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語られざるフリーメイソンと戦後日本~実を結ばなかった旧皇族へのアプローチ

旧皇族・伏見博明氏の証言と『昭和天皇拝謁記』から語られざる歴史を紐解く

小宮京 青山学院大学文学部教授

 今般、筆者は『語られざる占領下日本 公職追放から「保守本流」へ』(NHK出版、2022年10月25日発売)を刊行した。これまで『論座』に連載してきたフリーメイソンの歴史など、占領下の日本については、当事者たちがあえて語らなかったことも多い。そうした状況を打破するために、関係者へのインタビューや資料を用いて、広島カープの創設の経緯や、三木武夫や田中角栄に注目して、占領下の知られざる歴史を描いた。

 本の第三章ではフリーメイソンについて扱っている。それを踏まえ、本稿では旧皇族とフリーメイソンという、これまで語られなかった歴史を紐解きたい。

『語られざる占領下日本 公職追放から「保守本流」へ』(NHK出版)

日本のフリーメイソンの裏面史

 「フリーメイソンに誘われたのではないですか?」

 あなたは対面している相手に、こんな質問をしたことがあるだろうか。筆者はある。

 これまで「論座」に幾度か書いてきたように、筆者はフリーメイソンに強い関心を持っている。

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 その歴史を調べる中で、フリーメイソンと接点のある方と話す機会も増えた。

 えてして起こりがちだが、歴史は、起きたこと、実現したことだけが残ってしまう。だが、実現しなかったこと、実現しそうになったがうまくいなかったことも、歴史の面白さに他ならない。

 そこで、今回は、もう一つのフリーメイソンの歴史、実現しなかった、旧皇族へのフリーメイソンへのアプローチを紹介したい。

 最初に断っておくが、いずれも筆者らによるインタビューによって明らかになった事実であるため、フリーメイソン関係の書物などで、これまで紹介されたことはない。

昭和天皇や旧皇族・旧王族にアプローチ

 昭和天皇にフリーメイソンがアプローチしたことは有名である。いわゆる「昭和天皇のフリーメイソン化計画」である。

 フリーメイソンの公式見解では、昭和天皇が興味を示したとされるが、実際はどうなのか。新出史料『昭和天皇拝謁記――初代宮内庁長官田島道治の記録 第1巻』(岩波書店、2021年)を用いながら論じた「フリーメイソンに昭和天皇は興味を抱いたのか?」でも触れたように、皇室関係の著名人としては、東久邇稔彦元首相や、李王家の李垠がフリーメイソンに入会していた。

 このように、旧皇族や旧王族にもアプローチしていたことは良く知られている。だが、フリーメイソンの勧誘が成功せず、入会しなかった事例は、昭和天皇ぐらいしか知られていなかった。

Mariusz Matuszewski/shutterstock.com

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伏見博明氏が証言

 フリーメイソンからアプローチされたことを証言したのは、伏見博明氏である(以下、敬称略)。1947年に皇籍離脱するまでは「伏見宮博明王」という名前であった。

 筆者を含むチームが、伏見に聞き取りを行い、2022年初頭、伏見博明著、古川江里子・小宮京編『旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて 伏見博明オーラルヒストリー』(中央公論新社、2022年1月)として刊行した。その証言の一部や、舞台裏については、かつて『論座』に書いた論考を参照されたい(「旧皇族の伏見宮家第24代当主・伏見博明氏が語った類いまれな歴史の証言」 )。

 簡単に紹介すると、伏見宮家は、旧皇族の「宗家」「本家」とされる、いわば旧宮家の筆頭格に当たる家である。1946年に祖父の伏見宮博恭王が亡くなると、博明は第24代当主となった。その後、1947年に旧皇族らが皇籍離脱する。このとき皇籍離脱した旧11宮家の当主のうち、存命なのは伏見ただ一人である。

 こうして「自由」になった伏見は、1950年3月に高校を卒業した。高校在学中からアメリカの大学に留学しようと考えていたため、ネイティブから英語を習ったりするなど、熱心に学んでいた。例えば、1946年の天皇の「人間宣言」の起草に関与した、ブライスにも習ったという。

 とはいえ、当時は占領下であり、日本の外へ出ることが難しい状況であった。日本の外交権は停止されており、GHQの許可がなければ、出国できないからである。外国へ留学する機会もごく限られていた。ちなみに、小田実の『何でも見てやろう』がベストセラーとなるのは約10年後の1961年のことである。

 こうした状況下で助け舟を出してくれたのが、GHQのトーマス・フィッシャーである。フィッシャーを紹介してくれたのは、三島通陽元子爵であった。三島通陽の祖父は、かの有名な三島通庸である。2019年の大河ドラマ「いだてん~東京オリムピック噺~」に登場する三島弥彦は、通陽の叔父にあたる(「星野源演じる「いだてん」の平沢和重の数奇な人生」)。 

伏見博明さん=2022年6月8日、東京都千代田区紀尾井町

三島通陽元子爵で想起したもの

 伏見への聞き取りは、まず時系列で人生を語ってもらい、その後に不明な点や追加質問を重ねる形で行った。

 伏見の口から「三島通陽」の名前が出た時に、筆者が即座に想起したのは、フリーメイソンとの関係であった。筆者の調査では、三島は日本のフリーメイソン史で大きな役割を果たした人物だと考えられたからである。

 参議院議員を務めた三島は、同僚議員を中心に、フリーメイソンへの入会を勧誘したキーパーソンだった。のちに参議院議長を務めた河井弥八も、三島に勧誘された一人である(「日本のフリーメイソンのこと知ってますか?(上)」)。

 その三島の名前が出てきたからといって、いきなり「あなたはフリーメイソンに誘われましたか?」とストレートに質問をぶつけるのは憚(ばはか)られた。この時は、三島周辺の話を少し質問しただけで終わった。

 次の機会に、三島がフリーメイソンと関係があることを話して、フリーメイソンについての質問を重ねたところ、詳しい回答が得られた。ちょうど『昭和天皇拝謁記』が刊行されていたタイミングだったのが幸いした。同書に伏見に関する記述が存在したため、それをもとに質問することが出来たからである。

 伏見の回答は、ぜひ『旧皇族の宗家・伏見宮家に生まれて』の本文を確認して欲しいが、本稿では関係する部分だけを紹介する。

失敗した入会工作

 伏見の回答を要約すると、外国への出国が厳しく制限される中、フリーメイソンの関係者が、アメリカの大学の受け入れ許可や、留学許可をとってくれた。それもあり、帰国した時に、フリーメイソンに入会を誘われたものの断った、という内容であった。

 伏見らの留学に際し、フリーメイソンが関わったことは、前述した『昭和天皇拝謁記』に明記されている。1950年7月24日の昭和天皇と田島宮内庁長官のやり取りに「李王、伏見御招きの由に付き、Fisher はRivistoと関係あり、Masonによる洋行費のこと申上ぐ」との記述が存在する。ここに出てくる「伏見」は伏見博明のことである。他の李王やリヴィストに関しては、別稿を参照されたい(「フリーメイソンに昭和天皇は本当に興味を抱いたのか?」)。

 このなかで「Masonによる洋行費」、つまりフリーメイソンが留学費用を用立てたことに言及していることが分かる。伏見によれば、留学費用の全部ではなく一部であったという。つまり、伏見の留学にフリーメイソンが関わっていたことは紛れもない事実と考えられよう。

 しかし、フリーメイソンの伏見へのアプローチは失敗した。

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