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自民党よ、三つの「歴史の教訓」を思い出せ!~岸田内閣の惨状を前に 

類いまれな権力維持の生命力に赤信号。政権党そのものが制度疲労の極?

曽我豪 朝日新聞編集委員(政治担当)

自由民主党本部=東京都千代田区永田町、朝日新聞社ヘリから

 議会制民主主義に依って立つ国家において、日本の自民党は類いまれな権力維持の生命力を示してきた。

政府権力の中枢を握り続けた60年余

 1955(昭和30)年の保守合同による結党以来、自民党が68年の歴史の中で政権につかぬ野党であった期間は、細川護熙・非自民連立政権下の1年と、民主党政権下の3年半しかない。平成期のこの5年弱を除く60年余の間、単独か連立かは別にして、自民党が政府権力の中枢を握る寡占体制が続いてきた。その結果、霞が関や経済界にとどまらず、業界団体や宗教組織に至るまで、持ちつ持たれつの利権構造もまた、政権党の手で脈々と「世襲」されてきた。

 むろん、英国の保守党が昨年陥った混迷一つとっても、政権党を直撃する受難の厳しさは論を俟(ま)たない。トラス前首相は大型減税で世論を喚起しようとしたが、反発を受けて撤回を余儀なくされ、担当閣僚に詰め腹を切らせたものの、政権の求心力を回復できないまま退陣した。議会制民主主義の母国にあって史上最短政権という汚名を負った。

 英国のEU(欧州連合)離脱問題にせよ、欧州など各国が困窮する難民問題にせよ、あるいは世界を覆うコロナ禍やウクライナ危機にせよ、明快な処方箋(せん)など描きようもない現実を前にしながらも、民意は不満や怒りを政権党にぶつけずにはおかない。ポピュリズム(大衆迎合主義)の様相が深まるなか、選挙も一時の風を煽(あお)って対決構図ばかりを際立たせ、民意を統合する機能を喪失して分断を加速する道具と化したかのようだ。

 だが、この十年、自民党はひとり、そうした喧騒(けんそう)から無縁の存在に見えた。2012年に返り咲いた安倍晋三政権は7年8カ月の長期を誇り、さらに菅義偉氏から岸田文雄氏へと首相を繋いで、一昨年の衆院選と昨年の参院選を制して自公連立政権を安堵させた。

 思い返せば、2006年に第一期の安倍政権が誕生して以降、福田康夫、麻生太郎両政権まで自民党の3人の首相が次々と1年前後で退陣し、09年の民主党政権誕生に対して世論が高支持率で応えた際には、自民党政権の時代が終焉するとも目された。岸田政権も、安倍、菅両首相の唐突な辞任の後だっただけに、衆院選での苦戦が予想された。そうした懸念をことごとく覆し、政権党としての復元力を見せつけたのが自民党であった。

支持低迷、起死回生策なし、サミット後退陣……

 それが、今日の惨状はどうであろう。

 岸田内閣の支持率は低迷し、自民党内には起死回生策が見当たらないとする悲観論が蔓延(まんえん)する。今年5月の広島サミット後に首相が退陣するとの「花道論」まで取り沙汰される有り様だ。

 昨年夏の参院選以降、安倍氏の国葬から防衛増税の提起に至るまで、断行と逡巡(しゅんじゅん)を繰り返す岸田「政権」の混迷が世論の離反を招いたのは間違いない。ただ、世界平和統一家庭連合(旧統一教会)問題は、被害者の存在を等閑視して選挙利益を最優先させた「党」の積年の宿痾(しゅくあ)が問われている点にこそ本質がある。防衛増税にしても、政権が「党高官低」に染まるなかで、世論の離反を危惧した党側の抵抗により、増税時期の決定が先送りされて混迷に拍車がかかった結果、内閣支持率が続落するとともに、増税への反対意見が急増する逆効果を生んだ。

 一連の辞任問題も、根っこは同じだ。とりわけ、現職の総務相や衆院法務委員会理事が政治とカネの問題を巡る不祥事に塗(まみ)れたのは、政治資金収支報告制度の根幹を、内閣と国会の番人が踏みにじる無頓着さを示すものだ。政治改革の成果を掘り崩す有り様は自民党の体質と無関係とは思えず、事実、閣僚辞任や議員辞職によっても内閣支持率低迷に歯止めはかからない。

閣議に臨む岸田文雄首相=2023年1月17日、首相官邸

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自民党支持の釜の底はいつ抜けてもおかしくない

 現在の世論の不安と不満は、説明の努力を怠り、つまり国民・有権者の理解や共感を得ようとしないまま、不祥事への対応はおろか、戦後の安全保障政策の一大転換まで拙速に済ませようとする政権党の独善性に向けられたものに相違ない。

 確かに、世論調査の政党支持率によれば、野党に比して自民党にはなお一日の長はある。だが、「支持政党なし」とする無党派層の極大化と内閣不支持の高止まりを見れば、消去法的な選択でしかない自民党支持の釜の底がいつ抜けてもおかしくはなかろう。

 看板である「聞く耳」の不発を指摘する声が多いが、岸田政権の存亡を問えば済む話とは到底思えない。自民党という政権党そのものが制度疲労の極に達したのか否か。それを問う局面である。過去30年余りの歴史から考えてみたい。

