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3・11直後の統一地方選とスクール生の様々な挑戦~シベリア特措法の紆余曲折

「女性のための政治スクール」30年の歩みから考えるジェンダーと政治【13】

円より子 元参議院議員、女性のための政治スクール校長

 元参院議員の円より子さんが1993年に「女性のための政治スクール」を立ち上げてから来春で30年。多くのスクール生が議員になり、“男の社会”の政治や社会を変えようと各地で奮闘してきました。平成から令和にかけて、「女性」をはじめとする多様な視点は政治にどれだけ反映されるようになったのか。スクールを主宰する円さんが、自らの政治人生、スクール生の活動などをもとに考える「論座」の連載「ジェンダーと政治~円より子と女性のための政治スクールの30年」。今回はその第13話です。(論座編集部)
※「連載・ジェンダーと政治~円より子と女性のための政治スクールの30年」の記事は「ここ」からお読みいただけます。

千鳥ヶ淵墓苑で献花する筆者=2011年8月23日(筆者提供)

 20年近く、8月23日は千鳥ヶ淵の墓苑にお参りをしてきたが、今夏は闘病中で行けなかった。原因も治療法もわからずお手上げといわれた難病から何とか生還したものの、自宅療養中だったからだ。

 なぜ、23日に千鳥ケ淵なのか。

60万人近い人がシベリアに強制連行された

 アメリカと戦争をしたことも知らない世代が増えているらしい。8月6日、9日と広島・長崎に原爆が投下された日、私は入院中の病室で黙祷を捧げたが、その日すら知らない若者たちがいる。いわんや8月23日おや。いや、この日が何の日だったか、60代、70代の世代ですら知らないかもしれない。

 1945年8月15日、日本はポツダム宣言を受諾。昭和天皇は「耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…」と戦争を終らせることを宣言した。しかし、ソ連のスターリンはそこから日本に攻めこむ。

 日本とソ連は1941年4月13日に、日ソ中立条約を締結していた。ところが1945年4月、ソ連は本条約破棄を日本に通告。8月9日、対日本に参戦。9月2日、日本は降伏文書に署名し、第2次世界大戦は停戦するまでの間に満州や朝鮮・モンゴルにいた日本陸軍・民間人をシベリアに強制連行し、酷寒の地で何年も強制労働をさせた。その密命をスターリンが出したのが8月23日であった。

 57万5000人ともいわれる人たちが強制連行され、その1割の人々が異国の過酷な環境下で亡くなった。その人々の遺骨が千鳥ヶ淵墓苑にあり、8月23日に慰霊式典があるのだ。

 シベリアに抑留された人たちと私が深く関わったのは、戦後強制抑留者に係る問題に関する特別措置法、通称シベリア特措法を成立させた時だった。時に2010年の夏。私が参院選で4期目に挑戦し、落選する直前であった。

議員立法でシベリア特措法案を作成

 シベリアへの強制連行については、1993年にエリツィン大統領が訪日した際、「非人間的な行為」として謝罪の意を表した。当時の総理は日本新党代表の細川護熙さん。彼の叔父 近衛文隆さん(近衛文麿長男)はシベリアに抑留され、彼の地で亡くなり、遺骨もどこにあるかわからない。

 生き残った人たちは集団帰国し、ソ連政府に未払いの労働賃金を請求しようとした。しかし、昭和31(1956)年の日ソ共同宣言で、日ソ両国は戦争に関する賠償請求を互いに放棄。未払いの労働賃金受けとりが不可能となっていた。

 そこで彼らは日本政府に請求する訴訟をおこす。最高裁で敗訴したため、政府は平和記念事業特別基金を創設したり、抑留者に記念品を送るなどしてきたが、抑留の当事者としては、戦争だったのだからしかたがないという受認論は受け入れ難く、未払い労働賃金の補償、遺骨の収集、死亡者の特定をするとともに、二度とこういうことが起きないよう教育もすべきだと訴えた。

 それを受けて動いたのが、民主党の参議院議員である谷博之さん、那谷屋正義さん、シベリア抑留者支援・記録センターの有光健さん、そして私だった。法制局の協力で抑留者たちの主張を盛り込んだシベリア特措法案を議員立法でつくり、成立を期してシベリア議連を立ち上げて私が会長になった。

 2009年3月24日に記者会見をしたが、なかなか法案審議までいかない。当時は自公連立政権。与党が首をたてにふらないのだ。

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民主党に政権交代はしたものの

 2009年秋、民主党が政権交代をはたし、シベリア特措法に理解を示していた鳩山由紀夫さんが総理となった。「これで60年近い夢が叶う。天国にいる仲間たちも喜んでくれるだろう」と抑留当事者の人たちの喜びは半端でなかった。

