鈴木邦男の正体は「右」か「左」か~「反米」「反共」「愛国」のあわいを生きた言論人
ほとばしる情念の魅力と危険を熟知しつつ、テロを防ぐ「対話の効用」をあえて選んだ
石川智也 朝日新聞記者
右派を代表する論客として知られた鈴木邦男(本稿では敬称を略させていただく)の訃報が流れたのは1月27日だった。
以来1週間、その死を惜しむ声は左派護憲リベラルからばかり挙がり、右翼から届く声は、控えめに言っても冷ややかなものが多かった。
「脱右翼」したリベラル言論人?
右派にありがちな「言論より行動」を否定し、テロを支持しない姿勢を鮮明にしていた。表現の自由を訴え、「愛国心の強制はいけない」と教育基本法改正に反対し、「自由のない自主憲法より自由のある占領憲法を」と言い続け、呼ばれるのはいつも護憲派の集会……。
朝日新聞や週刊金曜日にも、好々爺然とした表情の写真とともに自由主義擁護のご意見番として度々登場した。
そんな後半生の軌跡は、一見リベラルそのもののように見える。

鈴木邦男さん
私自身が鈴木と初めて会ったのは2008年春、ドキュメンタリー映画『靖国 YASUKUNI』上映中止問題の際の取材だった。
この問題は、2019年の「あいちトリエンナーレ」問題と同様、内容を反日的と聞いた自民党の国会議員らが公的助成を問題視して試写を求めたことが発端だ。その動きを第一報として大きく報じたのが朝日新聞で、その記事を書いたのが私だった。
上映予定館への右翼団体員らの抗議が相次ぎ、封切り5館がすべて上映を取りやめた。日本新聞協会や日本ペンクラブなどが次々と表現の自由の危機を訴える声明を出し、社会問題化した。
そんななか、鈴木が顧問を務める一水会(木村三浩代表)をはじめ大日本朱光会や同血社など民族派団体が、「右翼全体が上映を潰したと思われるのは迷惑」「反日映画かどうかは、まず観た上で観た人が判断すべきだ」として、右翼向けの上映会を率先して開いたことは、重要なエポックとなった。
作品をめぐる訴訟や議論はその後も続いたが、上映館も徐々に戻り、表だった抗議はなくなった。実は当時、初報から署名記事を書いていた私には不穏な封書も届いていた。心中で勝手に鈴木らへの恩義を感じた。
以来、思想・良心や表現の自由の問題が持ち上がるたび、鈴木に話を聞きにいくことが習慣のようになった。

右翼団体による映画『靖国 YASUKUNI』の試写会終了後、感想などを話す参加者= 2008年4月18日、東京・新宿
同じように2年後、日本のイルカ漁を告発した米映画『ザ・コーヴ』が、「主権回復を目指す会」やネトウヨの抗議で次々と上映中止に追い込まれた際、鈴木は抗議集団の隊列に自ら割って入り、「君たちがやっていることはただの弱い者いじめだろう」と叫んだ。
こんな時には決まって「おい、鈴木! テメェなんて右じゃなく左だろうが!」「文化人を気取りやがって」と怒号が飛んだ。顔を殴られて出血した鈴木はその夜のトークイベントで「警察がいたので殴った男を逮捕してくれるかと思ったら、ティッシュをくれただけだった」と苦笑して会場を沸かせた。それはすでに、後年知られる姿だった。
しかし、鈴木は、死してなお右翼の多くが批判するような「物わかりのよい軟弱なリベラル言論人」に成り下がったのだろうか。ほんとうに「脱右翼」したのだろうか。
浅沼事件と三島事件の衝撃
鈴木は、1960年と70年という「安保」の年に起きた二つの事件、すなわち浅沼稲次郎刺殺事件と三島由紀夫自決が、自らを民族派の活動に引き込んだ巨大な「体験」だったと、様々なところで語ってきた。
あまりに有名な三島事件と比べて、その10年前に起きた浅沼事件はほぼ忘れられ、検証の動きも絶えている。しかし右翼の間ではなお、浅沼を凶刃で襲った少年山口二矢は三島と並び神格化されている。
日米安保条約改定をめぐり左右対立が激化した1960年。5月にデモ隊が囲む国会で条約は強行採決され、警官隊との衝突で東大生・樺美智子が死亡した。なお世情が混沌とする10月12日、東京・日比谷公会堂では、解散総選挙を控え、自民、社会、民社の3党首立会演説会が開かれていた。
登壇した浅沼稲次郎・社会党委員長(当時61)が演説をはじめて20分ほど、壇上に駆け上がった17歳の山口二矢が浅沼に突進した。隠し持っていた短刀は左脇腹を突き、よろめいた巨体をもう一閃襲った。

3党首公開演説会で演説中の浅沼稲次郎・社会党委員長に短刀で襲いかかる山口二矢=1960年10月12日 、東京・千代田区の日比谷公会堂
現行犯逮捕された山口は「日本を赤化から守りたかった」などと供述。3週間後、警視庁から東京少年鑑別所に移送されたその晩、歯磨き粉で壁に「七生報国 天皇陛下万才」との言葉を残し、首つり自殺した。
事件は多くの者を触発し、大江健三郎はわずか3カ月後に傑作『セヴンティーン』を発表する。
仙台市の高校2年生だった鈴木も、同い年の山口の行動に動揺した。山口はテロに及ぶ前、「すべてが天皇に帰一する」と説く谷口雅春の著作を読んで迷いを振り切ったという。鈴木は、その谷口が創始した宗教「生長の家」の信徒だった。
「自分と同い年の者が、なぜ国のため、天皇陛下のために命をなげうつことができたのか」という自問を繰り返した。負い目すら感じた。
直後の春休みに上京し、山口が属していた大日本愛国党の総裁・赤尾敏を訪ねた。「日本の共産主義化を防ぐ」という言葉は当時、いまでは考えられないリアリティを持っていた。

自決直前、自衛隊員らを前に憲法改正などを訴える三島由紀夫=1970年11月25日、東京・市ケ谷
63年に入学した早稲田大では、圧倒的な勢力だった新左翼と敵対。生長の家の学生団体を核とした愛国運動を進め、各地の民族派学生を糾合した「全国学協」の初代委員長となる。新左翼セクトや全共闘との激しい暴力の応酬もあった。
しかし内紛から委員長を解任され、挫折感を抱きつつ産経新聞社の販売局で働き始めたころ、三島事件が起きる。
三島の死以上に、ともに市ケ谷の陸自総監部に立てこもった「楯の会」学生長・森田必勝(まさかつ)の割腹自殺に衝撃を受けた。大学で2年後輩だった森田を民族派運動にオルグしたのは、ほかならぬ鈴木だった。
三島の私兵集団「楯の会」は、それまで右翼の間では「作家の道楽」「売名行為」と揶揄の対象だった。鈴木は、25歳で自死した森田への負い目をも強く抱くことになる。
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