歴史を画する危機だった89年参院選の大敗

1989年の参院選で大勝利をおさめ、笑顔を見せる社会党・土井たか子委員長(中央)自民党は歴史的な惨敗を喫した=1989年7月23日、東京都千代田区

 冒頭で、自民党には類いまれな権力維持の生命力があったと書いた。だが、むろん途絶しかねない危機は幾度もあった。とりわけ34年前、1989(平成元)年7月の参院選での大敗は、まさに歴史を画する危機だった。その年の4月に政治記者となったばかりだった筆者にさえ、一時代が終わるとの実感があった。

 衆参がねじれて、4年後の1993(平成5)年に非自民勢力に政権を奪われる遠因となっただけではない。昭和の自民党の権力維持システムが制度疲労の限界に達したことが白日の元に晒(さら)された点こそが、深刻だった。

 参院選を控えた89年4月、消費税導入とリクルート事件に対する反発から内閣支持率が一桁台にまで下落する状況を前に、竹下登首相は退陣を表明した。2カ月弱の調整を経て自民党は、外相だった宇野宗佑氏を後継に選ぶ。事件との関係性が薄く、直後のサミットへの対応にも適任と思われ、中曽根派のナンバー2ということで急浮上した。

 根回しは、引責辞任するはずの竹下氏が主導し、「竹下裁定」と呼ばれた。総裁選挙も行なわず、両院議員総会で起立多数により選出されるという党内融和に偏した形だった。まさしく「疑似政権交代」である。

 昭和の自民党はこれを効果的に使ってきた。1960年代には、安保紛争で倒れた岸信介首相の後に所得倍増を掲げた池田勇人首相を登場させた。70年代には、金権問題で辞任した田中角栄首相の代わりに、「クリーン三木」と称された三木武夫首相を選んだ。

「疑似政権交代」が通用しない時代に

 党の「顔」と主要政策、あるいは政権イメージを替えることで世論の批判をかわし、危機を党内の「コップの中の争い」に止めるのに格好の方策だった。しかし、平成の日本は、そんな弥縫策(びほうさく)が通用しない時代になっていた。

 宇野氏が、自身の女性スキャンダルもあって参院選で大敗、退陣したのが一つ目。宇野氏の後、竹下派が清廉さを買って担いだ海部俊樹首相が、政治改革法案の廃案を契機に衆院解散を断行しようとして竹下派に見放され、辞任に追い込まれたのが二つ目。海部氏の後、竹下派はまたぞろ宮沢喜一氏への首相交代を策したが、政治改革を旗印に小沢一郎氏らが竹下派と自民党を割った結果、衆院選で過半数を回復できぬまま、党史上初の政権下野に陥ったのが三つ目である。

察知できなかったより深刻なもう一つの危機

 筆者はその間、竹下派の担当記者として、いわば「危機管理屋」とでも言うべき権力派閥の強かな政局運営を目撃した。三度の首相交代はもちろん、海部政権下では小沢幹事長の剛腕の下で1990年衆院選を制して小康を得た。また、国会対策を屈指して野党の公明、民社両党と自公民の国会多数派を形成し、衆参のねじれにもかかわらず92年に宮沢政権下でPKO(国連平和維持活動)協力法を成立させた。

 だが、権力派閥の強大化が極まる一方で、自民党にはもう一つのより深刻な危機に対する敏感な「耳」が欠けていた。政治改革に本気で取り組まぬ政権党に対して、世論がマグマのように溜めた失望と怒りを察知できなかったのである。

 前述した宮沢政権下での平成5(1993)年衆院選で、自民党が党分裂による失地の回復に失敗したのは、政治改革の旗を掲げた日本新党や新党さきがけなどの「新党ブーム」に遅れをとったからだ。衆院選後の連立政権協議で日本新党、さきがけの2新党を非自民側に抱き込まれて下野に追い込まれたのも、自民党が政治改革の具体策と意欲を欠くと、細川護熙・日本新党代表らに見透かされたためだ。

 自民党が想起すべき第一の歴史の教訓はここに明白だろう。疑似政権交代や多数派工作など手練手管で政権を維持できたとしても、政治不信の高まりに鈍感な政権党は最後に世論から見放されるという高いツケを払うことになる。令和5年の今も、自民党が同じ鈍感さに陥ったままでいる限り、平成5年の蹉跌(さてつ)に至る過ちを繰り返さずにすむ保証はない。

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政治改革から実利を引き出した自民党

 だが、政治とは皮肉なものである。

 自民党長期政権の断絶が生んだ平成初期の政治改革には二つの目標があった。政権の意思決定を迅速に押し進める「政治主導」と、政権交代を可能にする「二大政党制」である。

 当時、世界では米ソ二大国の冷戦構造が壊れて地域紛争が多発し、日本経済も低成長を余儀なくされていた。米国の傘の下で経済成長のパイを分配すれば済んだ時代は終わり、「コップの中の争い」にとどまる擬似政権交代では、時代に適合する果敢な政策変更など望むべくもないと思われた。二大目標は明らかに昭和の自民党政治に対するアンチテーゼだった。

 にもかかわらず、政治改革の成果から一番の実利を引き出したのは、非自民勢力でなく自民党であった。長期に及んだ小泉純一郎政権、第2次以降の安倍政権がその典型だ。

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