 ところが、「原資がない」という、基金の250億を一般会計に入れたいから、未払い賃金にあてられないという話を谷・那谷屋両議員が聞いてきた。言っているのは菅直人財務大臣。これには当事者の90歳前後のおじいさんたちの怒ること怒ること。

 「民主党がこんな情けない党だったなんて……。政権をとれば、自民党時代と変ると思っていたのが浅はかだった」

 交渉の末、財源は確保したが、次は「13条を削除しろ」だった。

官邸前のハンストを決意した梅雨の寒い日

 その年(2010年)の梅雨は毎日、寒い日が続いていた。総務省から13条削除の伝言を聞いた日も、冷たい雨がしとしと降っていた。

 13条は、遺骨の収集や、抑留の全容解明、啓蒙活動について記されている。私たちは、未払い賃金を補償して強制労働させられた人たちに報い、国が謝罪することはもちろん大事だと思っていたが、こういうことが二度と政府によって起こされないように、啓蒙活動をすることが重要であり、この13条は法案の根幹だと考えていたから、削除に易々と応じるわけにはいかなかった。

 通常国会の会期末が迫っている。参議院内閣委員会で委員長提案できる日は限られている。この機を逃すと、秋の臨時国会か、下手をすると来年までのばされるかもしれない。私以外の議員たちはみな、削除もやむなしと言い出した。

 私と抑留当事者たちは何としても13条を残したいと頭を捻った。

 「官邸前でハンストでもすれば考え直すかしらね」と私がつぶやくと、「それだよ、円さん」と。「今年の梅雨は冷たい。ハンストなんてすると死んじゃうわよ」。「シベリアの酷寒の地から生還した私たちだよ、こんなの寒くもなんともない」。「わかった、官邸に電話する」

 私は平野博文官房長官に連絡をとった。

「13条をそのままにこの法案を通してくれないなら、今日から官邸前でハンストをします。みな90歳前後の高齢者です。命の保証はできかねます」というと、「待ってくれ。今すぐ松井官房副長官を行かせるから」と平野さん。すぐに松井孝治さんがすっ飛んできた。

 「総務省の反対もおさえました。13条は削除せず、このまま法案を成立させられます」

 6月16日、参議院での成立を経て衆院本会議でシベリア特措法は成立した。

総理官邸で菅直人総理(中央右側)からシベリア特措法成立のお祝いの言葉を受ける抑留当事者の方々=2010年12月(筆者提供)

2010年参院選で落選、4期目ならず

 直後の7月の参院選で私は4期目の改選を迎える。しかし、シベリア抑留やBC級戦犯のことに尽力。国会議員になる前からボランティアで活動してきた離死別の女性たちの貧困問題を解決するために「母と子支援議員連盟」を立ち上げ、就労支援のプロジェクトを全国的につくるための予算獲得等に奔走していたから、選挙活動どころではなかった。

 冷たい梅雨から一転、猛暑が襲った選挙期間中、「円さんを落とすな」と、90代の抑留当事者たちが入れかわり立ち代わり新宿まで応援に来てくれたが、票にはつながらなかった。街宣車の前を通り過ぎる若者たちに、シベリアの話は届かないようだった。

 落選の翌日から、選対事務所の撤収だけでなく、議員会館の事務所や宿舎の引っこしが始まる。秘書の人たちの再就職先も考えなくてはいけない。心配して大勢の人がかけつけてくれ、練馬や渋谷の区長選に出てほしいという話もきた。

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2011年3月11日

 2011年3月11日。その日の朝、私は主催する政策勉強会を竹橋のKKRホテルで開催していた。各紙の朝刊では菅直人総理への外国人の献金問題が報じられ、テレビ入りの決算委員会があるから、そこで追及されるんだろうなと心配になり、勉強会が終るとすぐに事務所に戻ってテレビをつけた。

 午後2時14分、テレビに映る委員会室のシャンデリアが大きく揺れた。菅総理らが天井を見上げる。私の事務所にも大きな揺れがきた。机の上の大きな花びんやテレビ、時計を床におき、スタッフたちに「エレベーターホールに」と声をかけた。柱がいくつもあり、狭いし倒れてくるものがないので安全だと思ったからだ。ホールからの非常階段のドアをあけて固定した。エレベーターがとまっても階段で下に行けばいい。

