「女性のための政治スクール」30年の歩みから考えるジェンダーと政治【16】
2022年11月20日
元参院議員の円より子さんが1993年に「女性のための政治スクール」を立ち上げてから来春で30年。多くのスクール生が議員になり、“男の社会”の政治や社会を変えようと各地で奮闘してきました。平成から令和にかけて、「女性」をはじめとする多様な視点は政治にどれだけ反映されるようになったのか。スクールを主宰する円さんが、自らの政治人生、スクール生の活動などをもとに考える「論座」の連載「ジェンダーと政治~円より子と女性のための政治スクールの30年」。今回はその第16話です。(論座編集部)
※「連載・ジェンダーと政治~円より子と女性のための政治スクールの30年」の記事は「ここ」からお読みいただけます。
2011年8月30日、民主党政権“2代目”の菅直人内閣が総辞職し、9月2日に野田佳彦内閣が正式に発足した。
6月某日、私は野田さんを連れて、目白の永青文庫に細川護熙元総理を訪ねた。野田さんは細川さんとの9年ぶりの会合に緊張していた。2002年夏、野田さんは初めて民主党代表選に出ることになり、細川さんに会いたいと言ってきた。
細川夫妻と私はちょうど軽井沢にいて、一緒に野田さんの到着を待っていたが、数時間くらい遅れるという。夕食を終え、二次会の店に行き、夜の10時まで待ったが、野田さんは来なかった。それ以来だったから、野田さんが緊張するのも無理はなかった。
「静かなところですね」「ええ、狸もいるんですよ」。二人の会合はなごやかなうちに終った。日本の借金まみれの財政や将来を憂えていた細川さんは、税の直間比率の見直しも含め、大胆な財政建て直しを野田さんに期待していたと思う。
この会合から民主党代表選までの2カ月間、細川さんと小沢一郎さんとの会合をセットしたり、私は野田さんの票集めに奔走した。そして紆余曲折はあったが、野田内閣が誕生した。
それから1年3カ月後の2012年11月14日、野田さんは安倍晋三・自民党総裁との党首討論で突然、2日後に解散すると表明した。私はすぐさま、東京10区の江端貴子さんら民主党候補の応援準備を始めた。その時は、まさか私まで立候補することになろうとは知る由もなかった。
第46回衆院選の公示日は12月4日。その5日前、民主党の選対委員長、鉢呂吉雄衆議院議員から電話があった。
「候補者が決まっていない空白区がいくつもあって、突然の解散でパニックでね。円さん東京8区に出てくれないかな。とにかく空白区をうめておかないと、東京は特にあぶない。18区の菅さんまで落選しそうなんだ。菅を助けると思って出てください。頼みます」
2010年参院選で落選した後も、千代田区の一番町に事務所をかまえ、私設秘書を3人抱え、後援会も毎月開いていた。その日は後援会メンバーが10数人が集まることになっていた。聞くと即座に「出るべきだ」という。
東京8区は杉並区全域。人口約55万人。大学時代とジャパンタイムズ勤務時代にアパート暮らしをしたことがあるが、生まれ育った土地ではなく、学校縁もない。頼りは「女性のための政治スクール」に通っていた現職、元職の区議3人。そして、杉並に住む友人や知人。みんな知り合いの名簿をもって、公選ハガキ書きに集まってくれた。大あわてで荻窪駅前に選挙事務所を借り、突貫工事でポスター・チラシをつくった。
12月16日の投開票。民主党は大惨敗した。選挙前の議席は230だったが、獲得議席は57。173人もの現職議員が落選した。東京の小選挙区で勝てたのは、7区の長妻昭さん、21区の長島昭久さんだけ。菅直人さんや海江田万里さんも、なんとか比例で復活する始末。
8区はと言うと、当選した自民党の石原伸晃さんが13万2521票で、私は5万4881票。他は山本太郎さんが7万1028票、共産党候補が2万3961票だった。5日間の準備と本番の12日間だけで、5万票以上なら、次はいけるのではないか。私の支援者はみんなそう踏んだ。
