主権者教育は、なぜいつも失敗するのか~「立派な国民主権の担い手」を目指すのはやめよう
私たちが「だれのせいにもできない」という当事者性を獲得するとき
岡田憲治
「社会契約論」というフィクション
どれだけ天を仰ごうと、もし主権者教育をこれまでと異なるやり方でやらねばならないなら、 やはり“今さら聞けない”「シュケンシャって……何?」という問いを避けて通れない。ビッグ・ワードこそ、その大きさに曖昧に寄りかかって分節化がなされないのは、言論における宿命だからだ。その中でも「主権者」は、とびきりのビッグ・ワードである。
主権とは、「他の追従を許さない、各々の私的利益関心の闘争を停止させる最高意志」であり、これがあってこそ「決定に従え」と命ずる権力が機能する。17世紀に「イングランド王に主権あり」と宣明したT・ホッブスも、18世紀に市民階級の利益調停のための法を作るのは「議会主権である」と擁護したJ・ロックも、己の利益を譲渡してワンランク上の契約「意志」で社会を作れと言ったJ・J・ルソーも、主張の根幹は同じだ。
要するに、「伝統(昔からのやり方)」や「暴力(言うこと聞かなきゃ殺す)」に依拠せず、バラバラな政治社会を統合するためには、「最後に沈黙を強いる権力」が必要と彼らは考え、それを主権と呼んだのである。そして(ここが肝要だが)、それが正統かつ正当であるのは「約束(契約と合意)に基づくからだ」と根拠づけた。
裏を返せば、「約束を破ったら主権はご破算です」という、前例のあまりない条件で至高の権力は緊張を強いられるものとなった。高校の教科書に載っている「社会契約論」のエッセンスだ。日本国憲法の「国民主権」の源である。
ところが
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