 強い揺れがおさまり、部屋に戻ると本が床に散乱している。再び強いたて揺れがきたので、6階から2軒隣の1階のカフェに全員で移動。隣のコンビニではミネラルウォーター、乾きものの食料などを買った。地下鉄もJRもとまっているという。近辺のホテルに電話したがすでに満杯。家が遠いスタッフたちを連れて、うちに帰ることにした。

 車道は車でいっぱい、歩道も人でうめつくされていた。サイレンがけたたましく鳴る千代田区の道を不安を抱きながら歩いた。その夜はテレビから目が離せなかった。

 それから1カ月後に統一地方選があった。選挙どころではない東北地域では、延期もあったが、他の地域では粛々と選挙が行なわれた。

無料の英語教室から始めて~青木かのさん

 大震災から8日後、3月19日(土)は、「女性のための政治スクール」16期の修了式の日だったが、もちろん5月末まで修了式は延期。私が講師予定だった地方や東京での講演なども、すべてキャンセルか延期となった。

 この4月の統一地方選で初当選を果たしたスクール生が、現在3期目の東京都中央区議の青木かのさんだ。

 福島の放送局でアナウンサーをしていた青木さんは、夫の転勤で沖縄へ。1歳の娘がいたが、アナウンサーの仕事を続けたいと某放送局のオーディションを受けて合格。明日からでも来て欲しいと言われて、子どもをどうしようと思っていると、すぐさま提示された近くの保育園に入ることができた。「沖縄って、子育てにサイコー」と思ったと言う。

 再び、夫の転勤で今度は東京へ。中央区の、もんじゃ焼きで有名な月島に暮らすことになる。フリーのアナウンサーをしながら、通訳学校に通っていたが、ある時、娘を近くの公立中学に行かせると言うと、親しかったママ友たちから、それは親の義務を放棄していると非難される。塾の送迎をやり、私学に行かせないと、子どもは不幸。公立なんて駄目よ、と言うのだ。

 その人たちの考えを否定はしない。確かに、小さい時から出来るだけ良い学校に行かせて、良い人生を送らせたいという親心はわかる。しかし、そういう親たちの考えが教育格差を作っているのではないか、公教育を充実させ、幼い頃からの塾通いや私学偏重をなくしたい。

 青木かのさんは教育の勉強をしているうちに、政治にたどりついた。そして、私の政治スクールに通うようになり、自分と同じような普通の主婦たちが政治の世界にとびこんでいくのを目の当たりにする。

 1年後の中央区議選に焦点を定め、まずは区の施設を借りて、英会話教室を始めた。もちろん無料だ。生徒は会社帰りの男女で、週2回。50人が集まった。手作りのチラシを中央区内の3つの駅で、帰宅の人たちに毎夕方立って、手渡して集めた生徒たちだった。今もそれは、区議会報告を渡す形で続いている。

 無料の英会話教室を週に2回続けただけではない。1年間、中央区内の駅で毎朝、駅立ちをやった。月島には7つの出口、勝どきには5つの出口がある。毎朝7時半から9時まで12カ所の出口を順番に回り、通勤客に向けて「おはようございます」とあいさつし、時には中央区の課題、公教育の現状を訴えてチラシを配ったのだ。

 震災後と統一地方選の1週間は、選挙活動をかなり控えざるをえなかったが、それまでの活動の蓄積が、無名の新人だったにもかかわらず、当選につながったのだろう。みんなの党公認で区議選に出ることが新聞に出ると、英会話教室は大騒ぎになったが、生徒たちのほとんど全員が選挙を応援してくれたという。

英語教室で教える青木かのさん(筆者提供)

みんなの党の江田憲司さんの話に感動

 青木かのさんが政治スクールに通った頃、私は民主党に属していたが、スクールでは超党派で講師を呼び、どの政党から出馬してもいいと言ってきた。志高く、人々の生活に貢献できる議員が増えればいいからだ。みんなの党の江田憲司さんの話に感動した青木さんは、江田さんのところから出たいと、私に“仁義を切って”、みんなの党から立候補した。

 みんなの党は2009年8月、渡辺喜美さんや江田憲司さんらが結成した党で、2010年2月の毎日新聞の鳩山内閣発足後初の世論調査によれば、みんなの党の支持率は6%で公明党支持の5%を上回っている。当時、みんなの党には勢いがあり、江田さんの人気も高かった。青木さんは勝機があるとみたのだ。