一番町の事務所をたたんで、杉並区の荻窪に事務所を構え、区内をまわり始めた。2年後の2014年12月14日衆院選は、7万まで票をのばしたが落選。この選挙で民主党は選挙前から10議席増の73議席にとどまり、代表だった海江田さんが比例復活もできずに落選するという状況で、2012年に次ぐ大惨敗といってよかった。東京の小選挙区で勝てたのは8区の長妻昭さん一人。比例復活は松原仁さん、菅さん、長島さんの3人だった。
そんななか、党が私に「総支部長をおりてほしい」と言ってきた。その時の代表は岡田克也さん。幹事長は枝野幸男さん、選対委員長は玄葉光一郎さんだ。なんでも、次期総選挙の時点で70歳を越える候補者は公認しないことを党で決めたという。枝野さんや岡田さんも了解ずみだと言う。
これに、私の後援会だけでなく、これまで支えてくれていた樋口恵子さんや赤松良子さんらが怒った。
「68歳なんてまだまだ若い。高齢者より若者優先というのもわかるけれど、高齢者の知恵と経験は大事。何より男性と違って、出産・子育てもあって女性が政治の世界に入るのは遅いから、それを考慮して、男性と同じ年齢で切るのはやめるべきだと思う」と先輩たちは口をそろえた。
おまけに、その後、私と同年齢の男性の元職が公認に。話が違う。要するに、「女の年寄りはいらない」というのか。「こんな“排除の論理”おかしいわよ、記者会見で異議申し立てをすべきよ」と、みんな怒っていた。私も悔しかった。さらに支持者たちは言った。「枝野の恩知らずめ」
日本新党の公募に枝野さんが応募してきた1993年、最後の面接と演説に残った枝野さんが、「僕の演説きいて直してくれませんか」と言うので、リハーサルをしたことをみんな知っていた。さらに公募に合格した枝野さんの選挙区に、「人も集まらないところに行くのは気が進みません」という細川代表を説得して、何度も入ってもらうという“えこひいき”を選対本部長だった私がやっていたことも。
しかし、私は記者会見を開かなかったし、SNSなどで党を非難もしなかった。民主党は往時の勢いをすっかり失っていた。副代表もつとめた愛着のある民主党への支援者たちの失望を、これ以上大きくしたくはなかったのだ。
翌2016年3月27日、民主党は維新の党との合流に伴い民進党と改称、結党以来18年の歴史に幕を下ろす。
2019年5月1日、令和が始まった。平成の30年が終わった。平成29(2017)年9月25日に小池百合子さんが希望の党を立ち上げたことも、排除された枝野さんらが10月2日立憲民主党を結党したことも、数年前のことなのに、今では遠い日の出来事のような気がする。
そして今、2022年秋。円安・物価高、ウクライナ・台湾問題と、金融も経済も国際環境も厳しい状況を迎えるなか、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)問題や安倍元総理の国葬問題もあって、岸田政権の支持率は低迷している。にもかかわらず、頼りになる野党の存在が見えない。
平成の政治改革が追求した二大政党制は、平成と共に去ってしまったのか。
細川護熙さんが日本新党をおこしたのが1992年。ちょうど30年前だ。1993年には小沢一郎さんが新生党を、武村正義さんが新党さきがけをつくり、同年8月には38年間、政権の座にあった自民党が下野した。平成で言えば5年だ。その後、小選挙区比例代表並立制が成立。二大政党制への道を歩み始めたかのように見えた。
野田総理の突然の衆院解散と民主党の大惨敗で、野田さんへの恨みつらみは多大なものがある。だが当時、民主党政権はすでにレームダックの状態。選挙での勝利は覚束なかった。なぜ、翌年の任期満了を待たずに、解散をしたのか。
この年の夏、社会保障を充実させるために税制改革を進めるという、民主党・自民党・公明党間で三党合意が行われた。これは政権交代を実現した民主党の選挙公約・マニフェストに反して、消費税をあげるというものだ。
