温厚で厳正な人柄、公正、公平に徹した仕事ぶりで激動の政治を支え……
2023年02月10日
“影の総理”とか、“もう一人の総理”とも言われることがあった元内閣官房副長官の石原信雄さんが1月29日、96歳の天寿をまっとうして鬼籍に入った。
昭和から平成にかけて、副長官の在職期間7年3カ月は歴代3位。支えた内閣は、竹下登、宇野宗佑、海部俊樹、宮沢喜一、細川護熙、羽田孜、村山富市の7内閣に及び、歴代トップであった。
私の議員歴は決して長くはなかったが、宮沢、細川、村山の3内閣において、たまたま首相や官邸との関わりが深く、石原さんと共に首相を支える立場にあった。
石原さんは、その温厚で厳正な人柄と公正、公平に徹した仕事ぶりから、官邸の守護神とでも呼びたくなるような人であった。だからであろう。どんな非常時にあっても、官邸にはどこかのどかでさわやかな空気が漂っていたように思う。
石原さんとは数多くの思い出があるが、いまも忘れられない石原さんの「満面の笑み」がある。それは私にとっても嬉しいことだったので紹介しよう。
ひとつは、宮沢内閣に代わって細川内閣が発足した直後のことだ。
当時、自民党を離党して新党さきがけを立ち上げ、非自民連立の細川内閣に参加していた私は、首相の細川さんから「宮沢先生にお会いしてお聞きしたいことがあるので連絡してください」と言われた。
宮沢さんは、私が自民党の頃に所属した宏池会の会長で、親しく指導していただいていた。さっそく連絡をすると、「私もぜひお会いしたい。直接、(総理の)お耳に入れておきたいことがあるので」と言う。
細川内閣の発足は1993年8月9日。それからほぼ1週間後の17日、夏真っ盛りの軽井沢の緑陰で、新旧二人の首相の会談が実現。国の重要案件が、官僚が介在することなく引き継がれた。ホテルの一室での会談に私も同席したが、和気あいあいの中にも緊迫感が漲(みなぎ)っていたのを覚えている。
この会談後、帰京して官邸で石原さんに会ったとき、それこそ満面の笑みを浮かべて近づいてきて、「良かったですね」と話しかけてきた。嬉しかった私は握手で応じた。思えば、石原さんと握手をしたのは、その時だけだと思う。
私は、それまでの経緯から、石原さんの笑顔のわけが手に取るように理解できた。それはこういうことだ。
細川内閣ができたとき、真っ先に決めなければならないのは、霞が関の官僚を束ねる事務の官房副長官であった。石原さんを高く評価していた細川さんは、どうしても石原さんに続投してほしいと願っていた。
ところが、私がそんな細川さんの強い意向を伝えても、石原さんはどうしても首を縦に振らない。困り果てたものの、私には石原さんの気持ちも分からないではなかった。
それまで石原さんは、竹下さん以来、4人の首相に副長官として仕えてきた。もちろん、いずれも自民党内閣である。ここで自分が政権交代をした非自民の内閣で副長官を引き受ければ、世間はどう思うだろうか。それが、躊躇(ちゅうちょ)させた一番の理由だろう。
もう一つの理由は、前首相の宮沢さんを石原さんは格別に尊敬し、信頼していたことだ。その宮沢さんが退陣する時に、自分が副長官を続けるわけにはいかないという気持ちだ。
石原さんの説得にはかなり手間取ったが、最終的に引き受けてもらえたのにはいくつか理由がある。
官僚は人事権者の意向には従わなければならないということがひとつ。そして、構造汚職にまみれた自民党がこのあたりで「野に下る」ことも必要だという思いもあったではないか。くわえて、細川護熙という気鋭の政治家に対する強い期待感もあった。
しかし、石原さんが渋々ではなく、積極的に引き受ける気になったのは、先述した軽井沢でのさわやかな「宮沢・細川会談」の映像を見たからだろう。
宮沢さんは常々、こう語っていた。「政権交代は風通しが良くなる。長い間、与党が代わらないと、党と官僚との間で秘密ができる」と。そんな癒着を嫌うところに、宮沢さんの真骨頂があった。
軽井沢での二人の爽快な会談を目にして、石原さんはヒザを叩いたに違いない。それは、私との握手の強さからも確かに伝わってきた。実際、石原さんはその後、波乱に満ちた細川内閣を全力投球で支え続けた。
石原さんが副長官を受諾した理由をもうひとつ加えるならば、上司にあたる官房長官に、自治省での後輩である武村正義さんがなったことだろう。旧首相官邸の同じフロアに官房長官と副長官の部屋はあったが、この「先輩が後輩を支える」という体制も1カ月もたてばすっかり板についてきた。
もうひとつの忘れられない「満面の笑み」はそれから1年後だ。
細川政権が94年4月に総辞職。後を継いだ羽田内閣はほぼ2カ月の短命に終わり、6月末に自民、社会、さきがけ(自社さ)の三党連立による村山富市内閣が成立した。石原さんは、羽田内閣に引き続き村山内閣でも留任になったが、自民党が加わる政権だけに、それほど抵抗はなかったはずだ。
三党連立と言っても、首相が社会党なので、官房長官も社会党の五十嵐広三衆院議員が務めることになった。もし、議員が就く政務の官房副長官が社会党になったら、官邸内の政治家は社会党一色になってしまう。
さきがけを代表して私が「組閣本部」になった総理室に入ろうとすると、石原さんが真っ先に私に近づいてきた。待っていたのだろう。その意味を私は十分に承知していた。
私が小さい声で、「副長官は(さきがけの)園田博之でいきます」と耳打ちすると、次の瞬間、あの「満面の笑み」を浮かべたのである。
有料会員の方はログインページに進み、朝日新聞デジタルのIDとパスワードでログインしてください
一部の記事は有料会員以外の方もログインせずに全文を閲覧できます。
ご利用方法はアーカイブトップでご確認ください
朝日新聞デジタルの言論サイトRe:Ron(リロン)もご覧ください