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主権者教育は、なぜいつも失敗するのか~「立派な国民主権の担い手」を目指すのはやめよう

私たちが「だれのせいにもできない」という当事者性を獲得するとき

岡田憲治

政権の迷走と傍観する主権者

 2012年暮れの安倍第二次政権誕生からはや約10年、首相さえ変われば強引な「右バネ」も弱まり、立憲主義的な政治運営、議会手続き、法の遵守が少しは回復するという慎ましき期待は消滅した。

 大半の人々が納得せぬ議会無視の追悼儀式の断行、国際法と平仄を合わせる改憲論議はなく、カルト団体の教義が見え隠れする珍妙案が、古びた特売セールの看板のように掲げられ、団体との不透明かつ不適切な関係は詳にされず、急激な円安と賃上げなきインフレの亢進を前に、人々の異議申し立ての声はか細い。

 安倍氏もおらず未来の地図もない路上で、岸田運転手のトラックは、栄光の「宏池会」のロゴも消え、車検工場行きの風情だ。後ろには小型車(野党)が数台いるが、常時中央線を左右にはみ出て蛇行する新古車もどきと擦り合いをし、先頭トラックを追い抜く気があるのかどうかも定かではなく、聞き飽きたクラクションを小さく鳴らすだけで、沿道の住民も虚な視線を送っている。

 これが、18歳投票者を生み出した2016年法改正から6年後、その間4度の国政選挙を経た、二人に一人しか投票に行かない、我々の政治の風景である。この国の決め事を最終的にする者はいったい誰なのか? それは本当に日々育まれているのか?

 日本国憲法の施行から75年、政治の経験値を高め、それを伝統や文化にまで成熟させる、かつての専制君主のように「頭をかち割る」のではなく、「頭数を揃えて」合意形成をする「最高意志決定権力」(主権:sovereignty)を担う者は、こんな風景の中にあって、これからもこれまで通りの教育によって、はたして政府と、その基盤たる社会を維持していけるのだろうか?

 2015年、翌年の法改正を前にして、全国の高校2、3年生に、「主権者教育」を行わねばならないという事態になった。そこで文科省の行政的対応として、主権者教育用「副読本」が作られた。その内容について某紙よりコメントを依頼された。同時に、現役高校教員やその他教育関係者が、直接間接私にアドヴァイスを求めてきた。

 それは「先生、“主権者教育”って一体何をやればいいのですか?」という、悲鳴かつため息のようなSOSだった。つまり新主権者誕生と同時に、教える側の彼ら自身が、ここに至るまで実質的にはまともな主権者教育を受けてこなかったことが、裏書きされてしまったのである。

内閣府が実施した「平成25年度 我が国と諸外国の若者の意識に関する調査」より、日本若者協議会が作成拡大内閣府が実施した「平成25年度 我が国と諸外国の若者の意識に関する調査」より、日本若者協議会が作成

 天を仰いだが、それでも私は彼らへの助け舟のつもりで論稿を書いた(「高校生有権者“の誕生:『主権者とは』悩み考えよ」『東京新聞』、2015年11月25日夕刊)。 主権者とは「失敗の覚悟をする者たちである」と主張したが、予想通り担当デスクの「面白いです」以外に、ほとんど反応はなかった。

 翌年春に、リベラル系月刊誌にも「啓蒙の時代は終わった」と書いたが(「一八歳は何を学ぶと『主権者』となるのか?」『世界 別冊no.881』、2016年4月)、右からも左からも、どこからも反応はなかった。「国民が主権者だろ? 以上」という「何を今さら」という山びこのようなものは聞こえた気がしたが、そうであるなら、やはりここでも繰り返し言わねばならない。

 「立派な主権者を目指すのは止めよう」と。

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筆者

岡田憲治

岡田憲治(おかだ・けんじ) 

1962年東京生まれ。早稲田大学大学院政治学研究科博士課程修了。専修大学法学部教授。専攻は政治学。とりわけデモクラシーの社会的諸条件に関心を持ち、言語、地域自治、スポーツ文化などにも言及している。最新刊は『なぜリベラルは敗け続けるのか』(集英社インターナショナル)、『ええ、政治ですが、それが何か?』(明石書店)、『働く大人の教養課程』(実務教育出版)、『言葉がたりないとサルになる』(亜紀書房)等。フェイスブックやインターネット・ラジオ、各種媒体にて論考・発言を多数発信中。

※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです

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