党首討論で「解散します」と野田さんが言った時、自民党に消費税を上げさせるための足枷(あしかせ)をはめたと解釈する人がいた。どのみち民主党は選挙に勝てない。ならば、三党合意を次の自民党政権でやらせると約束させるほうがいいと、野田さんは考えたのではないかというのだ。
安倍さんの自民党に消費税を上げてもらい、次の選挙で民主党が勝つ。そうした形で3~4年おきに二大政党がのどちらかが政権を握る。そんな絵図を、野田さんが解散宣言をした時に予想した人がいる。しかし、現実には安倍自民党の「一強」となり、民主党は消えてなくなった。
国の政治がこのように推移するのなか、女性たちと政治との関わりはどう変わったのだろうか。
1993年3月にスタートした「女性のための政治スクール」は1期1年。他に合宿や出前スクールも開いた。参加者は1500人ほど。100人以上が議員になった。2000年代、自民党からのジェンダーバッシングで女性政策は停滞したが、それでも2018年には政治分野における候補者男女均等法も成立した。女性たちの運動のたまものである。
政治とは関係ないと言う女性は多く、議員の成り手も決して多くはないが、「私たちの声を代弁する人が必要」という声は、この30年間で確実に高まっている。それをいち早く、20年も前に声をあげるだけでなく実行した人がいる。平井久美子さんだ。
埼玉県日高市で生協活動を中心に地域の課題にとりくんできた平井さんは、活動を通じて政治を変えなければいけないという思いを募らせていた。「女性の声、生活者の声を議会に届け、日高市をより住みやすい町にしよう。そのためには女性議員を増やそう」と2003年、「みんなの会in日高」を広川ちえ子さんらと共に立ちあげ、その初代代表となる。
日高というのは、上皇陛下が天皇であられた2017年9月、ご夫婦で私的な旅行をされた高麗神社のある町だ。神社のある場所は、668年に唐・新羅に滅ぼされて日本に亡命してきた人たちを、朝廷がここに移住させたという由緒ある地だ。
平井さんは市川房枝記念会や「女性のための政治スクール」に通って政治の基礎を学ぶかたわら、日高市議会の傍聴を8年間も続けた。広川ちえ子さんを2003年に日高市議に送り出し、2009年の補欠選挙では田中まどかさんを市議にした。2011年には自らも市議選に出て初当選。「みんなの会in日高」の市議は3人になった。
3期目を前に、平井さんは大きな決断をする。それは、県議選への挑戦だ。
2019年春の統一地方選。私は日高まで平井さんの応援に駆けつけた。上皇陛下ご夫妻が訪れられた高麗神社にお参りもしたかったこともあるが、なにより厳しい県議選に挑戦する平井さんの心意気を良しとしたからである。
埼玉県では52の選挙区のうち1人区が27選挙区ある。全国でも2番目に多く、割合も首都圏でトップという土地だ。1人区や2人区は、どうしても第1党が有利になりがちで、挑戦する人間が出てこない。そのため、埼玉では常に全有権者の3分の1近くが投票する機会を持てない。
有権者の権利を奪っているようでは、本当に町のため、県のために働こうという議員も育たない。そう考えた平井さんは、現職の自民党県議を相手に定数1の西8区日高市に立候補した。当選は叶(かな)わなかったが、一石を投じた意味はあった。日高では久しぶりに有権者が県議選の投票権を持てたのである。
補選で日高市議になった田中まどかさんは、現在4期目だ。
全国にあるNPO「子ども劇場」の日高市と飯能市の500人の会員組織で役員をやっていた田中さんは、行政とのやりとりが多く、行政の融通の利かなさをいつも腹立たしく思っていた。「あなた、市に腹立ててるんじゃない?」とずばり突いてきたのが平井さんだった。
平井さんは、そんな市の行政をかえるためには、市議になれと言った。資金は「みんなの会in日高」で出すという。 反対だった夫の説得もしてくれた。2009年の補選に立候補して、見事に当選。
「演説なんてできないというと、平井さんが原稿を作ってくれ、演説の練習をしたんです」と笑う田中まどかさんだが、今では演説は堂に入っている。質問の回数も多く、議会報告の会報誌を全戸に配布する。SNSなどの活動も活発だ。
