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混迷深める岸田政権と自民党の人材枯渇~なぜ代わりがいないのか(下)

群雄が割拠した歴代の自民党政権。人材はいつから育たなくなったのか

星浩 政治ジャーナリスト

 「混迷深める岸田政権と自民党の人材枯渇 なぜ代わりがいないのか(上)」では、新型コロナウイルス感染対策や対中国外交、経済の再生、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)の問題など、政権が抱える課題が難しさを増す反面で、それらを解決しなくてはならない自民党の人材が枯渇しているところに、岸田文雄政権の混迷の根っこがあると指摘した。

 そもそも、歴代の自民党政権は時代の課題と直面した時、どんな人材が活躍し、課題を解決していったのか。

閣議に臨む岸田文雄首相(左から2人目)。=2022年10月21日、首相官邸

日本の針路を決める政治に多くの人材が集結

 自民党が結党されたのは1955年。対外的には米ソ冷戦構造の中で米国との同盟関係を強化すること、国内的には戦争の傷跡を癒して経済復興を進めることが最優先だった。

 外交官OBで対米関係を取り仕切ってきた吉田茂氏の下に官僚出身者が結集した。佐藤栄作(運輸省)、池田勇人(大蔵省)、前尾繁三郎(同)各氏らである。党人派の田中角栄氏もこのグループに属した。一方で、岸信介氏(商工省)は吉田氏に対抗する右派勢力を集めた。

 1960年の日米安全保障条約の改定では、当時の岸首相の強硬路線が批判を浴び、退陣を余儀なくされた。代わって首相に就いた池田氏は「寛容と忍耐」「所得倍増」を掲げて人気を博した。タカ派からハト派へ。自民党内のペースチェンジが成功した。

 佐藤氏の長期政権が幕を閉じた1972年には、「決断と実行」を訴えた田中氏が首相に就任。日中国交回復を実現した。田中氏が金権批判で退陣すると、後継には「クリーン」を標榜した三木武夫氏が就いた。これもまた、ペースチェンジだった。

 70年代には、岸氏直系の福田赳夫氏と、池田氏の側近だった大平正芳氏との対立・抗争が続いた。80年代には、「風見鶏」と呼ばれた中曽根康弘氏が5年に及ぶ長期政権を維持した。いずれの首相も戦争の苦い体験をもとに、独自の理念・哲学を持ち、政策遂行に執念を燃やした。

 終戦から数十年。まさしく日本の存亡がかかった時期に、日本の針路を決める政治に多くの人材が集まった。これは「時代の要請」だったといえる。

初閣議を終えて記念撮影する第2次田中内閣の閣僚たち。前列には左から中曽根康弘通産相、三木武夫副総理兼環境庁長官、田中角栄首相、福田赳夫行政管理庁長官、大平正芳外相と「三角大福中」がずらりと並んだ=1972年12月22日、首相官邸

派閥の勢力拡大で党内が切磋琢磨

 「三角大福中」から「安竹宮」と呼ばれた安倍晋太郎、竹下登、宮澤喜一各氏の時代になっても、それぞれの派閥で中堅・若手が台頭。政策論議は活発に繰り広げられた。中選挙区制の下で、各派閥が勢力拡大を進めたことも、党内の切磋琢磨につながった。

 一方で、中選挙区制は政治とカネをめぐるスキャンダルの温床でもあった。各派閥が巨額の資金集めに走り、リクルート事件や東京佐川事件などが次々と明るみに出た。政治改革のうねりが強まり、1994年、小選挙区制導入を柱とする関連法が成立した。

 その過程で自民党は分裂。政治改革を訴えた小沢一郎、羽田孜、石破茂、岡田克也、武村正義各氏らが党を離れた。政局は混乱したが、多くの政治家が政治のあるべき姿を真剣に考え、議論を重ねたことは日本政治にとって貴重な経験だった。

新春ニューリーダー座談会に出席した左から安倍晋太郎外相、宮沢喜一総務会長、竹下登蔵相=1985年12月16日 、東京・紀尾井町のホテルニューオータニで

「混迷深める岸田政権と自民党の人材枯渇~なぜ代わりがいないのか(上)」は「こちら」からお読みいただけます。

1996年以降、政治の人材に変化

 自民党に残ったYKK(山崎拓、加藤紘一、小泉純一郎各氏)を含め、このあたりまでは、与野党とも多士済々だった。ところが、1996年から小選挙区制での総選挙が始まって以降、政治の人材にも変化が出てくる。

 人材が自民党と民主党などの野党に分かれた。小選挙区では投票総数の半数近くを獲得しないと当選できないので、主張は八方美人的になった。外交・安全保障など「票にならない」活動は敬遠された。選挙の公認や資金の差配を一手に握る党総裁・幹事長などの執行部に逆らうことは控えようという傾向が強まる。

 小泉氏は2001年に首相・総裁に就くと、小泉流改革に反対する議員たちを「抵抗勢力」と呼び、党役員や閣僚から排除。郵政民営化をめぐる衆院の解散・総選挙では、民営化反対の候補者に「刺客」と呼ばれた対立候補を送り込んだ。

 当時、自民党の政策づくりを統括していた与謝野馨政調会長は「郵政民営化は小さな政策。財政再建や社会保障見直しなど大きな改革に手をつけなければならない」と主張していたが、小泉首相は郵政民営化にこだわり、「大きな改革」は進まなかった。活発な政策論議を通じて人材が育つことはなかった。

郵政民営化法案が参院で否決されたのを受け、衆議院を解散。記者会見する小泉純一郎首相=2005年8月8日、首相官邸で

新たなリーダーが育たなかった安倍・菅政権時代

 その後、2009年に民主党政権が発足、自民党は野党に転落した。3年間の野党暮らしは自民党にとって「悪夢」だった。12年に安倍晋三総裁を擁して政権に復帰した自民党には「野党転落恐怖症」が染みついていた。

 金融緩和という名で一種のばらまき政策を続けてでも、景気を好転させ、政権を維持することが至上命題になった。それがアベノミクスの原点となった。「安倍一強」下、安倍氏に対抗するリーダーは現れず、自民党内の政策論議も深まらなかった。

 安倍氏を継いだ菅義偉首相は、河野太郎氏をワクチン担当相に起用するなど次世代のリーダー育成に乗り出すかのように見えたが、コロナ感染の拡大で政権は1年で行き詰まった。

 「強権的」と言われた安倍・菅政権に代わって登場した岸田首相は、多様な意見を「聞く力」をアピール。岸田氏は池田氏が創設した宏池会の出身でもあることから、岸政権から池田政権に交代した時のような「ペースチェンジ」という見方もあった。

 だが、実際には金融緩和は継続、森友学園問題の再調査は行われないなど、安倍・菅政権の基本路線は引き継がれた。自民党役員や閣僚の人事でも、自民党内の中堅・若手の思い切った抜擢はなく、岸田政権の独自性は発揮されなかった。

首相官邸を出る際に一緒になり、談笑する安倍晋三首相(右)と菅義偉官房長官=2015年8月10日

岸田政権で進行する三つの危機

 岸田政権を取り巻く情勢は厳しい。

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