう、ということを言っているにすぎません。これは、信教の自由についてもあてはまる法原則です.
ちなみに、後述するオウム真理教に対する宗教法人法に基づく解散命令について、最高裁は「宗教上の行為の自由は、もとより最大限に尊重すべきものであるが、絶対無制限のものではなく…憲法20条1項に違背するものではない」と判示しています。
「公共の福祉」では、具体的にどのような形態で、我々の日常生活を調整しているのでしょうか。
一番わかりやすく具体化されているのが「法律」です。
他人の名誉やプライバシー侵害と表現の自由を調整すること(刑法、民法の名誉毀損)、▼医療行為に従事する者や法律家に一定の資格試験を課して職業選択の自由を制限すること(医師法、司法試験法)、▼選挙の公正のために戸別訪問(政治的言論の自由)を禁止すること(公職選挙法)、▼ウイルス蔓延時に感染拡大防止のために営業時間短縮命令によって営業の自由を制限すること(新型インフル特措法)等々、私たちは日々、法律によって、人権と人権の衝突や、公益と個々の人権行使の調整を受けています。
こうした調整において、人権への制限が広すぎ(制限する必要のない者まで対象になってしまう)たり、強すぎ(より権利制限的でない手段が存在するのに過剰に規制してしまう)たりすると、法律の適用にあたって違法・違法と判断される場合や、その法律自体が違憲と判断されることがあるのです。
調整におけるこの原理を、旧統一協会問題に端を発したカルト規制と信教の自由の問題にあてはめて整理してみましょう。
現在、カルト規制については「公共の福祉」のもと、いかなる調整が行われているのでしょう。
まず、「信教の自由」について、先述した、①内心における信仰の自由、②宗教的行為の自由、③宗教的結社の自由に対応して、それぞれいかなる形で、自由と自由、人権と公益の調整がなされているかを見ていきましょう。
①の内心における信仰の自由は絶対無制約ですから、公権力が法律等で信仰告白のようなことを強いれば(直接的制約)、ただちに違憲です。この文脈では、たとえ外部に発現した②の宗教的行為は規制対象であっても、行為の規制を通じて内心における信仰に制約が及ぶような場合(間接的制約)は、憲法によって規律されねばなりません。(と、この原稿を書いていた矢先に、立憲民主党の打越さく良議員が、国会質問で憲法上答弁責任を負う〈憲法63条〉山際大志郎・前経済再生大臣に対して信仰告白を迫るという、およそ信教の自由や議院内閣制を理解していない憲法上不適切な行為がありました。)
世俗的な義務等の間接的制約を通じて、実は特定の信仰を直接制約していないか、きめ細やかな審査が求められます。たとえば、信仰・教義に従い、剣道の授業を受講できない生徒の退学処分を違法とした、いわゆる「エホバの証人剣道受講拒否事件」(最小判平成8年3月8日)は、「信仰上の真しな理由」に基づいた外的行為の規制について、慎重な判断をしています。
次に、②の宗教的行為の自由に関する、公共の福祉の調整はいかにしてはかられているでしょうか。
宗教的行為といえども、外的な発現を伴う場合は、通常の自由権の行使同様、「絶対無制約」ではなく、適切な調節が求められます。
たとえば、加持・祈祷行為と称して病人の求めに応じて平癒行為=暴行を加えて死亡させてしまった事案では、当該行為は「憲法20条1項の信教の自由の保障の限界を逸脱したもの」として、信教の自由保障の埒外(らちがい)であるとされ、刑法によって処罰されました(最大判昭和38年5月15日)。
また、住居侵入罪に問われていた未成年の被疑者が逃げこんだ教会の牧師が、約1週間、教会において同被疑者を説得し出頭させた行為は、信教の自由の行使=正当業務行為として、犯人蔵匿罪は成立しないとされた例があります(神戸簡裁昭和50年2月20日)。
このように、宗教的行為の自由=信教の自由の行使として行った行為も、一般国法上の義務等と調整されるのです。
それでは、カルト的行為についてはどうでしょうか。
確認しておきたいのは、カルト規制についての一般的な法律は存在しないことです。そこで、何らかの問題が生じた場合には、▼消費者問題として処理する、▼悪質な場合は刑法等によって規律している、というのが現状の法体系です。
これまでカルトと戦い続けてこられた弁護団の方々や政府の検討会等で指摘されているとおり、現行法によるカルト規制では、消費者契約法、特定商取引法、刑法(詐欺罪等)などの個別の法律の該当部分をパッチワーク的につなげて対処しています。いわば「寄せ集め」での対応なので、当該法律の本来の守備範囲からもれた「エアポケット」が生まれてしまいます。
例えば、法外な値段で売りつけられた壺の売買契約を、消費者契約法に基づいて「取り消すことができる」という手段は、最低限必要ではありますが、当事者が(自覚的に)取消権を行使した個別的事案のみの対応であり、カルト的行為を行う集団を規律するものではなく、問題の抜本的解決にはなりません。
先ほど調整に際して制約が「広すぎ」「強すぎ」れば、違憲の問題が生ずると述べましたが。今回の旧統一協会を含めたカルト規制問題に関して言えば、権利を制約を課す規律が、むしろ「狭すぎ」「弱すぎ」ます。法令等による規律が「狭すぎ」「弱すぎ」だと、調整のエアポケットが生まれます。当事者によって調整しろということになり、下手をすれば、剥き出しの弱肉強食関係が表出します。
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