鈴木邦男の正体は「右」か「左」か~「反米」「反共」「愛国」のあわいを生きた言論人
ほとばしる情念の魅力と危険を熟知しつつ、テロを防ぐ「対話の効用」をあえて選んだ
石川智也 朝日新聞記者
「新右翼」は何が「新」なのか
一水会を立ち上げた鈴木を非合法活動も辞さない民族派運動に突き動かしたのは、赤軍派など当時の新左翼セクトへの対抗心だけでなく、山口や森田同様に「命を賭ける」敵の姿勢に美学を感じたからでもあった。
東アジア反日武装戦線〈狼〉〈大地の牙〉〈さそり〉の連続企業爆破事件(1974~75年)のメンバーが逮捕後に服毒自殺したことに心打たれ、1975年に『腹腹時計と〈狼〉』を出版し新左翼への理解を示した。

「東アジア反日武装戦線」によって爆破された三菱重工本社ビル前で、負傷者を搬送する救急隊員ら。この爆発で同社の社員や通行人ら8人が死亡、380人が重軽傷を負った=1974年8月30日、東京都千代田区丸の内
「左右接近」とメディアで話題となり、鈴木たちは「新右翼」と評された。そして「旧」右翼からは「左翼かぶれ」「敵に塩を送る裏切り者」呼ばわりされるようになる。いまに至る鈴木への右派の一部の不評は、このあたりから始まっている。
そもそも鈴木は学生時代から信仰心に基づく愛国・救国運動をやってきただけだけで、自分が「右翼」だという自覚はなかった。「新右翼」の命名者である評論家の猪野健治によれば、その定義は「民族派学生青年運動を通過してきた反体制・反権力志向の諸潮流に連なる運動家」ということになる。
少し解説が必要だろう。
私たちが「右翼」と聞いて抱くイメージの多くは児玉誉士夫による。政財界の黒幕と呼ばれ鳩山一郎や河野一郎と気脈を通じた児玉は、60年安保の際、警察力不足を補いたい政権側の要請に応じるかたちで、全国の右翼団体や任俠系団体の動員に協力した(実際には、予定されていたアイゼンハワー米大統領訪日が中止になったため計画は白紙になったとされる)。時の首相岸信介と児玉は、A級戦犯容疑者として巣鴨プリズンで共に過ごした間柄だった。ふたりは同じく巣鴨の「獄友」だった大物右翼の笹川良一、そして統一教会の文鮮明らと結んで後に「国際勝共連合」をつくることになる。

ロッキード事件裁判の初公判後、東京地裁を出る児玉誉士夫=1977年6月2日
鈴木の目からすれば、戦後の右翼の大半は、戦前右翼がもっていた「革新」性やアジアとの連帯を失い、財界やアメリカとの距離も失い、体制化していた。だから、これまでとは違う「反体制」の「新」右翼という呼称は、鈴木にも違和感はなかった。
「反共」はもちろん大きな旗印ではあった。ただ、それはレーニン主義や中国共産党に対すという意味であり、農村の窮乏への悲憤から決起した戦前の超国家主義者の系譜では、むしろ社会主義や反資本主義への志向が強かった。北一輝や大川周明も、元々はマルクス主義に共鳴していた。財閥など「君側の奸」を一掃して「一君万民」の理想社会を実現しようという昭和維新の運動は、階級闘争だったとも言える。左派との違いは、極論すれば、天皇の超越性を拠にするかしないか、のみだった。だから、三菱や三井系大企業を襲った〈狼〉たちに鈴木は同情を示したのみならず、根底で同志意識を抱いた。
戦後右翼のほとんどが「親米」の立場を取るなか、鈴木たちは本来右翼のものだったはずの「反米ナショナリズム」を左翼から取り戻す細い道を進んだと言ってもよい。
口では「日本を取り戻す」と言いながら真に自立独立を望まず、サンフランシスコ講和体制のうち不都合な部分(=侵略戦争での敗戦国という刻印)を意図的に見て見ぬふりする一方で、同時にスタートした安保体制という戦後レジームを「保守」し続ける。新自由主義に抗するどころか棹さす。そんな歴代政権こそ、鈴木にとっては倒すべき「体制」だった。

60年安保闘争で国会議事堂を取り巻くデモの参加者たち=1960年6月11日