ところが、そのSNSに「隣席の議員さんは予算の質疑なのに、予算書の1頁も開こうとしない」と書いたことが問題視され、議員辞職勧告されてしまった。それでも、支えてくれる市民は多く、しっかりと議員活動を続けている。
広川ちえ子さんは「みんなの会in日高」の1人目の市議であり、今も「みんなの会in日高」を代表として支えているが、来年の統一地方選では、田中さんを孤立させないような人を、議会に送り出したいと考えている。
広川さんは平井さんと共に市議会の傍聴に通った。また、田中さんらと3人で「女性のための政治スクール」にも通い、政治の「いろは」を学んだ。
もともと生活クラブの組合員で、食の安全について市議会に請願をしたことはあったが、政治と自分を結び付けることはなかったという広川さん。それが、平井さんの熱意に押され、普通の女性の声の届く市政が必要だと思うようになった。
生活クラブは食品の配送をしているが、どこに高齢者が多いか、子育て世代がどの辺りに住んでいるかがわかり、地域活動に有効と平井さんが話すのを聞き、常に地域活動で市政を良くしたいとの構想を持っていると、平井さんに全幅の信頼を寄せる広川さんである。
この連載の14話「ジェンダーバッシングやバックラッシュにめげない世代が日本を切り開く」で紹介した永野ひろ子さんは、「出産議員ネットワーク」をつくり、どういう立場でも、妊娠出産を安心してできるようすることを目指して活動をしているが、自らの選挙の時には、乳飲み子と2歳の子を抱えて「死ぬ思いをした」と言っていたし、名切文梨さんもポスター貼りの最中に破水して出産という経験をしている。女性は、妊娠出産・子育て家事で、思うように選挙活動や議会活動ができない現実がある。
鎌倉市議の藤本あさこさんは昨年2021年4月の市議選で初当選した。その1年前から「女性のための政治スクール」に通い、血気盛んだった。
「政治という、ルールを決める場所に多様性が存在していないことはおかしいでしょ」
「どんな課題があるかを見つけ、問題の本質を明らかにし、課題解決のアクションにつなげていくことが使命だと思うんです」
スクールの講義のあとのお茶会では、いつも元気はつらつとしていて、こういう人が議員になるといいなと思っていた。
地元の友人のカメラマンやデザイナーとチラシを作成。鎌倉と大船の駅頭で配り始めたら、「冷蔵庫に貼ってます!」という人もいて、反応がすごく良かったという。「お前になんか政治はできないよ」とか「あなたが出るの」とからまれたり、嫌味を言われることもあったが、ともかく当選。
子どもは、選挙の1週間は横浜の実家に預けた。その母に次回の選挙でも同じサポートを期待できないと藤本さん。だからこそ、子育て中の女性でも選挙に挑戦できるようにと、今夏の参院選に立候補した女性や「Stand by Women」代表の女性と、「こそだて選挙ハック!プロジェクト」を立ちあげた。
議員として活動するためには、ブレーンやスタッフの助けが必要だ。選挙で当選したからといって、すぐさま議員の仕事ができるわけではない。投票するだけでなく、支持した人たちが議員を育てていくことが必要だ。
「みんなの会in日高」は、多くの市民や先輩議員たちが、ブレーンとなり議員を育ててくれ、スーパーバイザーとして相談にものってくれる。藤本さんも、そのはつらつとした元気さと人脈を活かし、選挙だけでなく、議会活動を支えてもらえる仕組みをつくり、多様性のある政治をさらに目指してほしいと思う。
8話「バーバラ・リー米下院議員の勇気に励まされ~米同時多発テロ後の世論の中で」で紹介したアメリカのバーバラ・リー下院議員は、2001年9月11日のアメリカ同時テロ事件の後、時のブッシュ大統領が出した、議会にかけなくても戦争のできる、いわば白紙委任状の法案にたった一人反対した女性で、非国民と糾弾され、銃社会のアメリカで長く命を狙われていた。
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