大井赤亥(おおい・あかい) 広島工業大学非常勤講師(政治学)
1980年、東京都生まれ、広島市育ち。東京大学大学院総合文化研究科博士課程単位取得退学。博士(学術)。現在、広島工業大学で政治学講師を務める。著書に『ハロルド・ラスキの政治学』(東京大学出版会)、『武器としての政治思想』(青土社)、『現代日本政治史』(ちくま新書)。
※プロフィールは原則として、論座に最後に執筆した当時のものです
ラディカルな変革と穏健な「緑の成長」は相いれないのか?
日本政治はその展望が見えず、与野党の対立軸は漂流を続けている。先行きの見えない時代にあって、人々はその不確実性に耐えられず、未来を示す大きなビジョンへの渇望が高まっている。
このような渇望は、与党への不満はもとより、明確な対立軸を示せない野党へのいら立ちとして現れている。メディアや評論家の論調を見れば、野党に長期的な将来ビジョンを提示せよと要求する論説が繰り返されている。
現在の論壇にあって何かしらのビジョンを示す議論があるとすれば、その筆頭格は斎藤幸平氏の主唱する脱成長コミュニズムであろう。脱成長コミュニズムは、ポストモダンの席捲以来、久しぶりに出てきた「大きな物語」といえる。
本稿は斎藤の主張に即して脱成長コミュニズムの内容を吟味し、それが日本社会を導くビジョンたりえるかを検証したい。
SDGsは「大衆のアヘン」であるという挑発的文言から始まる『人新世の「資本論」』(集英社新書、2020年)は、資本主義の限界を警鐘しつつ、後期マルクスのなかに定常型社会への視座を見出し、それを気候変動に応用する警世の書であった。人間への搾取を尽くした資本主義が、今や地球環境の掠奪を通じて気候変動を引き起こしているという問題提起は重く受けとめられるべきである。
同時に、斎藤のポレミックな議論の底流にあるのは、おしなべて、「穏健な政治改良」と「ラディカルな社会変革」とを対置させ、「前者では不十分だ、大胆かつ野心的に後者の革命に乗り出さなければならない」という発想の型である。
このような二項対立に則り、SDGsに対して脱成長が、気候ケインズ主義に対して革命的コミュニズムが、議会政治に対して社会運動が、リベラルに対して左派ポピュリズムが、ピケティに対してエコロジー的に再解釈されたマルクスが対置され、前者の生半可さに対して後者の力強さが浮き彫りにされつつ、読者はその力強い筆致とともに「ラディカルな社会変革」へのインスピレーションへと誘われることになる。
このような問題設定が閉塞した思想状況を活性化させ、私たちの政治的想像力を豊かにしてくれる意義は大きい。しかし、斎藤の議論に感じる難点は、そのエッジの効いた問題提起のあまり、あたかも「穏健な政治改良」と「ラディカルな社会変革」とが両立しないもの、二者択一のごとく提示される点である。
転じて、議会政治を通じてグリーン・ニューディールを進めるような具体的改革は無意味で不必要だといったメッセージになりかねない。そうであれば、その議論は「ラディカルな社会変革」をもたらすどころか、ただでさえ困難に直面する「穏健な政治的改良」さえをも萎えさせる機能を果たしかねないであろう。
以下では、第一にグリーン・ニューディールと脱成長コミュニズムとの関係、第二に「政治主義」と社会運動との関係をめぐって、斎藤の主張に対して率直に疑問を投げかけることによって、議論を深めるための材料としたい。