山口代表は「中道」について積極的に発言をし、行動を起こすべきだ
2023年01月21日
昨年末に自公政権が決定した「安保関連3文書」について、23日に開幕する通常国会での国会論戦が始まる。本稿では、与党内の議論を通じてあらためて浮上してきた「中国脅威」論をどう考えるかを切り口に、日本の安全保障の現状について私見を述べ、中道主義の公明党の立ち位置について考えたい。
ロシアの「ウクライナ戦争」が、上述の安保3文書における日本の防衛についての認識に深く影を落としていることは言うまでもない。第一文書の「国家安全保障戦略」では、中国、北朝鮮、ロシアの3カ国を名指しして、それぞれの軍事力を、「挑戦」(対中国)、「脅威」(対北朝鮮)、「懸念」(対ロシア)と、違った言葉で受け止める姿勢を明文化した。
このうち中国を「脅威」としなかったのは、公明党が反対したからであり、対中弱腰姿勢の元凶として、一部メディアが批判した。
細かな経緯は別にして、中国の軍事力が一貫して増強され、周辺各国地域との間で、トラブルを起こしているのは事実である。とりわけ、台湾をめぐる強硬姿勢は北東アジアの不安を掻き立てる要因であり、日本としても強い関心を持たざるを得ない。
だが、そうだからといって、中国を敵視することに熱を上げることが事態の改善に役立つのかどうかと言えば、それは大いに疑問であろう。わざわざ中国を「脅威」の存在と表現して北朝鮮と同列にするよりも、対ロシアも含めて差異化することに“それなりの知恵”を感じる。
もっとも、日本が隣国との関係を表現する言葉の使い方について、先方はこちらが意識するほど感じていないとの見方もある。「脅威」も「挑戦」も「懸念」もまったく変わらないと、日本の自意識過剰を笑う向きもある。
ただ、ひとつ言えるのは、一方的な思い込みを排して、いかなる事態にも対応できるよう、軍事力を含めての常日頃からの用意を怠らぬことが大事だということであろう。と同時に、市民レベルの相互理解に努めることも大切だと思う。
安保3文書に関する今回の与党間協議で「反撃能力」保有を公明党が容認したことについて、「すんなり過ぎる」とか、「平和の党」らしからぬ行動だといった批判がある。政権与党として、ほぼ20年の歴史を持つ公明党は、一国の防衛という「統治能力」に、それなりに磨きをかけてきている。そのことを勘案しない浅薄な批判というほかない。
安保法制関連法が2015年に成立した際、公明党は「集団的自衛権」の行使をめぐって新たに「3要件」を作り、厳しい自制を課した。憲法9条の枠を超えることのないように自らの手を縛ったのである。今回もまた、与党間交渉で公明党は歯止めを付け加えることにこだわった。
反撃能力については、「相手からミサイル攻撃がなされた場合、相手からのさらなる武力攻撃を防ぐため、我が国から有効な反撃を加える能力」と定義した上で、「攻撃を防ぐのにやむを得ない必要最小限度の自衛の措置」と厳格な条件も加えて、「憲法及び国際法の範囲内で、専守防衛の考え方を変更するものではなく、先制攻撃は許されない」と明記した。
もちろん、そう書き込めばそれで終わり、ではないの当然である。かつて冷戦時代にも、公明党は「ソ連脅威論」との言葉を使わず、「米ソ対決の脅威」論を掲げ、積極的な平和構築外交の展開を主張した。いま「異次元の冷戦」期を迎えるなか、中国、ロシアの両国をいたずらに敵視せず、かつての手法に倣って“NATO・中露対決の脅威”を強調するべきではないか。
民主主義国家群と権威主義国家群と二分化したところで、分断を助長するだけに過ぎない。世界はかつての覇権争いではなく、無極化の方向に流れているとの見方も有力である。そうした状況では、国家の枠組みを超えた市民の連帯を本気で考えることこそ、「核の危機」に右往左往するよりも切実な人類的課題ではないか。
こうした時代に日本はいかに行動するべきなのか。私は、反撃能力を含めた文字通りの最小必要限の軍事力を持ったうえで、米国にも中国にもおもねらない独自の外交姿勢を貫くことに尽きると思う。
新年元旦のNHKテレビで「混迷の世紀 2023年巻頭言 世界は平和と秩序を取り戻せるか」という番組を見た。フランスのユベール・ヴェドリーヌ元外相が、かつてイラク戦争当時に「フランスはアメリカと友人で同盟国だが、同調はしない」との方針をとったことに触れていたのが強く印象に残った。
「同盟関係について日本も議論を深めるべきだ」とも言い、「日本の独自の姿勢をアメリカに認めさせられるかが大事」と提言していた。そうは言っても、ヨーロッパの中核で核保有国であるフランスと極東の対米敗戦国日本とでは、歴史的な立ち位置が違う。同じようには論じられないのも事実である。ただ、私の心に元外相の言葉はかすかな痛みを伴って響いた。どうしてか?
当時、日本の小泉純一郎政権は、サダム・フセインのイラクが大量破壊兵器を隠し保有しているとの立場を取り、米国の参戦要請に応じた。小泉政権の与党として公明党も自衛隊派遣を容認した。
もちろん、自衛隊の活動は後方地域・人道支援に限定したもので、直接戦闘に関わったわけではない。自衛隊員に犠牲はなく、多大な貢献をしたとの評価を関係各国から受けたのは僥倖(ぎょうこう)だった。
しかし、後に大量破壊兵器保有の事実はなく、誤った情報に踊らされたことが明らかになった。公明党の機関紙に、イラク糾弾と自衛隊派遣の正当性を宣揚する論考を書いた私は自らの誤りを恥入り、後味の悪さを覚えた。フランスの元外相の“成功体験”に基づく日本への提言を聞きながら私は、あの頃、独自のスタンスで、米英の戦争に反対し抜いた、かの国が眩(まぶ)しく見えたことを、苦い記憶と共に思い出したのだ。
確かに、核兵器保有国が近在にひしめいている環境のもと、同盟国の核の傘に入らざるを得なかったこれまでの日本の歴史は認めざるを得ない。だが、自ら核保有をすることも、未来永劫に核の傘に入り続けることも、どちらも認められない。
目指すべきは「核廃絶」である。それに向け、世界唯一の被爆国として、国際社会に独自の立ち位置を発揮していくことこそ至上課題である。その手立ては、公明党の掲げる「中道主義」にこそあると私は思う。
1月6日付けの毎日新聞の「記者の目」で、公明党担当の畠山嵩記者が「反撃能力 公明党の容認 防衛政策の難しさ説明を」という見出しの興味深い論考を書いていた。
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