 中央区は人口がどんどん増えている。オリンピックの選手村跡のマンションへの入居が始まると、待機児童問題が再燃するかもしれない。放課後の学童問題も待ったなしで、3期目の青木さんの区議としての役割も大きい。こうしたい、ああしたいという思い、理想を掲げて立ち向かうには、選挙の時だけでなく、仲間や支援者を多く持ち、力をつけることが必要で、それが投票してくれた人々への恩返しだと考えている。

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堂本知事に共鳴して政治の道に~海津にいなさん

自転車専用列車BBBase (房総バイシクルベースの略)を運行するなど、市民ボランティアと観光地つくりに取り組んだ海津にいなさん(筆者提供)

 この震災の年の統一地方選で、同じくみんなの党公認で千葉県議選に挑戦したのは海津にいなさんだ。2003年に我孫子市の市議になっていた海津さんは、3期目を迎える直前、党勢拡大のため全国で候補者を探していたみんなの党に請われて県議選に立候補した。

 海津さんは、かねてから堂本暁子知事の男女共同参画の動きに注目し、知事を支えて県政にもっと男女共同参画を根づかせたいと思っていた。

 01年に千葉県初の女性知事となった堂本さんは、性差の医療(性差の違いを明確にしたうえで、研究データに基づく医療が必要だという考え方)や環境問題をはじめとするさまざまな課題に取り組み、それは海津さんのやりたい方向と一致していた。しかし、01年頃から国政では安倍晋三さんや山谷えり子さんらの議員や日本会議のメンバーよるジェンダーフリーへの強烈なバッシングが繰り広げられていて、堂本さんにも影響が及ぶ。海津さんは県議となってバッシングをくいとめたかったのだ。

 しかし、県議選はあえなく落選。「震災の直後で、それはきつかった。若いウグイスの女性に外気をあびさせてどうなると思うんだ、と怒られる。旗を4~5本立てても非難され、1本にしろといわれる。大勢の人が震災で亡くなられ、原発事故も収束していない中ではしかたがないとはいえ、選挙になりませんでした」

 もともとは国際交流等の活動をやっていて、世界中に友人・知人が多い。そういう活動をしていくつもりだったのが、「女性のための政治スクール」に通い、2003年に我孫子市議に挑戦した。その時も堂本知事の誕生が引き金だった。

女性の視点で教育に何が必要か考える

 現職の女性市議が引退するので、かわりに誰か女性を出そうという時、まわりまわって海津さんのところに話がきた。1年考えた。

 選挙にはお金がかかるといわれた。さまざまな活動をしていたが、経済的にはほぼ専業主婦。夫は出馬に反対。供託金の30万は主婦にとっては大金。ただ50歳で子どもたちも成人している。落選しても、自分のへそくり30万がなくなるだけ。やろうと決めた。お金を気にしたのは、祖父が村会議員で財産を失ったことを聞かされていたからだ。夫も「そこまで決意しているなら」と手伝ってくれた。

 2003年から2期、市議をつとめた。県議選への立候補・落選による4年のブランクのあと、15年11月、再び我孫子市議となり、現在4期目、副議長をつとめる。

 2歳違いの弟がいて、「女の子は早く結婚を」と言われて育った。留学したかったが、そんなことを言える雰囲気の家庭ではなかった。

 「男女の育てられ方に大きな隔りがあることを感じて育ってきたからこそ、女性の視点で、町づくりも教育も何が必要か考えて活動しています」という彼女だ。

「勝手にやらせてもらいます」と選挙に~野村諒子さん

 2011年の統一地方選で三島市議に初当選。副議長や総務委員長を歴任し、現在3期目で議会運営委員長をつとめているのは野村諒子さんだ。

女性議員を増やす会、なないろの風の会員たちと。左端が野村諒子さん(筆者提供)

 4期をつとめた女性が、やめる1年ほど前に彼女に声をかけたが、「政治は自分には関係のない遠い世界」と思っていた。だが、県の施設を運営するNPOの事務局長をしていて、3万人の利用者がいたのに、能力のない団体が請け負うことになり、野村さんらのNPOがはずされたことで考えが変わった。署名活動をして持っていったが、担当から上には渡してももらえず、地域の声・利用者の声を反映させるには、議会への働きかけ、政治への働きかけが必要だと思い知った。

 夫は転勤族。家や地域は何度も変わった。25年間専業主婦だった。転勤は三島が最後となり、三島に住んで早や35年になる。その三島で、60歳を前に転身を決意。夫は選挙大嫌い人間で、「勝手にどうぞ」と言ったので「勝手にやらせてもらいます」

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