牧原出(まきはら・いづる) 東京大学先端科学技術研究センター教授(政治学・行政学)
1967年生まれ。東京大学法学部卒。博士(学術)。東京大学法学部助手、東北大学法学部教授、同大学院法学研究科教授を経て2013年4月から現職。主な著書に『内閣政治と「大蔵省支配」』(中央公論新社)、『権力移行』(NHK出版)など。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
小泉・安倍両長期政権後の政権はなぜいずれも短命なのか。どうする岸田政権……
2000年6月19日、竹下がこの世を去った。森喜朗政権の下での衆院選の最中だった。森は同年4月、在任中に倒れた小渕恵三首相(5月14日に死去)の後継として首相に就任したが、委譲が竹下派幹部で占められた自民党幹部によって“密室”で決められたことから、成立のプロセスが不透明だとして政権の正統性に疑問をもたれていた。
以後、「竹下抜き」の日本政治は迷走と再建を繰り返す。裏を返せば、竹下が君臨した時代は、竹下の状況掌握力と竹下派幹部の行動力とが、政権運営を支えていたと言える。
それは、竹下以前の田中角栄の時代も同様だった。田中は「総合病院」と称された派閥に幅広い分野の族議員を抱える一方、各議員の動向は秘書などを通じて掌握し、選挙では抜群の強さを誇った。田中・竹下派は自民党政権の中軸であった。
もっとも、田中はロッキード事件に、竹下はリクルート事件に見舞われるなど、ともに「政治とカネ」にまつわる闇を抱えていた。政治状況を強力に掌握するために多額の政治資金を集めたのは確かで、カネの出所についての疑惑も絶えなかった。
とはいえ、田中や竹下が自民党と政権の“奥の院”に座した時代は、国会運営と選挙をこの二人が担い、内閣の運営に難があった場合は、「キング・メーカー」として後任総裁の選定に強い影響力を発揮した。善し悪しは別にして、こうした軸があったからこそ、自民党は内閣の運営に巧拙はあっても、党から政治全体を仕切ることができたのである。
そうした構図は竹下の死後、変容していく。立役者は小泉純一郎であった。
小泉は森の後任の自民党総裁を選ぶ選挙で、経世会をバックに本命視されていた元首相の橋本龍太郎を破り、総裁に就任。小泉政権を組織した。森政権は、首相自らの失言や不祥事で、一時は内閣支持率が10%を切っていたが、その担い手は竹下なき後の経世会だった。
首相になった小泉は「自民党をぶっ壊す」と公言し、経世会(旧竹下派)の政権運営に頼らず、発足したての新しい省庁体制を率いて、構造改革を旗印に官邸主導による政策推進を目指した。小泉の金看板であった郵政民営化が参議院で否決されると、衆議院を解散して信を問うという奇策に打って出ることもあった。
小泉首相のこうした「のるかそるか」の政局運営は、国民に新鮮味を持って受け取られ、支持を集め続けて5年5カ月の長期政権となったのである。
問題はその先だった。後継となった第1次安部晋三政権は、小泉政権の構造改革を継承しつつも、ワーキングプアの出現といった新たな社会問題に有効な手を打てないまま、「戦後レジームの脱却」という首相個人の思い入れにこだわった。結局、野党第1党の民主党が“発掘”した「消えた年金問題」に対処できずに支持率を減らし、参院選の敗北と首相の体調不良によって1年で瓦解(がかい)した。
その後の福田康夫、麻生太郎の両政権は、それぞれなりの小ぶりの政策構想はあったものの、小泉政権ほどの支持を集められず、政策革新を十分果たせないままいずれも、やはり1年で総辞職した。
まとめると、小泉内閣はリスクの大きな政策革新に「のるかそるか」の構えで取り組んで国民の支持を集め、結果として長期政権となった。一方、その後の三つの政権は時代が求める政策課題を見つけられず、国民の支持を失って短期間で崩壊していった。それが長期政権の後に続いた政権の実態であった。